幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(3)
其 三
島木は偉そうにする訳でもなく、相手をみくびるでもなく、ただ、したたかな放肆児が、一家の長に対して何の遠慮も無く、自分勝手に泣き笑いでもするように、しかも、小児らしい顔に微笑を浮かべて、
「ハハハ、日方までが拝聴と吐かしおったな! 大体貴様は人は好いが、我ばかり強くって思いやりが足りない。この思いやりの足りない手合いが、他人の恋愛の談などには、とかく納得しかねるものだ。線のない家にゃ、電話は通じない。思いやりの足りない奴らにゃ恋愛は解せない。そこへ行っちゃぁ乃公なんぞは、身に経験があって、同情が強いから、ツーとい言やぁカーと合点がいくので、初心な水野の譚なんざぁ、いくら彼が心の奥に秘していても、深い井戸の底を鏡で照らして見て取るように、訳もなく見抜く。本来、恋ということが罪悪じゃぁあるまいし、日方のような暴論の愚論……」
と言いかけた時、日方は堪えられず、
「何だ、暴論だと! こりゃぁ怪しからん。貴様も恋愛の奴隷臭いぞ。身に経験があってとは何たる寝言だ。聞き苦しいことを吐かさず、さっさと水野のことを話すが可い」
と怒鳴りつければ、島木はいよいよ笑い傾き、
「安心しろ日方! 乃公ぁ恋愛の奴隷にゃならねぇ。乃公ぁ女に惚れるが、恋は芽生えねぇ。ヘン、惚れられて惚れられて、恋というものぁこんなものかと知ったんだからナ。アハハハハ、どうだい奴さん、いかがでござる! そこで惚れられて惚れられて悟ってみると、水野を弁護するという訳じゃぁないが、恋は人間の情の自然の発動で、何も咎め立てをすることはありゃしない。日方にゃぁ日方なりの愚論もあろうが、乃公ぁ恋に迷ったあの水野を憫然だたぁ思うが、悪かぁはねぇ」
と言えば、島木には次を継がせず、日方は目を剥き、
「馬鹿野郎ッ」
と、烈しく罵った。激越な一声には気合いが籠もって、聞く者の心底に響き徹った。
「マア待ちたまえ」
「争っちゃいかん」
と口を衝いてでた山瀬と羽勝の二人の言葉は、一言、一言バラバラに断る間もないくらいに巧く続いて、咄嗟に緊しく制止すれば、流石に日方も羽勝を憚って、何か言おうとして止めたが、眼にはまだ角を立てて島木を睨む。と、それをすかさず、
「そら、また馬鹿野郎がお出でなすった。ハハハ、いくら罵られても相手にはならねぇ。貴様は乃公に楯を突いても、乃公ぁ貴様を生呑みに呑んで、それで腹にも障らねぇからナ」
と、島木が冷ややかに一矢報いると、
「何だ? 呑んでいる? よし、仮に呑まれたって鉄釘がどうなるものか! 曲がりもしないわ! 丸くもならんわ!」
と日方はまた直ぐに熱して答える。
悠然と笑みを含んで、羽勝は静かに、
「可いさ、二人とも、もう可いさ。ハハハ、互いにそのくらい威張ったら可いじゃないか。島木は日方に構わないで、僕に話すつもりで話してくれたまえ。日方はまた島木には構わないで、僕に交際って聞いてくれたまえな。つまり、お互い水野のことが知りたいのだからネ」
と優しく制すれば、
「ヤ、済まなかった、僕が悪かった」
「アア、そう言われりゃ乃公も下らないことを言った」
と日方も島木も争いを止めて、誰も勧めないけれど、同じ思いである双方は一時に酒盃を交わして、笑ってしまえば痕跡もない。
島木は今度は少し真面目に、羽勝の方に向かって話し出した。
「一同も知ってる通り、あの水野は我達の中では一番年下。乃公が今年二十七だから、七、六、五、四と下がってちょうど二十四だ。宇都宮から東京へ上る時にも、一番先に出たのは羽勝だったが、一番後へ残ったのは水野だった。若いのに似合わず能く出来たから、君は若いけれども、学業が出来る、早く東京へ出て身を立てれば可いと、勧めたのは乃公一人ではなかったが、いや、小生の志すところはちと違うから、そう急がないでも可いのだ。他の人は一日遅ければ一日の損、少しでも早く上京すれば可い。と妙に片意地に謙遜して出ず。二番目に出たのが日方、山瀬、それから名倉、それから楢井、それから乃公で、その後から彼がやっと上京した。そのくらい妙に固いところのある男で、東京へ出てからも、一同は誰しも身を立てようとその道に打ち込み、随分骨を折ってそれぞれに辛くも出世もして来たのに、あの男だけは澄ましかえって、今でも小学教師に甘んじている。それで惰けているのかと思えば、一寸の暇も惜しんで勉強をして、あらゆる分野に精通している。僕は一生をかけてこの世の中に、ただ一篇の詩を留めれば可いのだ。今はその準備に勤めているので、他に慾もなければ望みもない。半熟なものを世に出して、今から文人の顔をするのも恥ずかしいから、もう十年ばかりは小学読本いじりで、ただただ勉強をするつもりだ。と、隠君子(*1)気質でこれまで来たのは羽勝はじめ、一同も知っていよう。ところでこの乃公は金儲け主義、卑しい奴だと言って一同から罵られたくらいだから、守るところのある浪人肌の水野と気の合う訳はちっともないが、他の五人は上京して、二人だけ宇都宮に残った時、彼が熱を出して臥せったのを介抱して、長い間看護をしてやった。それが鎖になって、こっちへ来ても取り分け二人は親しくしていた。しかし、乃公ぁ俗物、水野は仙骨(*2)。こっちは跳んだり跳ねたりして、藻掻いているので、なかなか往き来することも多くはなかった。さぁここで、白状しなけりゃぁならないが、ちょうど一昨年の暮れだった。実はこの俺が一発狙って、危ない橋を渡る軽業をやったところ、運悪く、可厭な目が出て、甘く行きゃぁ問題はなかったのだが、ぶっ壊れたんで、たった五十円ばかりの有る無しで首へ縄の掛かりそうな機会になってしまった。そもそも投機を始めたその時から、乃公ぁ危ないことをする代わりにゃぁ、乃公が一六勝負(*3)を止めない内は、金銭に関わることでは、決して一同に苦労は掛けないと誓言を立てた手前があるから誰にも言えず、思案に余って独言のようにその訳を水野に話してみると、手箱の底から書いたものを出して、これを山瀬君に頼んで売ってもらったら、それくらいの金は出来るかも知れない、出来たら使いたまえという話。当てにはならないと思ったが、山瀬に頼むとそれが出来て、それで大いに助かった。その味を占めたというのではないが、その後も種子を耗ったその時は、三度くらい助けてもらって、持ち矢を次々と放った末、どうやらやって行ける身体になった。そこで水野に対って乃公が言ったのは、もらったものを返そうとは言わないが、金が要る時は何時でも言いたまえ、乃公の懐中にあるものなら洗け出すから、とこの春に遇った時言っておいた。ところが金を使う水野ではなし、ただそれきりで済んでいたが、この夏になってやって来て、真っ赤な顔をしてきまり悪そうに、三十円ばかり貸して欲しいと言ったのが最初で、その後も、ぽつりぽつりと持って行く。それが乃公がピンと来たはじまりだった。
*1 隠君子……俗世を離れた徳の高い人物。
*2 仙骨……世俗を超越したような人物。
*3 一六勝負……サイコロ博奕のように、運任せの冒険的な勝負。
○ 文中、必要と思われる語句には(*)により注を付けた。
○ 貨幣について。本小説では「両」が用いられているが、「円」に統一した。明治の初期に「新貨条例」が交付され、一両は一円と定められたことによる。
つづく