幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(2)
其 二
薄墨を刷いたような夕の色は物陰から広まって、からりと晴れやかだった建物も、手許がしだいに暗くなり、何処へ帰るのか鵜の鳥が浪を摩って飛ぶ羽音も寂しげである。右手には高輪、八ツ山、品川が一続きし、森も人家もただ一筆のなすり書きのように黒んでいる。左手に低く見える築地月島、洲崎が微かになって今まさに見えなくなろうとする時、そこに大電燈が白々と輝き出せば、此家にも燈火が華やかに点いて、室の内がぱっと明るくなり、逆に窓外の海は真闇で何も見えず、風も睡っているような穏やかな夜となった。
日方が急き込み調子に物を言っても、ことさらに冷静さを崩さない山瀬荒吉は、言い争うともしないで、やや少時の間、何事かを思い巡らしていたが、今ちょうど燈火の光が灯ったことで、心の中に探していた言葉の緒を探し当てたようである。逸りきった日方の強い怒りを帯びた顔をも愛するように打ち見やって、
「マァ坐ってくれ、日方! なるほど、打っ棄っておいては水野のためにはならんから、君と一緒に訪ねて行って、大いに忠告も試みよう。しかし、水野の所は随分遠い。連れてくるにしても時間がかかる。もうこの通り夜になっているので、連れて来たところで話す間もない。第一そうでなくっても、七人の中、三人が欠けて、四人しかいないこの席を、君と僕と二人抜けてしまえば後はどうなる。羽勝君と島木君のたった二人だ。今日の客である羽勝君を島木君とたった二人にしてしまって僕らが出て行くというのは勝手すぎる。それではあんまり失礼になる。ここを無理に君と二人で出て行ったら、水野にはなるほど親切にもなろうが、羽勝君には失敬に当たろう。元々君が怒り立つのも、つまりは水野が羽勝君に対する仕方が冷淡だ、というのだろう。羽勝君に満足を感じさせないそれが憎むべき我が儘だというのに、今僕等がここを去っては、ただ淋しさを増すばかりで、羽勝君はいよいよ面白くなく感じよう。今日はもう十分に談笑もして、大分酔いさえも廻っている。談話のついでから、ふと水野のことが出て、初めて君はそれを聞いたところから、大いに忌まわしくも感じたろうが、何も今が今でなくちゃならんということではないから、彼を訪ねるのは明日でも明後日でもということにして、その時は、恋愛嫌いの君は存分に諫めるとも、撲るともするがよかろう。今日は先ず堪忍して一同と共に飲んでいてくれたって可いではないか」
と、他の言うところは斜めに外らせて、自分の言うところは斜めに徹す知恵者の顔は笑みを湛えて、巧みに粗忽な相手を制すれば、実直一本やりの日方は脆くも、羽勝を重んずる情から、
「ムー、この席が淋しくなる? ア、そこはちっとも気がつかなかった。なるほど、今すぐ引っ張ってこようと言ったのは、俺が悪かった。こいつは一本山瀬にやられた。ハハハ。どうも山瀬は俺より怜悧だ。ハハハ」
と、まったく我を通すこともなく笑って済ませ、晴々とした顔付きになった。その胸の内に何も残さない様子は、たとえば風が過ぎて、林が自ずから静まり、雲去って、山が更に青くなるようある。そして、例の癖でもあるが、
「ヤ、ところで、羽勝君一盃くれ給え」
と言い出した。羽勝は機嫌好く盃に注いで、
「相変わらず君は君の気風で押し通すナ。どうだ軍隊の生活は? 居心地は好いかネ」
と懐かしげに問えば、
「ムム、そうさな、快活なことばかりという訳にも行かん。僕等の身分では結構箱詰めになるのを甘んじなけりゃぁならんこともあるが、それが即ち規律で、規律が即ち精神であると、まぁ、そんな風に考えていりゃぁ、別に窮屈にも感じない。ホワイトシャツを着慣れてみると、あの硬いものを身につけるのが、却っていい気持ちにも思えて来る。ちょうどそれと同じことで、馴れてみると厳粛な中には快適さもあるから、僕はまあ不愉快には日を送らん」
と答えてその盃を飲み干した。
「そうだ、規律を尊重する中には快適さがある。そして、どんな方面でも規律は大切だ。船の中などは特にそうだ。そればかりじゃぁない。僕が私かに思うには、身体を扱うのに規律がないと身体が衰える、心を扱うにも規律がないと心が歪む。そうなってくると、恋愛などというものに取り憑かれるのだ」
と言いながら徐に盃を受ければ、日方は、
「そうだ、その通り」
と悦び叫んで、自ら酌をしてやろうと徳利を挙げれば、早くも飲み尽くしていて、二、三滴のみ。山瀬は急いで手を拍いて立つ。
この時まで、にやにやと笑いながら、人々の談だけをきいていた布袋太りに肥った丸顔の眼下がりの島木は笑って、
「ハハハ、談話が固すぎるから堪らない。酌婦だって何だって、逃げたっきりだ。徳利の番兵は野暮じゃ使えねぇからな。ハハハ、何だい? 規律がないといけないって? 冗談言っちゃぁいけない。この俺の舞台に障るぜ。規律知らずの大将、実業家兼虚業家、相場師になりやがってと、一同に怒られた、ご利益は未だ蒙らないが、拝金宗の信徒の、島木萬五郎様がここにおいでなさるぜ。憚りながら俺が何時恋愛に取り憑かれた? ハハハ。そりゃぁそうと水野の談は訳あって俺が一番知ってる。どうも一同が気にしているし、羽勝の腹の中では取り分け深く心配している様子だから話して聞かそうか」
と、初めは戯れ調子だったが、終いになって、真面目に言い出せば、一同は「拝聴しよう」と声を揃えた。
つづく