幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(10)
其 十
先引きと後押しの二人の車夫によって勢いよく、矢を射るように走る相良の車は、長い橋を東に渡り、小梅にかかり、曳舟通りを真っ直ぐ北へと、夜風の少し寒い中を衝いてひたすら進んだ。道は砥のように滑らかで、人の往き来はなく、車夫が脚一杯に駈ければ、おおよそ二里を瞬く間に過ぎて、たちまち目指す四ツ木へと着いた。
病人の大切さは貧富には関わらないことだが、市街を離れた遠いところから、夜にもなるのを無理強いに強いて、我が先生を迎えるのは、田舎とは言え、定めし門構えも立派で、庭先広く、がっしりとした欅柱の太いのが、二尺も厚さのある大層高くて大きな茅葺き屋根を支えている家だろうと、車夫は心の中で想像していたが、分かりにくい闇の村径を迷い迷って、ようやく尋ね当ててみれば、これはどういうこと、寒竹の藪畳が無様に歪んだその構えの中だけは意外にも広いけれど、何もしないで開けておく地を惜しんでか、通じる路まで埋めるほどに作った芋の圃の奥に、微かな星の光を浴びて黒みがかって立っている、見るからに悲しい草の屋である。
余りにも想像していたのと違っていたのが忌々しくもあってか、車夫は遠慮もなく人力車を引き入れれば、車輪に触れる芋の葉は左右に開けて、溜まっていた露の珠はパラパラと音を立てて墜ちた。
人が居るのか居ないのか、深閑として、ただ燈だけが洩れる板戸を敲いて驚かせると、車夫の声が確かに聞こえたとなれば、何を差し置いても飛んで出て、喜び喜んで迎えてくれるはずなのに、これはまたどういうこと、沈着いた声で、
「ハア、そうですかい――」
と、田舎言葉で素気なく答えただけで、嬉しそうな顔もしなければ、招き入れようともせず、折からまだ自裂けていない大豆の莢を取っているではないか。箕を前にして、乾いた豆を弄っている婆の面は赤黄色く、焦け皺びて、髪は天蚕糸屑のように白く光るものが交じっている。年は六十くらいであろうか、面倒くさそうに身を起こして戸口に立ち塞がり、
「病人はここには居りましねえ。別室の方に寝ておりますから、直ぐにそっちらへ御座らしってください。暗くって分かりますまいが、足元は好いでがす。家にさえ沿って廻れば直でがすよ。あ、しかし菜圃へでも転げられると詰まらない、水野さんは後から来るのだったら仕方がない、妾が案内をしてあげよう。ヤ、車夫さん、提灯があるの、その提灯を妾に貸さっせえ。さあ先生さん、妾について御座らっせえ」
と、藁草履を突っかけて先に立った。相良はやむを得ず後に続いて、家の横手を斜め奥へ、こちらには燃料の柴木が積まれ、向こうには玉蜀黍の茎が乱雑に置かれなどしている間を縫って、さて、下は夏蒔きの菜の圃の中の細道が滑りやすく、上は柿の樹が何本も枝の低い所があって、帽子を引っ掛ける危ない場所を過ぎれば、前の家よりかれこれ二十間余りも離れたと思われる所に、椎の樹だろうか、真っ黒に見える丈の低い樹の大層大きなのを後ろに、僅か二室ほどの離れ屋が立っていた。
「さあ、ここでがぁす、上がって下さい」
と、婆は戸を引き開けて、つかつかと上がった。
「お前様が頼みたいと言った先生がござらしった」
と、言いながら次の室の長四畳を過ぎて、六畳の室に至ったけれど、熱が一退きした頃なのか、病人は返事もなく、音もなく眠っていた。
医師は婆に続いて上がったが、先ずこの室に籠もった不快な臭気に、不審の眉を顰めてじろりと見渡せば、広くもない一室の内はやけに明るく、病人の枕上の洋燈は何時しか燃え盛って、その火屋(*1)の上の方は真っ黒に煤け、毒々しい黒い油烟りが今や大きく舞い上がっていた。
「オーヤ、洋燈が出過ぎている! 何とマア危ないとこだった! いくら病人だからといって、気力がないといって、ハア、こんなことにしとってはいかん」
と、婆は独り言を言って、その芯を引っ込ませた。
臭気の源は大したことではなかったが、悩み疲れた後の睡っている間に、洋燈はおのずと燃え高じて、したたかに憫然なる人に悪気を吸わせただろう。相良は眼の当たりに見たこの一場面と、婆が今漏らしたその一言に誰一人看護る者もないこの病人が、何の病に悩んでいるかはいざ知らず、万般の憫然さが推し測られて、他の不遇は幾度も見ているとは言え、先ずこの同情すべき哀れな有様に心を動かされた。
*1 火屋……ランプの火を覆うガラス製の筒。
つづく