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幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(1)

幸田露伴作「(そら)うつ(なみ)」を現代語訳してみました。

本来は、原文で読むべしですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方に読んでいただければ幸いです。

この作品は露伴の他の作品よりも多少読みやすく、意味が取りやすいので、敢えて現代語にしなくてもいいかとも思われましたが、自分なりに露伴の作品を味わいたくて現代語訳を試みた次第です。


自分の訳したいように現代語訳をしていますので、厳密な逐語訳とはなっていません。意訳と言うよりも、ある意味勝手な訳となっている部分もあろうかと思います。浅学、素人訳のため、大きく勘違いしている部分、言葉の大きな意味の取り違えがあるかもしれません。その時はご教示いただければ幸甚です。


この現代語勝手訳を行うにあたっては「天うつ浪 前篇」「天うつ浪 後篇」(いずれも岩波文庫)を底本としました。

前篇は六十九節まで、後篇は七十節~百五十七節で、この勝手訳も前篇・後篇に分けて行いたいと考えています。

できるだけ継続して掲載したいと思っていますが、長丁場でもあり、途中間が空くこともあるかも知れません。その節はご了承ください。




 其 一


 秋の陽射しが海に面した建物の垂簾(すだれ)を移ろう。ばっと吹き寄せる沖の風が夕陽の余光(よこう)の美しい景色へ、この上もない爽やかな涼気をもたらせば、今まで白い帆が明るく見えていた遠方(とおく)に浮かぶ何艘(なんそう)もの船も鉛色になって、漫々(まんまん)とした(うしお)の果てに(かえ)ってもの淋しく見える。(たけ)(しば)の浦の(なみ)は今静かに、增上寺(そうじょうじ)鐘声(かね)と共に暮れようとしている。

 この(ゆうべ)のこの時、見はらしのいい建物の一室に、貸し浴衣(ゆかた)の胸元をゆたかにくつろげ、酔いに任せて豪語する大胡座(おおあぐら)の連中がいた。ただただ秋の飲酒(さけ)に酔い()れ、それ以外の事はどうでもいいと言う(つら)(がま)えばかり。「あはれ」も糸瓜(へちま)もあるものか、(しぎ)が飛んで来たら撃って下物(さかな)にするのだ、とでも言わんばかりの顔色(かおつき)の、いずれも気概溢れる酒盃(さかずき)のやり取りで、火の玉も挟んで食おうという勢いのある年格好。こっちでも壮語、あっちでも豪語、はたまた、あっちとこっちで一斉にどっと高笑いすれば、その(どよ)みの中に、間近に通る電車の音をも埋めてしまうほど、無邪気に(むつ)み語り合う四人連れである。

 陽気な歓笑(かんしょう)はひとしきり済んで、今ちょうど、談話(はなし)が少し沈んだ。

 手先や頸筋(くびすじ)に洋服の跡が判然(はっきり)と現れていて、誰の目にも船人(ふなのり)だと映る赤ら顔の、日に()けきった羽勝(はがち)千造(せんぞう)は、酒盃(さかずき)()げて一口飲んだが、不機嫌そうにまた下に置いて、

「フーム」

 とだけ力なく答え、まだその対手(あいて)が続けて何か言い添えるのを待っているような気持ちを、その語気に現した。

 羽勝に(むか)って座った小男の、(おもて)清らかな桃の花のような山瀬(やませ)(あら)(きち)は、その(こころ)を悟って(ただ)ちに言葉を足した。

「と言う次第なので、水野君は来んのさ。今話した内情も解っていたので、今日の会合の発起人たる僕は、十分に情理を尽くした手紙を()って、是非出てくるようにと勧めたんだが、ただ単に差し支えがあって行けないという冷淡極まる返事なんで、仕方がないと断念(あきら)めてしまった。実に水野君らしくもない。全然(まるで)無茶苦茶になってしまっているんだからネ」

 羽勝の顔には見る見る(うれ)いの色が現れ、その眼は深く何かを考え込んでいるように凝然(じっ)と動かない。

 羽勝の左に座って、黙々と飲んでいた骨太の頑丈作りの日方(ひかた)八郎(はちろう)は、突然(いきなり)牛が()えるように叫び出し、

「山瀬、貴様は今は堂々たる新聞記者だ。往時(むかし)のように想像話や法螺話(ほらばなし)ではないだろうな」

 と(なじ)り気味に問い(ただ)せば、山瀬はいささか勃然(むっ)として、

「日方陸軍少尉殿に伺います。報告は無責任にして、(いつわ)るものでございますか? ハハ、ハハ、ハハ」

 と、やり返して笑う。

 日方は山瀬の戯言(たわむれ)には構わず、怒ったように真面目になって、

「ムム、とすれば、本当なんだな。イヤ、()しからん、実に()しからん。何だ! 愚劣極まる! 馬鹿々々しい。ナニ? 恋愛に陥って苦悶しちょる? それで盟友の集会にも出席しないと? たッ、(たわ)け野郎め、何というこった。そんな愚かな奴ではなかったが、魔にでも()かれおったか。(くだ)らない。山瀬、貴様も幹事甲斐がない。そんな(なま)(ぬる)っこいことを言わせておく法があるかい! 襟上(えりがみ)に手を掛けて引き()って()りゃあ、一同(みんな)で引っぱたいて正気にしてやるのに。ええ、理由(わけ)を聞かないうちは知らぬが仏で腹も立たなかったが、聞いてみりゃあ馬鹿々々しくって腹が立つ。山瀬! 大体貴様が薄っぺらで、心底からの信実さが足らん。本来、我々七人はどういう交情(なか)だ。みんな野州(やしゅう)田舎漢(いなかもの)。ろくな親を持ったものは一人もなくって、我々自身も役場の書記や小学教師、乃公(おら)人力車(くるま)も引っ張った貧乏書生だが、自己(じぶん)腕臑(うですね)で食う貧乏同士。何時(いつ)となく知り合いになった七人が、男児(おとこ)と生まれてこれじゃあ死ねない、志すところは(ちが)っても互いに助け、(たす)け合って、ある時は兄となって学費も(みつ)ぎ、ある時は弟となって恩にも報い、励み合い擁護(かば)い合って進んで行ったら、世に立って生き甲斐のある身にもなれるだろうと、七人宇都宮(うつのみや)二荒山(ふたらさん)神社の前庭に集まり、この願い、この気持ちは変わらない、必ず信義を尽くし合おうと、神に誓った交情(なか)ではないか。指折り数えれば速いもので、(はや)七年の往時(むかし)になるが、それからというものは段々と、苦しい同士で無理々々のやり繰り、三人の財布を投げ出しては一人の遊学の支度を(こしら)え、五人の着物を売っては一人を世に出す本銭(もとで)とするというやり方で、ポツリポツリと皆東京へ、ようやく這いだして、それぞれの志す道へと身を入れた。こういう交情(なか)なのにどういうこった! 胸糞の悪い恋愛なんぞに水野が迷っているなら、何故打っ(ちゃ)っておく? しかも、羽勝が初めて首尾よく遠洋漁業の長い航海を終えて来た今日の欣喜(よろこび)集会(あつまり)に、自己(じぶん)勝手な女沙汰のために不参加とは、我々を踏みつけにした憎らしい我が儘ではないか。山瀬、貴様は何故打っ(ちゃ)っておく? 貴様が新聞記者になった時は、我々七人皆揃った。俺が士官候補生になった時にも皆集まって(よろこ)んでくれた。羽勝君の今日の祝賀(よろこび)の会には、(なら)()は北海道に行っており、名倉(なぐら)は病気で、二人欠けているのさえ残念なのに、水野まで来ないから、たった四人だ。第一羽勝君にも気の毒千万だ。恋愛も糞もあるものか、世間によくいる馬鹿者は知らんが、何時(いつ)でも現状に満足せず、(とど)まることなく進んでいくのを理想とした我々七人、恋愛なんぞという何とも嫌らしい湿気の虫に、魂魄(たましい)(むしば)ませている暇はないはず。まったく(しゃく)(さわ)る! 今の世の中、何を読んでも、何処(どこ)へ行っても、この頃は恋愛という奴ばかり転がっておるが、恋愛たぁ何だ? 何だ正体は? 自己(じぶん)から見りゃぁ()いか知らんが、(ひと)から見りゃぁ(あわび)を添えてやる価値(ねうち)もない、馬糞(ばふん)より劣った代物で、たかが女とイチャつくことじゃないか! 水野は顔を(しか)めるくらい酸っぱい()のように恐ろしいところのある奴じゃったが、浮世に感染(かぶ)れたのは気が(たる)んだか。打っ(ちゃ)っておいては利益(ため)にならん。直ぐこれから行って引き()って来よう。さあ、山瀬! 一緒に来い、立たんかやい。水野めを引っ張って来てここで(いさ)めて、(いさ)めて、きかなければ叩き(なぐ)って、正気に返らせてくれにゃぁならん。さあ立て、山瀬!」

 と言いながら、五分(ごぶ)の憤慨、五分の酔いで、山瀬の肩先を引っ掴み、勢い込んで立ち上がった。


つづく

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