結構なお手前でした。
「古宮蓮舟流 本家」
家の門に、立派な書体で書かれた看板が掛けられている。
春立つ二月。肌寒いが桃色の可愛らしい花が咲きはじめる二月。風は冷たいけれど、そのうちに陽気な鶯の鳴き声が交じりはじめる、二月。花も終わった椿の枝から、昨日の雨の残りがぽたりと落ちた。
この道で間違いはないはずだと、長兄から渡された地図を何度も何度も確認しながら平助がたどり着いたのは、古民家といえば聞こえのいい、野趣あふれるといえば情緒のある表現になる古い家だった。ぐるりと家の周りを見てみれば、小さいながらも池がある。物凄く場違い感を覚えながら、一歩足を踏み入れる。
……兄が茶道を習っていると聞いたのは昨日のこと。茶会があるから代わりに行ってくれないかと頼まれたのも昨日だった。茶道とは自分にとって程遠い世界のものだと平助は思っている。そんな高尚なイベントに、自分のような中学生は行きづらいとも思ったが、尊敬する兄の頼みとなると断りづらかった。それに、他の兄弟は皆予定が入っていて、動けるのは平助しかいなかったのだ。……興味がないわけでは、なかったし。
おっかなびっくり呼び鈴を鳴らしてみると、出てきたのは一人の青年だった。
「ああ、どうもこんにちは」
にっこりと笑った彼は、卵型の輪郭に、切れ長の瞳。兄と同じ二十の半ばぐらいだろうかと考える。少し癖のある髪で、どことなく猫を連想させた。美しくて物凄く優雅な猫。猫らしい猫。渋茶色の袴がよく似合う。人間離れした容貌の青年だ。
「古宮さんのお宅で間違いないですか?」
「ええ。間違いありませんよ」
まるで英語の例文をそのまま日本語にしたかのようなやりとりだった。
「あ、あの。兄の柴田一期の代わりにきました。よろしくお願いします」
深々と挨拶しながら、いやに静かだなと思った。茶会というなら、もっとお稽古する人がいるだろうに。
「あれ。一期君はどうしてます」
「兄は仕事で。部活動の練習試合の引率に行っています」
平助の年の離れた兄は、高校の古典教師で剣道部の顧問だ。栃木県の小山市周辺は剣道が盛んで、しょっちゅう練習試合に赴いている。いずれ昇竜期に出たい……というのは、兄の口癖だ。
「……そうか。しかし残念だが、茶会は今日午前中だったのですよ」
「ええっ」
「一期君からきいていませんか?」
「午後と聞いていました」
今は何時だ。土曜日の、午後二時だ。
左様ですかと言った後に、目の前の青年は今日は生徒さんの都合で急遽午前になったのですと平助に教えてくれた。また、一期君にも言ってはいたのですがねとも。
……たまに長兄はこういううっかりをやってくれる。いや、兄さんだって忙しいのだ。
しかし、それはそれとして困った。一体自分はこれからどうすればいいのだろう。失礼しましたで帰ればいいのだろうか。それは、目の前の相手に対して失礼な気がする。
「……きてくれたし、せっかくだから飲んでいかないかい?」
気まずい沈黙を破ったのは、猫のような青年の気まぐれな一言だった。
*
青年の名前は翠と言った。宝石のヒスイの翠と同じ漢字で、同じ読みだと丁寧に教えてくれた。代理な上に大幅に遅刻してきた身なので断ったら失礼だろう、というのもあったが、一番は兄が習っているものを少しでも触れてみたいという好奇心もあった。
通された部屋の特徴を見てみると。
六畳ほどの広さ。青草匂う畳。書画の掛け軸の前には、紅梅が活けられている。……なんていうんだっけ、こういう造りの部屋。兄さんが詳しかったはずとだと平助は頭の中の辞書をめくる。国語の授業で習った。書院造だ。
「表千家とか裏千家とかと比べると、うちは超小さい流派でね。小堀遠州流と間違える人もいるんだよ。一応家元はじじいになっているけれど、じじいは数年前に世界放浪の旅に出てしまって。全てを任されてしまって参っているよ」
目の前のつかみ所の分からない青年が祖父(だろうと思う)をじじい呼びしているのも驚くが、それはなんともロックなじじいだと目を丸くする。書画の字が「唯我独尊」なのも、家元のじじいの趣味だと考えれば頷ける。そして翠も「参っている」と言いながら、口ぶりは呑気なものだ。
正座をして、懐紙の上の落雁を頂きながら、平助は翠が点てる様子をじっと見つめる。正座が苦にならないのは、剣道教室を勧めてくれた兄のおかげだ。しかし、苦にならないのと、緊張するのは別だ。好奇心と興味に負けたことを微妙に後悔する。
作法がどういうものか平助は知らないが、茶釜を前にした翠の動きは、何をするにも滑らかだった。茶筅がひそやかな音を立てて動く。慣れない状況に、背中から冷たい汗が出てくる。何故今、たった一人で茶のもてなしを受けているのだろう。兄の代理、兄の代理、失礼のないよう、粗相のないように……ぐるぐると考えていたら、翠が目の前にやってきた。
左に二回回して正面にするんだよ、と静かに教えてくれた。手のひらに収まった茶碗は、割ったらとんでもない額の請求が柴田家に届く気がする。それだけはなんとか避けたいと、平助は丁寧に口元まで運んだ。
……とたん、茶碗を落としそうになった。
「苦い?」
「いえ……これ、本当に抹茶なんですか? 全然苦くない」
これは無理をして言ったのではない。青汁のような、もっと飲みづらいものを想像していたのだ。実際、はるか遠い昔に、遊びに行った親戚の家で、叔父が淹れてくれた抹茶は苦かった。ついでに粉っぽかった。そしてぬるかった。ダメのスリーカードのような叔父の茶は、叔父が淹れてくれたからという理由がなければ`到底飲めるようなものではなかったのだ。
では翠が淹れてくれた茶はどうか。
湯の熱さも丁度いい。苦味どころかほのかに甘味すら感じる。落雁の甘さが残った口で飲んだからだろうか。淹れてくれた青年の名のような、完璧な翠色の液体。
今まで飲んできた「抹茶」の定義が覆される。苦くない、なんていう言葉では失礼な域。
これは、抹茶様だ。
「さて。一期君の弟くん。君とって茶道とはどんなものかな」
「ええっと」
平助は思っていたことをそのまま伝えることにした。興味が全くないわけではない。だけどやはり、自分のような中学生とは縁が薄い世界に見える。もっと人格的に高潔で、ゆとりがあり、高尚な人間が、完璧にやるものだと。多分自分には無理なのだろう。……翠はそんな平助の言葉を、何も言わずに最後まで聞いていた。
「じゃあ今度はもっと手軽にお茶を飲もうか。いいものがあるんだよ」
ーーそうして翠が取り出したのは……。
「これ、ですか……」
「最近は百円ショップで簡単に買えるからねー」
持ち手が太いのは単三電池が二つ入っているからだ。先端がくるくると回って攪拌する道具。親近感を禁じ得ない。どこをどうみてもこれは、ミルクフォーマーだ。
「いや、これバカにできなくて。結構いけるんだよ。やってみない?」
……ようするに、茶筅の代わりにフォーマーを使うのだ。
しかし淹れ方もコツも変わらない。使う前に必ず抹茶を一回茶こしでこす。これだけでダマにならない抹茶が出来上がる。確かにこれは手軽だが手軽というより……
「て、手抜き」
「発想の勝利といおうか」
笑顔で押し切られた。
他に使うのは、茶釜ではなく電気ケトル。沸かす間に必要分だけ抹茶を濾す。それには茶こしを使った。茶さじではなく小さじ。なるほど確かこれで一気に身近になる。電気ケトル。小さじ。百円ショップのミルクフォーマー。だけど抹茶を入れる茶碗は、先ほど翠が使っていた高そうなアレ。バランスが悪いにもほどがある。
電気ケトルで沸かし始めてきっかり2分。ぐらぐらに熱くなったお湯を茶碗にイン。本当は急須で一旦撹拌してから茶碗に入れた方がいいんだけどね、と翠が付け足す。
「じゃあなんでそうしないんですか?」
平助の問いに、翠は、箏の音の如き清涼な音質で、面倒だから、と答えた。
「うわっ!」
フォーマーにスイッチを入れると、お湯が飛び散る勢いで動きはじめた。持ち手がブルブルと震える。結構反動がはげしい。
元々はカプチーノを作るための道具だ。きめ細かい、ふわふわのミルクを作るための道具が勢いよく撹拌していく。機械の力は素晴らしい。素晴らしすぎて、茶碗がはげないかどうか心配になる。横着していいのか。
「蕎麦でも下手な手打ちより美味い機械打ちっていうだろう。これもそうとは言わないけれど、似ているかもしれないね」
「は、はぁ……」
翠の韜晦した口で言った言葉は、それは、素人には美味い茶は無理だからフォーマーで淹れたほうがいい、という意味だろうか。なんとも微妙な気持ちになりながらも、平助の茶は完成した。
天気もいいので、折角なので庭を眺めながら縁側で頂くことにした。それでいいのかとも思ったが、ミルクフォーマーというイレギュラーなものを既に使っているので、それはそれでありなのだろうと思うことにする。
「茶菓子も出そう。さっきの落雁じゃないやつがいいな。友人が和菓子屋の跡取りでね。たまに頼んでいないのに薯蕷饅頭とか豆大福を持ってくるんだ。今日の菓子は……」
懐紙、菓子切と準備する。
「丁度いい、うぐいす餅だ」
何が丁度いいかわからない平助は首を傾げつつ考えてみる。鶯。抹茶。和菓子。和菓子は季節も表現するという。いまは二月。節分も過ぎた。立春……。ああ。唐突に思い至る。季節に似合っている、ということだ。
透かし彫りの懐紙に載せたのは抹茶色の餅。うぐいす餅という名前に偽りがないようになのか、餅の形は鳥の鶯だ。餅の上に乗った梅の形の練り切りが、いっそうの春を手元に咲かせてくれる。翠はそれを見てあいつも粋なことをするなと笑った。
「さあ頂こう」
「あ、翠さん順番……」
さっきは菓子を頂いてから茶、という順番だったはずだ。しかし翠は真っ先にフォーマーであわ立てた平助の茶に口をつけた。一応、左に二回回すのは忘れずに。
「君も飲んでご覧」
促されるまま飲んでみる。想像したのは叔父の茶だ。嫌な苦味に粉っぽくてぬるい。が……。
あれ。すごい。自分が淹れたのとは思えないぐらい、まろやかだ。香りは勿論、先ほど翠が淹れた茶にはまったく及ばないが、粉っぽさもない。ぬるくもない。むだな苦さもない。確かにこれは……。
「不味くない……」
妙に感心してしまった。不味くないどころか、先ほど翠が淹れてくれたように、ほんのりとした甘さを感じる。まだうぐいす餅食べていないのに。
「馬鹿にできないだろう? 茶道と言うと身構えたり気負いすぎる人向けさ。気に入ったのなら、これを使って存分に茶を楽しみたまえ」
授かってしまった。ミルクフォーマーを。百均にあるのに。
平助はミルクフォーマーと猫のような青年を見比べる。先ほどは茶釜から酌み、茶筅で静かに入れていた。作法については全くわからないけれど、流麗な所作だった。でも誰でも出来るような、俗な発想も思いつく。ミルクフォーマーは百円。税金を入れれば百八円。でも、あの茶筅はいくらするのだろうか。
「僕、翠さんにさっき言ったように、茶道ってもっと高潔で人格が出来上がった人が完璧にやるものだと思っていました」
「それはそれは」
「こんな感じでやっていいんですかね」
偉い人が見たら絶対に怒るはずだ。……そのはずが、家元に近い、偉い人の筈の彼が、率先して手抜きを教えている。
「これが悪いなんてことはないだろう。あれはあれで勿論大切で、これはこれさ。私はもっと、いろんな人にいろんな場合で茶を飲んで欲しいだけさ」
あ、この人自分のこと私って言うのか、と新鮮な面持ちになる。そのぐらいの余裕は出てきた。茶碗を両手に持ち、縁側に座っているだけだというのに、とてつもなく雅やか。何故これだけで画になるのだろうか。だけど、気まぐれな親しみやすさも存在する。
必要以上に高尚だと思う必要はない、それでも肩の力が抜けきらないなら、もっと身近で楽しみたいなら別の方法もある。
遠いと思っていた世界が、ほんのすこし近くなった。
「……一期君の弟君。君の名前、何だっけ?」
菓子切りで鶯の胴体を割ると、なめらかな漉し餡が顔を出してきた。熟練された味だ。翠の茶のような。梅の練り切りは、最後のお楽しみだ。
「平助といいます。柴田平助」
「うん。平助君。古典的でいい名前だね。……けっこうなお点前でしたよ」
それは素直に喜んでいいのだろうか。だってそれは……
「それ、ミルクフォーマーの勝利じゃないですか」
「でも淹れたのは君だよ。もう一杯いただこうかな。君も飲むかい?」
菓子ではなく、本物の鶯の鳴き声が聞こえてくる。音が少し不明瞭なのは、春の訪れを空気が感じ取ってにごりを生んでいるからだ。池の表面が揺れるのを確認した後、平助はミルクフォーマーを片手に立ち上がった。