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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第2部 禁書庫の六使徒
80/112

第80話 あなたが笑えというのなら

 紳士はそれを愛おしそうに見つめ、優しく問う。


「ヴァイオリンの練習は、欠かさずしていたかね?」


「はい」


「それは素敵だ。では、アレシュのことについて報告をしなくなったのは、なぜだね?」


 あくまで優しいグリフィスの問いに、ハナは笑ったまま震えて沈黙する。

 アレシュはハナを見やり、グリフィスを見やって、何かを口にしようとして失敗する。

 だって、何を言えというのだろう。自分はハナのことは何も知らない。いつの間にかそこにいたハナを、したいようにさせていただけだ。ハナの目的も。ハナの過去も。ハナの望みも。ハナの気持ちも。何も。何も知らない。

 ハナは裸足の足音を響かせてグリフィスの元へと歩み寄ると、のろのろと視線をあげて囁いた。


「報告することが、何も、なくて。アレシュは本当にただの女好きの駄目人間で、ろくなことをしなくて。自分の力に気づいても、それをどう使おうかなんて、考えてもいなかったので。愛しいあなたのお耳に入れるほどのこととは、思えませんでした」


「ふむ、なるほど。それは確かに、そのようであるね」


 グリフィスは首をひねって思案げに言い、ふとアレシュを見つめて笑みを深めた。


「今回、君に直接会ってわたしにも得心がいった。君は世界を揺るがす力に拘泥する類の人間ではない。美を愛する芸術家だ。しかも、類稀なる芸術家。その才能は尊敬に値する。そう、このわたしにとってもね。

 先ほどの香水に名前はあるのかね、調香師?」


 彼が訊いたのは、もちろんアレシュが三日寝ないで作り出した、あの香水のことだろう。

 アレシュは胸にいっぱいに詰まった複雑な思いをもてあましながら、とにかく自分の誇りにすがって背を正した。

 調香師の客は紳士淑女だ。ゆえに調香師も紳士でなくてはならぬ――そう告げた父の言葉を思い出しながら、綺麗に塗った指の先まで優雅に一礼してみせた。


「パルファン・ヴェツェラ一〇五番。――『明後日の楽園』といったところでいかがでしょうか。明日よりはもう少しだけ遠く、しかし『いつか』と呼ぶには近い、そんな休日への期待をこめて」


 ぞんざいなほどの名付けに、しかし魔界の紳士の顔はぱっと明るくなった。

 彼は子供のように両の手を打ち付け、満面の笑みを浮かべて言う。


「素敵だ! このような繊細な仕事は、魔界でもめったに成し遂げられぬ。わたしはこの香水ひとつのために、君をひとりの紳士として認めねばなるまい。監視をつけておくなどもってのほかだ。君は何者にも縛られず、その才能をどこまでも羽ばたかせるべきである。さあ、君に人間風の友情を示そうではないか」


 グリフィスは楽しげに言い、上等な白い革手袋をした手をアレシュのほうへとさしのべた。

 迷うところではあったが、アレシュはとにかく彼の手を握る。

 グリフィスは軽くアレシュの手を握り返すと、すぐに離して自分の手袋を取り、足下へ投げ捨てた。

 ひら、と中空で手を揺らすと、彼の手にはどこからともなく新しい手袋が出現する。真新しい手袋をした手で、グリフィスは今度はハナを招いた。


「では我々はもう行こう。監視は終わりだ、ハナ。君はわたしの最愛の婚約者に戻り、急ぎ婚礼の準備をしようではないか。……と、その前に。長く世話になった紳士に、別れのご挨拶をするのだよ?」


「――いや、しかし、待ってください。ハナは」


 何を言うかも決めずに、それでもアレシュがうろたえ気味の声を出す。

 それを遮るよう、ハナの硬質な声が響いた。


「はい。大変お世話になりました、ヴェツェラ様。お体には重々お気をつけて。調香師としてのますますのご活躍を、魔界よりお祈り申し上げております。それではごきげんよう」


 なめらかな台詞と共に、ハナはくるりとアレシュを振り返って一礼した。

 ルドヴィークが穴から掘り出した、オルゴールの人形みたいな所作だった。

 アレシュが呆気にとられていると、ハナとグリフィス、ふたりの姿は急激に遠ざかり始める。一歩も動いているようには見えないのに、ふたりの姿だけがぐんぐん小さくなっていくのだ。

 まるで、図書館自体がどこまでもどこまでも伸びていき、ハナとグリフィスを遠くへ連れ去ってしまうかのように。


「――ハナ、待て、ハナ!」


 アレシュがやっと叫んだのとほとんど同時に、目の前で扉が閉まる音が響く。

 不意に世界が暗くなり、どう、と夜の風が吹いた。

 夜空に星が瞬いているのが見える。

 いつの間にやら、頭上に広がるのは本物の夜空だ。

 そしてアレシュの目の前には、白い柱が何本も並んでいる。一本一本が一抱えもありそうな柱。一瞬どこかの神殿にでも迷いこんだかと思ったが、周囲へ視線をやれればそこはアレシュの寝室だとわかった。

 屋根と壁の一面がすっかり吹き飛んだアレシュの寝室に、何本もの白い柱が出現している。それらはわずかに上下に動くと、埃のような匂いの息を吐いた。


「これ、は……牙、か?」


 アレシュが感じたままをつぶやき、目をこらす。

 けれど牙と牙の持ち主はあっという間に輪郭を曖昧にして、闇へと溶けていってしまった。最後に獣じみたうなりと埃と鉱物じみた匂いが目の前をかすめたかと、巨大な気配と白い柱は忽然と消え去る。


「……竜……?」


 つぶやくアレシュの背後から、柔らかなカルラの身体がぶち当たってきた。


「アレシュ、無事でよかったあ! あのばかでっかい竜に食べられちゃったときには、さすがに終わりかと思ったわ! やだもう、いくらなんでもあんなのが出てくるとか、私全然聞いてないぃ!」


「僕が、竜に食べられた、だって?」


 何が何やらわからず訊いてみるが、カルラは少女みたいに泣き始めてしまって話にならない。すかさずミランが横から割りこんできて叫んだ。


「竜だ、竜! まさか気づいていなかったとは言わせんぞ。どがががががーっと部屋に鼻先を突っこんできた竜が、ぐばっ! と口を開けて貴様とハナさんを食らっていったのだ。で、彼女は無事か? まさか、中に置いてきたのではあるまいな!」


 彼の言葉で大体何が起こったのかを察し、アレシュはすとんと両肩を落とす。


「置いてきては……いない」


「だったらどうなったのだ? おい、しゃっきりしろ、いざというときに女のひとりも守れずに、それでも男の端くれのつもりか! お前、あの中で何を見たのだ!」


 肩をつかんで自分をゆらしてくるミランの手が冷たくて不快だったが、アレシュは振り払うことはしなかった。

 何しろ自分の手があんまりにも重くて、そんなことはできそうにない。

 さらに言えば他のありとあらゆるところも重くて、一刻も早く座りこみたいような気分だ。

 どうしてこんな気分になっているのかわからないままに、アレシュは呆然とつぶやく。


「竜の体内には、ものすごい広さの図書館があって……その中に魔界の紳士が居た。グリフィス、って名乗ってた」


「グリフィス、ですか。竜の中の図書館とは珍しい趣味のようですが――あの竜はグリフィスの使い魔、ということでよろしいですかな?」


 さすがのルドヴィークも戸惑いを隠せない様子で、カルラとアレシュを代わる代わる眺めながら言う。

 それはそうだろう。こんなのはあんまりにも突飛な話だ。

 突飛な話だが、実際にグリフィスの話を聞いたアレシュには、もっととんでもないことまで想像がついてしまった。

 アレシュは少々かすれた声で、のろのろと言う。


「うん、多分ね。あいつは、あの竜を連れてこっちにやってきた。僕を監視してた、ハナを捜して、ね。街に空いた穴は、おそらくは竜の足跡だ」


「足跡、だと……?」


 愕然とした様子でミランがつぶやき、その傍らでぼんやりとサーシャが姿を現して囁く。


「俺と同じってこと? 魔界のものが、人間界に触れた場所だけ実体化して、街に大穴を空けたって?」


 普段は何より優先する彼の声をすら遠くに聞きながら、アレシュはつぶやいた。


「それはわからないけど、彼はハナを捜してた。そして、僕の作った香水が元で僕らの居場所がばれて――ハナはあいつと一緒に行った」


「あいつ? 一緒に? おい、どういうことだ、アレシュ! そんな説明では全然納得いかんぞ! なぜ奴はハナさんを探していたのだ? どうして香水なんかで居場所がばれた! 奴の目的はなんなのだ!」


 実際どういうことなんだろう、としばらく考えた後、アレシュはやっと適切な言葉を心の中に見つけて、ミランに向かって言う。


「……確かなことは、ひとつだけだ。僕は、彼女を置いてこなかった。僕が、ハナに置いて行かれたんだ」


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