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廃王国の六使徒  作者: 栗原ちひろ
第1部 廃王国の六使徒
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第4話 ファースト・ノートは刺激的に

 司祭はアレシュの言い分を聞いている間にじわじわと瞳をぎらつかせ、ゆるやかに両手を開いた。


「あなたは狂っている、ヴェツェラさん。どこにあろうと、罪は罪です。ひとが長きにわたって魔界の住人どもに苦しめられてきた歴史は消えません。罪を罪と思わないあなたもまた重罪人です。わたしたちに殺され、神の御許で赦しを乞うべきです。――そうであろう、神の子たちよ!!」


 低音の叫びが割れ鐘のように響き渡り、まだ動ける教会兵たちがばらばらと武器を構え直すのがわかる。ミランのまき散らした冷気は、アレシュが登場した瞬間から徐々に薄まってきていた。代わりに酷く暗くはあるが、動けないほどではない。


 ミランは彼らを睨みつけると、重い足音を立ててアレシュの前に立った。

 華奢な青年をかばうように片手を上げ、低く囁く。


「アレシュ――雑魚はこの俺に任せておけ」


「嫌だ」


 あっさり返され、ミランは顔を引きつらせて振り返った。


「貴様……! ここはもう少し感動的な台詞を吐くところだろう! この期に及んで俺が信用できないとかなんとかぬかす気か? 貴様は、弱いのだぞ!!」


 懸命に訴えるミランに、アレシュは少し目を細めて微笑む。


「お前は本当にいつまでもこの街の住民らしくならないね。お前が身を挺して僕を守る気満々なのは知ってるよ。だけどお前に任せると美しく片付かないのが、ちっとも僕の趣味じゃない」


「ばかか!! こんなときに美がなんだ!? 俺は符術に関しては天才だし、体術にも長けている。欠点と言えばちょっと冷気の制御ができないのと、あとはせいぜい寒すぎると理性が飛ぶことだけだ!」


「うん、それで、今まで何度理性飛ばしたか覚えてる? 符術は子供だったころの僕にインチキをしかけて見抜かれた程度だし、体術にいたっては僕の書斎で本を読んだだけだよね?」


「本をばかにするな! 俺が読んだのはいい本だったぞ、題名が特によかった。題名は……なんだったかな」


 ミランは大真面目に考え始めたが、皆がそれを待っている義理はない。


「進め!! 神の敵を滅せよ!!」


 司祭の号令に従い、教会兵たちがはじかれたように動いた。

 みなが武器を構える音と、硬質な足音がどっとアレシュたちに押し寄せる。

 アレシュは煙草の煙をすうっと吸ってから、短くなった煙草を床に投げ捨てて言った。


「準備はいいかい、下僕」


「愚問だ、舎弟!!」


 ミランは怒鳴り、格闘じみた構えを取る。

 対照的に、アレシュは優美に胸ポケットからレースのハンカチを抜き取った。


「――おいで、僕の闇」


 アレシュは囁き、雅やかな所作でハンカチを宙へ投げる。

 敵の何人かはその所作自体に視線を奪われ、酔ってでもいるかのように足をもつれさせた。しかし、ミランだけは正しくアレシュの行為の意味を知っている。


「おいっ、舎弟、いきなりか!?」


 叫んでから自分の口を手で覆うミランだが、一瞬行動が遅かった。

 鼻先で、やけに生臭い香りがした――と思った次の瞬間、彼の視界はぐにゃりと歪み、急に呼吸ができなくなる。


「……っっ!」


 ミランは声もなく叫び、凶暴な不快感に消化器官がいっせいに悲鳴をあげたのを感じた。自分の肺の中からむせかえるような甘い匂いがせりあがってきて、べったりと喉に張りついている。何度も何度も咳きこむが、匂いはへばりついたままだ。

 剣や銃を構えていた教会兵も同じ思いをしているのだろう、誰もが冷や汗を垂らして手から武器を振り落とし、己ののどをかきむしって床に転がり、声すら出せずにのたうった。


「いかがでしょう? パルファン・ヴェツェラ、九十番。ファースト・ノートは少し動物的、かつ刺激的に始まります」


 あっという間に立つ者がいなくなった場所で、アレシュは小さく首をかしげる。彼はそのまま辺りに視線を滑らせ、床に這った司祭を見つけて笑みを消した。

 赤い瞳がらんらんと光を放つ。

 肉食獣じみた冷えたきらめきに、司祭は我知らず、ひっ、と息を呑んだ。

 アレシュは彼を見据えたまま、ゆっくりと歩みよりながら語りかける。


「僕は昔から不思議なんですが、あなたたち聖職者って、どうして何もかもをひとのせいにするんでしょうね。殺すのは救いだとか、呪術師や魔界の人間だから殺していいとか。――僕は、聖職者のそこが、とっても嫌だ」


 司祭はアレシュから視線を外せずにいたが、そのうち奇妙なことに気づいた。己の目を信用できず、何度か瞬き、目を細める。それでも見えるものは変わらない。

 アレシュが闇を生んでいる。

 彼の黒衣から、黒髪から、にじむように黒が辺りに這い出していく。

 そうこうしているうちに、アレシュ自身がその黒に染まってしまった。顔も、体も、何もかもが黒い。まるでそこにだけぽかんと人型の穴があいているかのようだ。そんな闇が、まっすぐ司祭に向かって歩いてくる。

 司祭は目をこらす。闇の中にアレシュの姿をもう一度見いだそうと目をこらす。

 でも、いない。

 ない。

 何も、ない。

 この闇は、穴だ。虚無だ。人型の穴の向こうには何も見えない。

 司祭の視線は虚無の穴の向こうに吸い出されていく。何か嫌な予感がする。


 ぐるるるるるる。

 

 獣のうなり声。かしかしという、巨大な爪が石を引っ掻く音。

 聞こえるはずのない音が、穴の向こうから、聞こえる。

 いつの間にか全身に汗をかいているのに気づき、司祭はどうにか呼吸をしようとした。ねばつく大気を吸いこむと、生暖かい吐息の臭いがして、ざっと全身に鳥肌が立った。

 誰の吐息だ。何の吐息だ。

 生き物の吐息そっくりの風が、どう、と闇のほうから吹いて、司祭の白髪を揺らす。目の前でぺちゃぺちゃという舌の音がする。

 何かがいる。すぐそこにいる。

 硫黄の匂いを感じる。

 恐ろしいまでの高速で何やらしゃべっている甲高い声がする。

 逃げなければ、と思って必死で辺りを見回す。黒い。暗い。黒い。暗い。どこもかしこも暗い。さっきまで人型だった闇が、今は視界いっぱいに広がっている。

 司祭は何かを叫ぼうと口を開けたが、声はすべて闇に吸いこまれた。

 獣の気配に満ちた闇の中で、くぐもったアレシュの声が響く。


「自分の心は『神様』とやらに預けっぱなしで、自分の意思で殺すことも、愛することもない。だから一生傷つかない。……そんなあなたに、僕は贈り物をしたいと思います。それは、絶望。けっして神の元へ辿り着けない死。得難くて不思議な、人生の宝石」


 悪魔。悪魔。何が宝石だ、この、化け物め。

 声にならない声で司祭は叫ぶ。

 その声を聞き取ったかのように、アレシュの笑い含みの声が囁いた。


「あなたは百塔街で司祭をやりたかったんでしょう? あなたが真の絶望を知ったときにこそ、本当の意味で百塔街の門は開かれる。開いてあげます。死の間際になったら、あなたにもこの街の本当の姿が見えますよ。


――だから、もう少しだけ、ここで震えて待ちなさい」

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