第2話 この街で一番美しく、名のある無職
「……っ……!」
怒りでミランの目の前は真っ赤になる。
教会兵たちが、ミランから手を放したのがわかる。
即座に起き上がろうとするミラン。視界の端にずらりと並ぶ、回転式拳銃の銃口。
重い銃声が響いた。
巨大な槌で殴られるような衝撃。
ミランの分厚い軍用外套の背にぱっ、と穴があく。
ミランの身体は、がくん、と前のめりになり、顔面から床に突っ伏した。
二回、三回、四回。
念入りな銃撃を受け、ミランの身体は人形のように何度も跳ねる。
「……そのくらいでいいでしょう、銃弾の無駄遣いです」
司祭の指示で銃撃は止んだ。
銃声の木霊が消えると、司祭は穴だらけになったミランの背中から顔を上げた。彼は穏やか、かつ力強く言う。
「さて! 神の意志を容れぬ者は消えました。彼は生にしがみつくことが悪だと知りませんでしたが、わたしたちの聖なる弾丸で無事浄化されました。めでたいことです! 我々は儀式を続けましょう。哀れな花嫁を救い、魔界への扉たる百塔街に、我が七門教の秘蹟の蘇りを宣誓しましょう」
「――だから……つまらんと、言ってるだろうが……」
「っ、おい、生きてるぞ!!」
地底から響くような声に反応し、教会兵が叫ぶ。彼はとっさに後ずさろうとしたが、ミランが一瞬速かった。彼の指は教会兵の長靴をつかむ。
直後、黒革の長靴が真っ白になる。
霜がついたのだ。
この、初夏の教会の中で。
「っ……う、うあ! 熱っ、熱い、熱い、焼ける!!」
長靴をつかまれた教会兵は、けたたましい悲鳴をあげる。
「ひぃっ、ひぃ、熱、いや、寒い……!?」
みるみる顔が青黒く変色していく教会兵を尻目に、ミランはゆらりと立ち上がった。その顔はさっきまでとは打って変わった生気のない無表情で、瞳は白く濁りきっている。動いていなければ、まるで死体……それも、凍死者のようだった。
「構えろ! こいつも百塔街の化け物だ!! 何か妙な術を使うぞ!」
教会兵たちにおびえと緊張が走り、数十の銃口が彼のほうを向く。
だが、彼らは気づいているだろうか?
もとからひんやりとしていた教会内が、すっかり肌寒くなったことに。
「なんだ……? さむい……」
「嘘、どうして?」
まずは信徒たちがかたかたと震えだし、次に純銀の祭壇が、金色の天使像たちが、端から白く曇っていく。教会兵たちは互いに顔を見合わせ、ほう、と吐いた息が白いのに気づいて目を瞠る。
「妙な術だと? 俺のこれが、か?」
ミランは虚ろな瞳で辺りを睥睨し、穴だらけになった軍用外套を開いた。
そこには、符があった。
一枚ではない。
何枚も、何十枚も、何百枚も、毛皮を張った裏地に縫い付けてある。
それらは残らず、同じ魔法文字と文様が描かれていた。何枚かにはさっきの銃撃で穴があいていたが、ミランの身体には傷ひとつつない。
彼は陰鬱な笑みを浮かべて囁く。
「俺が今使っている術は、この耐冷の護符だけだぞ? 俺はガキのころ、魔界の大物に心臓を盗まれてな。奴は心臓の代わりに、俺に妙な石を埋めこんでいった。以来、俺に触れた人間は皆凍える。家族も、友人も、隣人も。俺が耐冷の護符を書けるようになるまで、俺の周りは死で満ちていた。死と、冷気で。……懐かしい。寒いと、昔を思い出す。……死を」
「黙れ、この、化け物が!」
教会兵のひとりがうわずった声で叫び、銃の引き金を引こうとする。
しかしその指はとうに凍りつき、引き金に貼りついたまま感覚がなくなっていた。
「あ……ああ……!」
絶望に震える教会兵を眺め、ミランは緩やかに笑って歩みよる。
手袋を外して教会兵の顔をつかむと、兵士は、ひっ、というような声を発して猛烈に震えだした。すぐに青黒く変わっていく彼の顔色を眺めながら、ミランはどことなく懐かしそうに囁く。
「貴様らの銃弾に化け物を倒す力があるのなら是非やってくれ。呪いのせいでこの身には刃も銃弾も通らんのだ。小さいころは俺も祈ったよ、神が俺を殺してくれますように、早く、一刻も早く、他の愛する人間たちを殺す前に、殺してくれますように! と。また、祈ってやろうか?」
言い終えてのぞきこんだ教会兵がとうに凍死しているのを見ると、ミランは彼をぞんざいに捨て去った。装備が大理石の床に当たってがらんがらんと派手な音を立てる。信徒たちから恐怖と祈りの声が漏れたのを聞き、ミランはすうっと息を吸って、爆笑を始めた。
「あははははははは!! できんのだろう、どうせ!! どうせ誰もこの死を止められない。どうせ誰もこの街に光をもたらせない! 誰も殺してくれないならば殺すしかない! 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す!!」
「おい、下僕」
「ああ?」
不意にすぐそばで声がして、ミランは笑いを収めた。
何度か瞬き、辺りが急に暗くなったことに気づく。おかしい。さっきまで、この教会は光に満ちていたのに。今はまるで夜の森の中のような、湿った土の臭いがする。そして、夜にだけ咲くうるわしい花の香りも。
そう思ったのとほとんど同時に、ミランの顔面に磨き抜かれた靴底が乗っかった。
「わぶっ!! ぐ、ぎ、き、貴様、一体いつの間にそこに登った!?」
ミランが混乱して怒鳴っている間に、靴底は軽やかにミランの頭頂部に移動し、むせかえるほどに甘ったるい美声を響かせる。
「お前の頭の上に登るなんて、そんな疲れることを僕がするわけないだろう。僕は出現したんだよ、闇の中から」
『彼』は言い、ミランの頭上に立って司祭たちに向き直った。
寒さと恐怖と驚きで我を失っている人々に向け、『彼』は完璧に優美な一礼をした。
「大切なお知らせがあります。この無能な下僕の活躍はここでおしまい。この先は僕、アレシュ・フォン・ヴェツェラがお相手しましょう」
「アレシュ・フォン・ヴェツェラ……」
呆然とつぶやく司祭に、『彼』は妖艶な微笑みを投げかける。
その姿をなんと喩えたらいいのだろう。
少なくとも、『彼』を見た者は皆、寒さを忘れた。己の死を忘れ、己自身を忘れた。ただひたすらに、『彼』を見るだけの存在になった。
えぐるような視線を四方八方から浴びせかけられながら、『彼』はどこかあどけなくにっこり笑う。
「ええ。僕は闇。僕はまどろみ。もしくは美しいまま死んだ女の残り香。ありとあらゆる美しいひとの恋人。――そして、この街で一番美しく、名のある無職ですよ」