第110話 そして明日へ
「いいか、ハナ、君って奴は!」
「ご主人様の言うことなんか聞きませんから! 破廉恥! 変態! 無能!」
「いや、無能は返上したはずだぞ、無能だけは!」
サルーンにルドヴィークとカルラがいることすら気にしていない様子の三人を横目に、カルラはぽつりと言った。
「ね、ルドヴィーク。あなた、家族って居る?」
「近い血縁はおりませんが、葬儀屋全体が家族のようなものですな。しかし、まあ……最近、死ぬときは彼らに囲まれてではなく、ここで死にたいような気もしているのですよ。おそらく、気のせいですが」
「ここで死ぬって……自然死?」
「自然死です」
ルドヴィークの即答に、カルラは茶卓から取った喫煙具を唇に挟んで、しみじみ告げる。
「気のせいねえ、それは」
「気のせいですなあ」
ルドヴィークも神妙にうなずいたが、ふと、何かの気配を感じて立ち上がった。
彼の利き手が椅子に立てかけられた仕込み杖と、片腕に抱えた骸骨人形の間で迷う。
間もなく勢いよく玄関扉が開き、澄んだ声が辺りに響いた。
「アレシュ・フォン・ヴェツェラ! ここですか!」
「お前……クレメンテ!!」
聞くだけで目の前がきらめいてきそうなその声に、アレシュが反応する。
彼はガウンの裾を翻して大急ぎで玄関広間へと向かい、ミランもどたばたと後に続く。ハナは玄関広間がのぞける廊下の隅っこで様子をうかがった。
真っ先に玄関広間へ着いたアレシュは、真っ白な人物を見て思わず我が目を疑う。
「どう見てもクレメンテだし、どう見ても生きてるけど、君、どうして生きてるんだ? ……まさかグリフィスを倒してきたんじゃないだろうな?」
「何をおっしゃっているんです、倒すだなんて! グリフィスさんは勉強熱心で、大変礼儀正しい方でしたよ。ものすごく色々なことを知っていらっしゃるのです。あまりに話があうので、わたしはもっともっと喋りたかったのですが……すべての知識を語り終える前に『充分勉強はさせてもらったから、人間界に帰って光明となるように』と言ってわざわざここまで送ってくださったのです。
素敵な方だったなあ……」
クレメンテはほとんど頬を赤らめんばかりの様子で回想に浸っている。
一方のアレシュたちは、その話の内容のあまりのひどさに、逆に青くなった。
「グリフィスと、話があった……?」
「俺の耳にはそう聞こえたが、俺の耳は果たしてここについているのか?」
アレシュとミランが愕然とするのを聞きつつ、寝椅子のカルラもじっとりとした目になって紫煙を吐く。
「そっかぁ。ひとの知識が、魔界の書庫に勝っちゃったかあ……やっぱり、神様関係の本って胃もたれするんだ」
彼女の言葉は玄関広間にいるアレシュには届かない。
アレシュはやっと最初の驚愕から立ち直り、それでも秀麗な顔をゆがませてクレメンテに問いを投げる。
「君……つまり、あのグリフィスに、帰れと頼まれた、の……か?」
クレメンテは少女のような笑顔で目を細めると、愛らしく首を傾げた。
「はい。あ、グリフィスさん、アレシュさんに『ハナのことはよろしく頼む』とおっしゃってましたよ。彼女を含め、六使徒もわたしも、もう二度と、けっして、あそこを訪問する必要はない、と。
そういうことなので、やはりわたしのいるべきはこの街なのか、と思っていたところです。ときにアレシュさん、ひょっとしてわたしのことを心配してくださっていたんですか?」
「いや、全然」
「あははは、アレシュさんって本当に照れ屋さんだなあ! わかっておいでかと思いますが、わたし、あなたのこと、大好きです! これからも一緒に世のため人のため、この街で身を粉にして働いていこうではありませんか!!」
「どうしてそういう話になったんだ、僕は君のことは苦手だよ!? おいこら、抱きつくな! 無駄にいい匂いがして腹が立つ!! ミラン……!!」
すがるような目でミランを見つめてみるも、彼は真剣に首を横に振った。
「やめろ、俺もできる限りそいつには触りたくない」
「なんで下僕はこんなときだけ真顔なんだよ、ちょっと美男子で腹が立つな!!」
悲鳴のようなアレシュの声を聞き、カルラは煙草の灰をたばこ盆に落としてつぶやく。
「増えたわねえ」
「増えたのですかな、これは」
ルドヴィークがつぶやき、サルーンの隅でずるりと赤い影が動く。
さっきからずっとそこにぼんやり立っていたサーシャが、滑るように玄関広間のほうへ移動した。
『アレシュ』
玄関広間の絨毯に書かれたサーシャの文字に気づき、アレシュがクレメンテを引きはがそうとしながら叫んだ。
「サーシャ! 来てくれたのか、ありがたいよ……ねえ、どうにかしてくれない? この事態! もう、無茶苦茶だよ!」
サーシャは少し皮肉っぽく眠そうに笑って、文字の続きを書く。
『お茶がほしい。この家にいる全員分の』
「お茶って!」
そんなのを淹れたら、ますますみんながここに居着くに決まっている。
アレシュは必死に抵抗しようと息を吸いこんだが、すぐに廊下の端からこちらをうかがっている少女の綺麗に巻いた角を発見して、そのまま声を呑みこんだ。
(ああ、そういうことか)
思った以上に真っ当な助言に、アレシュは視線を中空にさまよわせる。
さすがにここで逃げることはできないし、逃げる意味もまったくない。まだ大人の愛を語るのには早くとも、他の形で繋がればいい。
そう気づいて、アレシュはため息混じりに告げた。
「ハナ。その……色々と、謝るから。君も含めた『使徒』のみんなに、お茶を、淹れてくれないか?」
ハナにかけた自分の声は、思ったよりだいぶ優しく響く。
ハナはその声を聞くなり、廊下の端から飛び出して来た。彼女はアレシュが思ったよりずっと愛らしい、決まり悪い笑顔で叫ぶ。
「ほんとに、ご主人様って、ひとりじゃなんにもできないんですから!」