第10話 闖入者とせっけんの味のお茶
淡い光が地下室になだれこみ、無遠慮なミランの声が辺りに響く。
「おい、アレシュ。入るぞ? むしろ入ったぞ。構わんな、別に」
「構う。せめて入る前に扉を叩いて、ついでに三回以上床に這いつくばって、僕を讃える言葉を最低三十個ひねりだしてから入室の許可を取れ」
アレシュはうんざりとした調子で即答するが、ミランはそれくらいでめげる男ではない。
片手に角灯、片手に茶器の載った銀盆を手にして、にぎやかに石段を下りてくる。
「そんなことを実際したら貴様は『入るな』と言うに決まっているだろう。だからこれで正解なのだ。それにしても、ここは何度来ても埃っぽいな! 若いくせに、いいかげんこんな穴蔵にこもるのはよせ。健康に悪いぞ、健康に」
屈託のない調子で言い、ミランは盆を作業台の端へ置いた。
かちゃん、と高価な茶器が甲高い音を立てるのを聞き、アレシュはほおづえをついたまま恨めしげに彼を見上げる。
「下僕。お前、なんでまだ僕の館にいるんだ? さすがにもう帰ったかと思ってたんだけど」
「あのエーアール派どもに商売道具の札をあらかた駄目にされたからな。作り直すまで危なっかしくて外へは出られん。そんな兄貴を丸腰で百塔街のど真ん中に追い出すほど貴様も鬼畜ではあるまい? あー、いやいや、卑下したり悪ぶったりするのは聞きたくないから黙っていろ。大丈夫だ、お前が外出するときには、俺も一緒に外へ出る」
ミランはさも当然とばかりに言い、作業台の下から椅子を引きずり出して勝手に座った。あげく、自分のカップにだけお茶を注いで、ざくざく砂糖を入れ始める。
もはや芸術的なほどの傍若無人さに、アレシュは赤い瞳を冷たく光らせてつぶやいた。
「札を作り直すって話は聞いたよ。だけどそれに一体何日かかってるんだ? 確実にサボってるだろ。お前はそれで自分が生きている意味に疑念を抱いたりしないのか? それと、僕がこの部屋にいるってどうしてわかった?」
「ハナさんから聞いたのだ。彼女はこの屋敷のことならなんでも知っているからな。彼女は素晴らしい才女だぞ。あの小さな体でよく働く。そのうえ焼きたてのパンの香りのようなあの美貌……たまらん。アレシュ、お前もお茶はいるか?」
「いるよ。むしろお前は飲まなくていい。あと、女性をパンに喩えるな。僕の美意識が息絶え絶えだ」
アレシュが見るからにぐったりして言うと、ミランは器用に片眼を閉じて見せる。
「パンの香りを不快に思う人間は、この世界のどこにもいない。つまりハナさんの美しさは全世界に通用するということだ。どうだ、この秀逸な表現。貴様だけは使ってもかまわんぞ。それとな、この茶はハナさんがわざわざ俺を指名して、淹れてここまで持っていくよう言ったのだ。わざわざ、俺に!」
「……だろうな」
お前、ハナにこき使われてるんだよ。
と、わざわざ教えてやらねばならないのだろうか? もしくは気づいているのに喜んでいるのか?
(本当に、理解できない)
疲れ顔すら震えるほどの色気をにじませるアレシュの前で、ミランは豪快にアレシュのぶんの茶を注ぐ。彼が淹れると、どんな高級品でも野営地で淹れた濃いだけのお茶に見えるのが不思議だ。
続いて砂糖壺をアレシュのほうへ押しやりながら、ミランはにやりと笑った。
「ちなみにハナさん、怒っていたぞ。ついさっき、貴様が連れこんだ例の魔界の女が『アレシュが消えた』と怒鳴って館中をかき回してな。あまりに暴れすぎたので、ハナさんに排除された」
「え、本当!?」
排除、と聞くと、ざっと血の気が下がり、アレシュは椅子から腰を浮かせた。
そのまましばし考えたのち、すぐにめげて魔法書の紙面につっぷす。
「そうか……やっぱりそうなったか。元気そうなひとだったもんなあ……」
「予測できていたならもっと早めにどうにかしろ。日々女と遊ぶくらいしか能がないというのに、女扱いまでへたくそでは人間のクズと呼ぶのももったいなくなってしまうぞ。女と一緒の寝台からこっそり抜け出して、なんでこんなところで昼寝するんだ。理解に苦しむ」
「昼寝じゃなくて読書だ! いいか、ミラン。僕はどの女性も心の底から愛してるんだ。全員を崇拝してるし尊敬してるし幸せにしたい。ただ、ずっとひとりの側にはいられないだけだ!!」
「駄目人間の台詞すぎて一瞬尊敬しそうになるな」
「お前だって、多少でもモテれば僕の気持ちがわかるようになるはずだ。もちろんそんな日は一生こないから、せめて想像力を働かせてみろ。今回だって、僕が何日の間あのひとの横にべったり一緒にいたと思ってる? たまにはひとりにもなりたくなるさ」
うめくように言い、アレシュは青い硝子に金で薔薇が描かれた茶碗を引きずり寄せた。アレシュはモテる。それはもう、モテる。老若男女、あらゆる趣味の人間に、そして魔界の住人にすらモテまくる。
全てを魅了するのは彼の生まれつきの能力だ。アレシュはそんな自分のことを愛しているし、自分に魅了される相手のこともまんべんなく愛している。
だが、悲しいかな。
アレシュは誰かに独占される続けるには、気まぐれで怠惰すぎるのだった。
館で暴れたのは、この間アレシュとミランが聖ミクラーシュ教会で助けた女性だ。容貌通り、無垢で無邪気で、敬虔なまでに純粋な感情がくるくる移り変わる様がとっても魅力的なひとだったのに、ハナに追い出されたなら二度とこの館に戻っては来られないだろう。
「やっぱり、僕の顔に惚れるような相手じゃ駄目なのかな。でも僕、顔がよすぎるからな……」
細く長いため息を吐いてろくでもないことをつぶやき、アレシュはお茶をすすった。
「どうだ、俺の茶。美味いか」
身を乗り出して目をきらめかせるミランに、アレシュは静かに言う。
「粉石けんの匂いがする」
「何っ!? ばかな……っ、俺の茶は完璧なはず……あっ、そうか! 思えばこのお茶を淹れる前、紳士的にハナさんの容姿を褒め称えたら照れた彼女に粉石けんをぶっかけられたのだ。きっとその石けんが茶器に残っていたせいだ。しかしまあそのくらい気にすることはない。お前は粉せっけんくらいでは死なんだろう。香辛料と思え、香辛料と」
「――ミラン。ひとつだけ約束しろ。いいか? お前がゴミのような茶を淹れるのはお前の勝手だけど。今後僕がひとりでこの部屋にいるときは、邪魔するな」
少しばかり剣呑な気配を漂わせてアレシュが言うと、ミランは自分のお茶の匂いをかぐのをやめて視線を上げた。少し考えた後、ミランは真顔で言う。
「わかった……とはいえ、今回のようにハナさんに頼まれごとをしたら俺はそちらを優先しかねんぞ。大体貴様、ここにいても調香をするわけでもあるまい。昼寝するくらいなら俺のような格好のいい話し相手がいたほうがマシではないのか?」
「話し相手ならサーシャがいる。今もいたのに、お前が来たから消えたんだ」
「はっ! サーシャか。なるほど? いいか、よく聞け、アレシュ。死んだ人間はよみがえらない。よみがえったように見えたなら、それは幻覚か、どこぞの呪術師の仕業だ」
ミランは一転して吐き捨てるように言い、茶碗に口をつける。そしてすぐさま変な顔になると、喉を押さえて黙りこくった。彼も、粉せっけん入りの茶をまずいと感じる舌は持っているようだ。