第3話 未来の元婚約者
最初はただの陰口だった。
それはユースティティアがタルクィニウス・アートルムの娘であること、つまりタルクィニウス・アートルムへの憎しみと、ユースティティアがそれなりに勉強ができて、容姿も整っていたことへの嫉妬や憎しみが原因だった。
陰口はそれから直接の罵倒、悪口、そして陰湿な、時には直接的な暴力へと変わった。
私物を隠されたことも一度や二度ではないし、飲み物を掛けられたことも何度もあった。
目を離した隙に教科書に落書きをされることもあった。
そして最近は直接、呪いの類を撃ち込まれることが多々あった。
予知夢で虐められることは知ってはいたが……
予知夢の内容は断片的な上に、ある意味客観的な視点で見るため、その辛さは伝わり難い。
想像以上の辛さに、ユースティティアは少しナーバスになっていた。
無論、暴力でやり返すことは可能だ。
しかし暴力を振るうには、少し勇気がいる。
力を持つことと、実際に暴力を振るえるかどうかは別問題だった。
また、大袈裟に騒ぎ立てられ、最悪退学にさせられるかもしれない。
と、ユースティティアは少し恐怖を感じていた。
その日、ユースティティアは図書館で本を読んでいた。
ユースティティアも少しは学んでいる。
図書館は静かにしなければならない場所なので、暴言は無論、暴力や呪いを受けることもなく、ましてやお菓子やジュースを頭から掛けられることもない。
安全な場所だった。
「ねぇ、君」
「……」
声を掛けられ、ユースティティアは顔を上げた。
いつの間にか、ユースティティアは十人ほどの生徒たちに囲まれていた。
リンチでもされるのか、と内心で心構えをしてから……
ユースティティアはある一人の人物の顔を見て、愕然とする。
「デキウス・グーリュープス・アウルム……」
思わずその名前を呟く。
ユースティティアと同じ、四大貴族家の一角を占めるアウルム家の血を引く有力貴族であり、この大学では貴族・騎士・平民の三階級を問わず人望を集めている男子生徒だった。
学年はユースティティアの二つ上の三年生。
「おや、俺のことを知っているのか?」
「……有名ですから、ね」
ユースティティアは表情が歪むのを必死に抑えながら、無難な回答をする。
知っているも何も……
予知夢の世界に於いて、ユースティティアの恋人となり、最後には裏切った男である。
知らないはずもない。
自分の小指とデキウス・アウルムの小指に繋がる運命の赤い糸を幻視して、ユースティティアは苦々しい気持ちになった。
そして十人ほどの取り巻きたちの顔も確認する。
なるほど、それは予知夢の世界に於いてユースティティアと友情を育んだお友達であった。
「それは嬉しいな……ところで、何の本を読んでいるんだ?」
「……タイトルを見れば、分かるでしょう」
ユースティティアは『平民の政治参加について』というタイトルを見せた。
この本は平民の政治参加を肯定的に捉える本であり、そしてまた騎士階級や平民階級出身の、非魔法使いの子供として生まれた魔法使いが、レムラ共和国で魔法使いとして活躍することをとても肯定的に捉えた書籍である。
大学に入る前までは政治には全く興味がなかったユースティティアだが……
イジメられるようになって、ようやく興味を示した。
つまり自分がイジメられる原因となっている、親愛なる()父親タルクィニウス・アートルム様の政治思想とそれに対立する思想を知ろうと考えたのだ。
無論、それはユースティティアが政治に嵌ったことを意味することではない。
あくまで知識欲の一つである。
そのためタルクィニウス・アートルムの思想を肯定するような本も、それを否定するような本も読んでいた。
今はたまたま、否定するような内容の本を読んでいただけである。
(ああ、そう言えば、そういう展開だったな)
そこでようやくユースティティアは予知夢での断片的な情報を思い出す。
予知夢の世界でも、デキウス・アウルムとの出会いはこんな感じだった。
たまたまユースティティアがそういう本を読んでいて、デキウス・アウルムとその仲間たちからの印象が好転したのだ。
「ねえ、ルルテリアさん」
「……よく私の名前を知っていますね」
「……有名だからね」
悪い意味の有名だろうな、とユースティティアは内心で自虐した。
「俺たち、今度の休日に遊びに行くつもりなんだけど、ルルテリアさんも来ない? せっかく、こうして知り合えたし」
「……」
強引に自分を誘うデキウス・アウルムの顔をユースティティアは見上げた。
予知夢の世界では……ユースティティアは迷わず、デキウス・アウルムの手を取った。
そして恋愛と友情を育み、青春をして……少なくとも大学卒業間近までは幸福な時間を過ごすことができた。
しかし今のユースティティアは知っている。
その手を取れば、最後には破滅が待っているということを。
大事なことだが、デキウス・アウルムは予知夢の世界に於いて、ユースティティアの恋人となった男性であり、そして婚約し……最後には裏切った人物だ。
なるほど、恋仲になっただけあって……その容姿に関しては、ユースティティアの好みのように感じられた。
整った容姿と……イジメられていた自分を助けてくれたことへの感謝、その優しさに自分は惚れたんだろうと、ユースティティアは客観的に考察する。
デキウス・アウルムが嫌いか否かと聞かれると嫌いだ。
だが憎しみを抱いているかと聞かれると、それは違うとユースティティアは断言できる。
裏切られたのは予知夢の世界のユースティティアだ。
現実のユースティティアは裏切られていない。
これで憎しみを抱き、恨み、復讐を考える……なんていうのはあまりにも被害妄想甚だしい。
予知夢は演劇のようにある程度客観的な視点で見ることができる。
だからユースティティアはデキウス・アウルムのことは心の底から嫌ってはいるが、憎んではいない。
デキウス・アウルムが自分に声を掛けたのは、善意からだということをユースティティアは知っている。
デキウス・アウルムという男は善意の人なのだ。
誰彼構わず、手を差し伸べてくれる。
もっとも……善意の前には、「軽い」という形容詞がつく。
この男は良くも悪くも軽いのだ。
そして単純で……物事を正義と悪のどちらかでしか考えられず、さらに思いこみも激しい。
だから信用はできない。
手を取ってはいけない。
だが……
(……楽になれるだろうな)
デキウス・アウルムの友人グループに入れば、イジメはきっと無くなる。
お友達が守ってくれるようになるからだ。
正直なところ、ユースティティアの心は限界に近かった。
毎日下校時間を心待ちにしている自分が、大学になど行きたくないと叫ぶ自分が心の奥底にいる。
――楽になりたい。
ユースティティアは口を開く。
「……すみません。予定があります」
しかしユースティティアはそれを拒絶した。
一瞬、後悔の念が溢れてくるが……それは心に鉄の蓋をすることで押さえつける。
「おや……そうだったのか。それはすまない」
デキウス・アウルムは笑顔でそう言った。
あまり気にした様子は見られない。
元々、断られることは算段に入れていたのだろう。アウルム家はタルクィニウス・アートルムの独裁体制に対して、頑強に反抗した家の一つである。
タルクィニウス・アートルムの血を引く、ユースティティアが警戒してしまうことは確かに誰にでも予想はできる。
「じゃあさ、一緒に昼ご飯を食べない?」
さて、どうするか。
ユースティティアは悩んだ。
これを受け入れれば……なし崩し的に友人グループに組み込まれることになるだろうことは、ユースティティアも予想できる。
ユースティティアはデキウス・アウルムと敵対する気はさほどないが、しかし仲良くするのは嫌だった。
しかし昼食時間に予定はない。
一緒に食べてくれる友達など、いないのだから。
「……一人が好きなので」
少し角が立つが、仕方がない。
ユースティティアは素っ気なく、そう返した。
これは予想外だったようで、デキウス・アウルムの顔が一瞬引き攣った。
しかしすぐに笑顔に戻る。
「そうか、それはすまない。余計なお世話だったかな?」
「いえ、声を掛けてくれたのは、本当に嬉しかったです。ありがとうございます」
破滅が待っていると知りながらも、迷ってしまったのは事実だ。
印象悪化を回避するためにも、ユースティティアはお礼を口にした。
「そうか、それは良かった。気が向いたら、一緒に食べよう。ルルテリアさん」
「……はい。アウルムさん」
それからユースティティアは去っていくデキウス・アウルムたちを見送る。
「付き合いが悪い」「やはりタルクィニウス・アートルムの娘だ」「いじめられて当然だ」「時間の無駄だった」
そんな悪口を彼らが言っている姿を簡単に想像ができて、ユースティティアは胸が締め付けられるような思いを抱いた。
さて、その日ユースティティアは木陰で一人、弁当を食べていた。
食堂も存在するが、間違いなく嫌がらせを受けるので入れない。
以前、ユースティティアが愛用していたのは第二館の三階の奥の女子トイレなのだが、昨日そこで弁当を食べていたところ、上から水を掛けられたので、もう使えない。
早速、ユースティティアは今日のことを後悔し始めていた。
昼食くらいは一緒に食べても良かった。
予知夢の通りにならないように、付かず離れずの距離を保てば良いだけだったのに、頑なに拒んでしまったことは……失策だったかもしれない。
ユースティティアは溜息をついた。
人は信じられない。
だが、人間関係は欲しい。
相反した思いを抱きながら、弁当を口に運ぶ。
「おい」
丁度、弁当を食べ終えた頃……
声を掛けられた。
顔を上げると複数人の男子上級生に囲まれていた。
「何でしょう、諸先輩方」
弁当箱を片付けながら、ユースティティアは尋ねた。
すると大柄の男子――おそらくリーダー格の男――が嘲るように言った。
「お前が噂の、犯罪者の娘か」
「……」
えー、はいはい。
そうですよ。
私は独裁者の、タルクィニウス・アートルムの娘です。
ユースティティアは内心で自虐的なことを考えつつも、リーダー格の男を睨んだ。
「差別主義者の政治犯の娘が、よくも、白昼堂々飯なんて食ってられるな?」
「……」
別に私の実の父親が差別主義者なのは事実だけど、それをネタにして私を罵倒してくるようではお前も同じ穴の狢だぞ?
とユースティティアは思ったが、口には出さなかった。
「おいおい、あんまり煽るなよ。ほら、睨んできたぞ」
「人をぶっ殺してそうな目をしてるよな」
「まあ、これだけ言われてやり返せない弱虫のガリ勉眼鏡みたいだけどな!」
ゲラゲラと大笑いする。
年下の女の子を寄ってたかって、馬鹿にするというのはどうなんだろうか?
ユースティティアは内心で呆れながら立ち上がる。
こういう輩は無視するのが一番だ。
「おい! どこへ行く?」
無論、ユースティティアに答える義理はない。
「おい、聞いてるのか!」
無視して歩き去る。
「っち、馬鹿にしやがって……『見えざる手 引き寄せよ 来い 眼鏡!』」
その瞬間、ユースティティアの目から眼鏡が飛んでいった。
そしてリーダー格の男の手に渡る。
ここで初めて、今まで無表情だったユースティティアの顔が強張った。
「お前、眼鏡が本体なんだろう?」
そんな典型的な煽りをして、リーダー格の男は眼鏡を地面に投げ捨て……
それを踏み潰した。
グシャリ!
そんな音がした。
「お、お前……そ、それは、私の……」
ユースティティアの喉から低い声が出た。
頭に血が上るのを感じた。
「はあ? ただの眼鏡だろ? それとも眼鏡すら買えないのか?」
「ふざ、けるな……」
ユースティティアにとって、その眼鏡は魔眼を押さえるための重要な道具だ。
それに……ユースティティアにとっては、生まれながら自分に与えられた唯一の私物である。
孤児院でまともに私物を持つことが許されなかったユースティティアは物への執着心が強い。
それが……自分の生活に必要不可欠な、そして最初に持つことが許された私物となれば、尚のことだ。
怒りが、激情が込み上げてくる。
ユースティティアはそれを押さえることができなかった。
感情の赴くままに行動する。
手袋を外し、それをリーダー格の男に叩きつける。
「お、お前……これは……手袋? おい、まさか……」
「あなたの名前は知りませんが、決闘を申し込みます」
真紅に染まった瞳で、リーダー格の男を睨みながら言った。