It is no use crying over spilt milk 10
雄一郎が、汐里の店に訪ねてきます。
雄一郎の悲しさが、切ないです。
5月の終わり頃、雄一郎が店にやってきた。カウンターの中にいる汐里をじっと見て、ゆっくりと店内を見渡して、海側の席に着いた。拓郎が、汐里のいつもと違う様子を見て
「俺が、注文を聞いてきますか。」
と聞いてくれたが、ううんと首を振って、雄一郎の席に行った。
「何になさいますか。」
「そうですね。紅茶を。」
「せっかくですから、ロシアンティーになさいませんか?」
「そうですね。それでは、それを。」
雄一郎は、汐里の笑顔を眩しそうに見上げてから、テーブルに目を落とした。
やがて紅茶とジャムを乗せたトレーを持って拓郎が、雄一郎の席へ運んできた。お客様には失礼なくらいじろじろと見ていたが、雄一郎は気づかないふりをして、窓の外を見ていた。カウンター越しに見る雄一郎の顔は穏やかな表情で、汐里はほっとした。午後4時を回って、客足も途絶えたが雄一郎は、ずっと窓の外を見たままだ。当然、何か話が有って来たのだろう。拓郎は不信がっていたが、大丈夫だからと早めに帰して、店のドアに「閉店」の看板を掛け、雄一郎の席へと行った。
「おかわりは、いかがですか?」
「あっ、ありがとう、お願いします。」
ポットの紅茶をカップに注ぎ、汐里も席に着いた。こんなに、穏やかに雄一郎と話ができる日が来るなんてと、自分でも驚いていた。
雄一郎は、一口カップの紅茶を飲んで、ゆっくりと話し出した。
「君と12年前に出会ったとき、僕は、絶対にこの人と結婚したいと思ったんだ。」
「君も知っているように、僕は、母一人子一人。僕が5歳の時に、父が32歳で死んでいる。僕は、母が一人で頑張って育ててくれたことをありがたいと思っていたし、早く親孝行がしたいと思っていた。親孝行とはどんなことか本当は判らないが、子供心に勉強を頑張って良い学校に入って、一流企業に就職して、素敵なお嫁さんをもらって、孫を見せたいと思っていたんだよ。漠然とだけどね。それでも、あの頃は、結婚はまだ先だと思っていたよ。25歳だったからね。」
「それが、君が入社してきて、明るくて、笑顔が素敵で、課の人気をさらっていた。僕も以前より、出社することが楽しくなっていた。出張は楽しみだったのに、君が誰かに告られちゃうんじゃないかと、心配で、ほんと、驚かれるくらい出張先で頑張って早く帰って来たんだ。君の、「お疲れさまでした」の声と笑顔が見たいばっかりに、できるだけ夕方には帰社していたんだよ。僕は、どうしても君と付き合いたかった。どうしたら君と仲良くなれるか、それまで考えたことないほど頑張ったんだ。」
そう、苦笑いして、カップを口にした。
「君と付き合えるようになって、舞い上がったよ。こんな幸せがあるなんて、思わなかった。君は、本当に魅力的な人だった。そう、今度はどうしても手放したくないと結婚を意識するようになっていたんだ。」
「でも、僕は、本当は父の死んだ32歳まで結婚しないと決めていたんだよ。父親を早く亡くした男は、自分も父親と同じ年で死んでしまうんじゃないかと不安を抱えている。そして僕もそうだ。でも、君をここから先6年待たせていたら、誰かに奪われてしまうんじゃないかと心配で、結婚だけでも早めにしてしまおうと強引に結婚を決めた。婚約時代は幸せの絶頂だったよ。それが、1年後、結婚してすぐ、君が子供を望むと思っていなかったんだ。君は22歳で、若かったからね。僕は27歳で、父が亡くなった32歳まで5年もあった。君が、僕と二人の生活を望んでくれれば、当然、孫を欲がる母さんを説得することはできたんだ。もし、子供が生まれて僕が死んでしまったら、母さんの二の舞だ。君にそれだけは、させたくなかった」
「君は、話してくれればよかったのにって言うんだろうな。でも、どうしても言葉にしたくなかった。笑ってくれ。言葉にしたら、真実になっていまいそうだったんだよ。何となくはぐらかしているうちに、君から笑顔がなくなって、母にせっつかれて、悩んでいることが判っても、あと少しと高をくくっていたことは認めるよ。僕は、あと一年たてば32歳を迎える所だったからね。」
「漣君と恋愛とはまだ呼べない関係が始まっていると分かったとき、僕がどれだけあせって、嫉妬したか君は想像つくかい。自分勝手な言い分だと分かっているけど、自分の決心を変えてまで、君との結婚を早めた僕だ。君が好きだったんだ。本当に君が好きだったんだよ。悔しかった。君も以前の笑顔を取り戻して、心から笑っていた。」
「僕が超えられないハードルをやすやすと超えて、君と笑顔で話している漣君を見て憎かった。」
「荒れた。今思えば、本当にすまないことをした。後悔してる。あとは、君も知っているように、美佐子さんと連絡を取り、漣君と君の関係をあきらめさせることに、お互いが協力することになったんだ。でも、美佐子さんのほうは漣君とうまくやっているようだけど、僕は抑えられなかった。それまでの4年間、僕なりに大切に大切に、君との関係を築いてきたつもりだったから、君が僕をそれほど嫌っているとは思わなかったよ。あの日、マンションに君がいないことに気付いた時、父が死んだ日以来初めて泣いたよ。そして、後悔した。君の実家に何度も足を運んで、お父さんに君に合わせてほしいと頼んだけど、許してはもらえなかった。結局は、離婚届を提出することになったけど、僕は、君が好きだったんだ。」
「あれから5年がたって、今、僕は、来月36歳になる。母は、60歳になったよ。僕の人生に君はいなくなったけど、母は幸せにしてあげないといけない。この5年、あのうるさい母が、結婚のことを一度も言わないんだ。母は、さすがだよ。僕が君をずっと思っていることを知っていたんだ。今年の正月、二人で、お屠蘇を飲んでいたら、『あなたも、もう、幸せになっても良いんじゃないかしら。汐里さんを思い続けることも一つの形だけど、穏やかな幸せを望んでも良いんじゃない。』まいったよ。僕は、この年になっても、母を越えられない。守ってあげたいと思っていながら、守られていたんだ。」
「穏やかな幸せとは、何だろうね。まだわからないけど、2月にお見合いをしたよ。その人は、静かに笑う人だ。君のように天真爛漫に笑う人ではないけど、もしかしたら、この人なら愛せるかもしれないと思えたよ。だから、結婚して自分たちの生活を築いていこうと決心した。この秋に結婚する。僕は二度目だけど、彼女は初めての結婚だから、きちんと結婚式を挙げることにした。でも、そうなると今しか、君に対してのけじめはつけられないと思って、3月に君の実家に行った。でもそれだけでは、僕の心のけじめはつかなかったから、君にいやな思いをさせるかと心配だったけど、ここまでやって来た。」
「ここは、良い場所だね。ゆったりと、船が行きかう。カモメが飛んで、ツバメも飛んでる。汽笛がなって、漁船のエンジン音まで、聞こえる。自分の人生の中で、これほどゆったりと時間を過ごしたことはないように思うよ。」
「この店も、君の魅力にあふれている。君も、今、穏やかな幸せを手に入れてると思えたよ。お客さんたちが皆、君に言葉をかける。君も笑顔で言葉を返していた。ああ、幸せなんだなとうれしくなった。あのウェイターの子、僕をにらんでいたよ(笑)。あの角に座っていた男も、僕を観察していたよ(笑)。ライバルとしてと言うより、君を守っていると言った空気だったね。これからも、ここで暮らすのかい。」
汐里は、黙ってうなづいた。声にしたら、思わず涙がこぼれそうだったから。雄一郎をいとしく思った。こんなに大切に思われていたのに、彼の苦しみを察することができなかった。自分のことで精いっぱいだったんだ。もしかして自分に余裕があったなら、雄一郎の苦しみや戸惑いも理解できたのかもしれないと思うと、時間を戻してやり直したいと思えた。けど、時間は戻らない。彼の人生も動き出した。そして、自分は、雄一郎を愛することは、もう、できない。人は悲しい生き物だ。ふーと息を吐いて、こみあげる感情を抑え、汐里が話し出した。
「あなたとの関係は、ずっと覆水盆に返らず。だと思って来たけど、It is no use crying over spilt milkになる日が来たのね。」
「えっ? It is no use crying over spilt milk?」
「そう、ミルクがコップに、水がお盆には戻らないことは同じでも、It is no use crying over spilt milkは、でも気にしなくていいよ。また注げばいいんだから。こんな意味でしょ。高校の授業でことわざの意味は一緒だと言われたけど、大学で、実はまったく違った意味だと分かったとき、私は、It is no use crying over spilt milkと思えるような人生を歩みたいと思ったこと、思い出したわ。3年前このお店を再開して、少しは大人として成長させてもらえた今だから、貴方とも笑って会えたと思う。」
「あなたも、新しいミルクをコップに注ぐのね。なんか、うれしい。今日は、こんな遠いところまで来てくれて、ありがとう。あなたの幸せを祈っているわ。」
汐里は、やっと笑い顔を作った。自分の笑顔が好きだったと言ってくれた雄一郎。これが最後になるだろう。お互いにののしるような関係ではなく、笑顔で別れられる。雄一郎に対する精一杯のお返しになるだろう。雄一郎も、笑った。そして立ち上がって、手を出した。汐里も立ち上がって、雄一郎の手を握った。もう一度お互いの目を見てにっこり笑った。
「それじゃあ、元気で。」
「うん。ありがとうございました。」
雄一郎は、店のドアを開けてゆっくりと歩き出した。本当は、今でも汐里を愛している。振り返って、抱きしめたい。その気持ちを抑えて、まっすぐ前を見て歩き続けた。小道の角を曲がり階段を上がる時に、ほんのちょっと汐里のほうを見た。
「ありがとうございました!」
初めて出会った時と同じような、屈託のない大きな声で、見送ってくれた。思わず口元を抑えた。涙が頬を伝う。
これで良いんだ。
きっと。
汐里が心から僕を許してくれたんだから。
僕も、汐里の幸せを祈ろう。




