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後編

 香澄と別れたあと、玲子は海岸沿いの道を歩いて家に向かっていた。

 八月の気温は暑く、真夏日が続いている。だが海に冷やされた夕暮れ時の潮風は肌に気持ちよく、にじむ汗を乾かしてくれる。

 このまま帰るつもりだったが、潮の香りに港まで引き寄せられた。

 小ぢんまりとした内港には小型船が多数停泊している。波の動きに合わせてゆらゆらと揺れる船を見ていると、故郷を出てたった四か月しかたっていないのに、妙に懐かしく胸がきゅんとした。

 海岸沿いにはテントや出店が準備を始めている。電柱に立てかけられた看板に、明日の日付で花火大会が開催されることが告知されていた。明日の夜はこの辺りも、人でごった返すだろう。

 遠くに見えるのはカーフェリーだ。シルエットがオレンジ色の中をゆっくりと右に進んでいる。見慣れた船だが、玲子は一度も乗ったことがなかった。遠くに行くときは船でなく、鉄道や飛行機を使うのが常だ。

 陽の高いうちは青く穏やかな海面が、今赤く染められている。水平線に落ちていく夕日は、玲子の郷愁を誘う。大学の近くには海がないので、こうやって心穏やかに夕日を眺めることもない。

 港には夕日を求めて来たと思われる大学生らしきカップルがいた。学生街から港までは車で二十分ほどの距離だ。大きなバイクが停まっているところを見ると、二人乗りで来たのだろう。彼氏の運転するバイクに乗せてもらえるなんて素敵だな、などと思ったら、ライダーは女子のほうで、後ろに彼氏を乗せて走り去った。玲子は自分の先入観に苦笑した。

 数人いた釣り人も、荷物を片づけ始めている。釣果はどれくらいだろうか。玲子も小学生のころ、父親に連れられて何度か釣りに来た。

 子供時代の思い出は、この港とともに心に刻みつけられている。

 夕日が海の向こうに隠れるぎりぎりの光景が、玲子の胸をかすめた。

 濃いオレンジ色を水平線に残して、今、夜が来ようとしている。この風景は、夏休みが終わると見られなくなる。

 玲子はスマートフォンを取り出して、夢中でシャッターを切った。

 自分の一部となったサンセットを写真に収めて、大学に戻ったときに部屋に飾りたくなった。

「そうだ、武彦さんにも見てもらおう」

 たくさん撮った写真の中で、一番出来のいいものを選ぶ。玲子が十八年間見続けてきた日暮れだ。うれしいことも悲しいことも、この夕焼けとともに記憶に刻み込まれている。大好きな故郷の姿を武彦に届けたかった。


 ――いつもその人のことばかり考えてる?


 香澄の言葉が浮かんだ。

 いつも、武彦のことを考えている? 問いかけるまでもない。答えはすでに出ていた。香澄は正しい。

 武彦と離れて過ごす夏休みは、心の一部が空洞になっているようで、いつも何かが物足りない。その穴を埋めるために、この夕焼けを一緒に見たい。

「そろそろ認めようか」


 ――あたしは、武彦さんが、好きです。


 前途多難な恋だ。あの親衛隊をさしおいて、両想いになるとは思えない。何名いるのか知らないが、たくさんいる女友達の中で、その他大勢から抜け出せる日は来るのだろうか。

 武彦の性格を考えたら、好きだと打ち明けた途端、ひるんで逃げられてしまいそうだ。気持ちを伝えるのは、まだまだ先のことになりそうだ。

 でも恋心は大切にしよう。


『家の近所で撮影しました。きれいな夕日が撮れたので、先輩にもおすそ分けします』


 今までは軽い気持ちで送れたメッセージが、急に大変な作業になった。意識するとこうなるから、本当は認めたくなかった。

「返事がくるか、解らないけど。いいか」

 配信済みの表示が開封済みに変わるまで、しばらくかかるだろう。

 夕日は完全に沈み、あたりは夜の帳に覆われた。

 灯台の明かりが海を照らす。

 明日の夜は花火大会だ。

 かなうならば、来年は一緒に見られるといいのにね。


   ☆   ☆   ☆


 夕飯を済ませて部屋に戻った玲子は、ドキドキしながらスマートフォンの画面を確認した。

 だがメールやメッセージを送ってくれた人はいなかった。こういうときに限って、メルマガすら届いていない。

 送った写真に武彦が気づいていないのかもしれない。そう言い聞かせつつメッセージアプリを確認したら、開封済みになっていた。張り詰めていた気持ちが急に萎えてしまった。玲子はスマートフォンを手にしたまま、ベッドに横になる。

「スルーされちゃった」

 予想通りの結末だ。閉じたまぶたの上を右の手首で覆う。

 親衛隊のメンバーからもたくさんメッセージが届いているはずだから、玲子の送った写真は埋もれてしまったのだろう。全員とやり取りしていたら、チェックするだけでも大変なはずだ。大量のメッセージを捌ききれず、パニックを起こしていなければいいが。

 口下手で会話の苦手な武彦は、アドレスやID交換の申し出を断れない分、相当数を相手にしているだろう。

「あたしも、大勢の中のひとりか……」

 親衛隊のメンバーでないだけに、少しは期待していた。それ以上の存在になれないことは自覚していたが、武彦への想いを自覚した途端、そんな待遇が寂しくなった。

 恋心を認めたくなかったのは、その事実と直面するのが怖かったからかもしれない。

「でもフラれたわけじゃないし、今までどおり話したりはできるよね」

 武彦が行きつけにしている喫茶店でバイトもしている。同じ学科だから、偶然顔を合わせることも多い。親衛隊に邪魔されなくても話せる機会はたくさんある。

 玲子はベッドから起き上がり、窓を開けた。

 海からの風は潮の香りを運んでくれる。懐かしい香りに慰められているそのときだ。

 スマートフォンにメッセージが届いた。

 差出人は香澄だろう。でも一パーセントの可能性に胸がときめく。

「あっ」

 ロック画面に武彦の名前が表示され、すぐに消えた。

 玲子は慌てて、メッセージを確認する。

『遅くなってごめん。玲ちゃんからの写真があまりに奇麗だったから、こっちも写真を送らなきゃいけないって思って、あちこち探しまわってたんだ。夜になってやっと見つけたのが、これだよ』

 メッセージに添えられていたのは、夜空を彩るたくさんの花火だ。

「奇麗だ……」

 色とりどりの光に見とれていると、間髪入れずもう一通届いた。今度のファイルは動画だ。火の玉が上がり、夜空ではじけた。少し遅れて、花火の音が聞こえる。上手く撮れたかな、とつぶやく声は、聞きなれた武彦のものだ。

『近所の河川敷で、恒例の花火大会があったんだ。今日でよかったよ。これで少しはきみにも楽しんでもらえたかな』

「何よ、こんな無理しちゃって。あたしが写真を送ったからって、わざわざ自分も撮りに行かなくてもいいのに」

 お返しのつもりでここまで行動されるとは、玲子の予想をはるかに超えている。武彦はまだまだミステリアスな存在だ。

 実家に帰って、昔のバンド仲間と花火を見上げている姿が浮かんだ。

『高校時代の友達と出かけたんですか?』

 玲子はすぐにメッセージを送ったが、何の予告もないまま、武彦からの返信が突然途切れた。玲子の質問に答えにくい状況なのだろうか。口下手だからどうごまかせばいいか解らずに、スマートフォンの画面をにらんでいる違いない。

「しまった。下手な質問しちゃった」

 不躾な質問を後悔したが、気づいたときは遅すぎた。武彦は言い訳を書くよりも沈黙を選んだ。

 玲子は背中を丸め机の前に座った。香澄との会話が影響して調子に乗りすぎた。スマートフォンを充電させると、教科書を開く。気持ちを切り替えてレポートに取り組んでおこう。好きだ惚れたと浮かれているのもいいが、教師になるための勉強は手が抜けない。

 武彦も教師を選ぶのだろうか? それともバンドメンバーとともに、プロのミュージシャンを目指すのかな。

 そうなるとますます特別なひとりから遠のいてしまう。

 寂しい気持ちと、バンド活動を応援したい気持ちの両方が生まれた。身近な人でいてほしい半面、人気者にもなってほしい。

 ふと、親衛隊の気持ちが解るような気がした。

「でも、あの態度はないんじゃない?」

 武彦と会話するたびに嫌がらせをされれば、さすがの自分も身が持たない。玲子は苦笑しながら、シャーペンを手にした。

 またスマートフォンにメッセージが入る。

『電車を乗り換えていたから、返事が途切れてしまったよ、ごめんね。きれいな花火を喜んでもらえてよかった』

「なんだ。スルーされたんじゃなかったのね」

『人がたくさんいて、賑やかだった。こんな人混みにひとりで来るもんじゃないね。群衆の中にいると、かえって孤独感が強くなる』

「ひとりだったの?」

 動悸が激しくなる。たしかに武彦は大勢で行動するのが苦手だ。だが一人旅を好むタイプでもない。

「あたしに送るために、わざわざ出かけたの?」

 いや、それは考えすぎだ。都合のいい考えや淡い期待はやめよう。目が覚めたときにつらくなる。高校時代の失敗は繰り返したくない。

「えっと……ここはとりあえず、冷静な返事を書かなきゃ」

 玲子は深呼吸して胸の鼓動を落ち着けた。

『帰宅途中なんですね。遅いから気をつけて』

 続けて『おやすみなさい』と打ち込んでいると、追加でメッセージが入った。

「……え?」

 今度は頬が熱くなった。このタイミングで家族が部屋に入ってこないことを願う。

「本当に?」

 たった一言の文章を、玲子は何度も読み返す。

 武彦からのメッセージは、とっさに信じられない内容だった。


『来年は、ふたりで行こうね』


「ちょ、待って。ふたりでって、ふたりきりで?」

 玲子は両手で口元を覆い、目を見開いてメッセージを凝視した。まちがいない、ふたりで行こうと書いている。

 親衛隊のメンバーが自分を囲んで吊し上げる場面が浮かんだ。

「こ、怖いよぉ」

 早とちりだ。彼女たちも一緒に違いない。いや、いくら熱狂的な武彦ファンでも、実家まで押しかけてこないでしょ。でも彼女たちのほとんどが高校時代からのファンだ。

「ということはつまり、武彦先輩の実家も知ってて、その気になればいつでも会いに行けるってことか」

 里帰りしてまでも親衛隊に囲まれ、途方に暮れている武彦を想像する。

「人気者も大変ですね」

 そんな人を好きになった自分は、もっと大変だ。玲子は苦笑しながらもう一度メッセージを読んだ。

「ふたりで……か」

 今だけはこの言葉を信じておこう。

 大勢の中のひとりではなく、特別なひとりになれるかもしれない。


『素敵ですね。来年が楽しみです。おやすみなさい』


 たくさん伝えたいのに、結局平凡なことしか書けなかった。

 言葉にすることで、陳腐な使い古された表現になってしまい、率直な思いを伝える自信がない。


 でもひとつだけ解ったことがある。

 玲子にとって武彦は、特別な人だ。

 いつか自分もそんなふうに思われたい。

 特別な人になりたい。

 いつか、気持ちを伝えられたらいいのに。


『おやすみ。また明日』


 間髪入れず、シンプルな返事が届いた。いつもの口下手な武彦そのままだ。

 玲子は、先ほど届いた花火の写真を、スマートフォンのロック画面に設定した。

 だれのためでもない。自分ひとりのために写してくれた、夜空に咲いた光の花だ。


 玲子は教科書の文字を追いかけたが、さっぱり頭に入らない。立ち上がり、窓から夜空を見上げる。潮風が火照った頬を冷やすが、胸の鼓動は収まらなかった。


 今夜は眠れそうにない。そんな予感のする夜だった。


 最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 もし気に入っていただけたなら、シリーズのほかのエピソードも読んでくださいね。どこから読んでも大丈夫のように書いていますので、お気軽にどうぞ。

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