前編
オーバー・ザ・レインボウシリーズのワンエピソードです。
今回は『「月が綺麗ですね」』と一部の内容がリンクしています。玲子と武彦の出会いを、玲子視点で書いたシーンがあります。あちらは武彦視点で書いていますので、よかったら読み比べてみてください。
もちろんほかと同様、これだけで独立した話として楽しめるように書いています。
今回は少し方言に挑戦してみました。文字に起こすにあたって若干アレンジしていますので、正確でない部分はあらかじめご了承ください。
机の左手においたスマートフォンがメッセージの着信を告げる。
玲子は鉛筆をおき、手を組んで大きく伸びをした。線形代数のレポートがちょうど終わったところなので、気分転換もかねてメッセージを確認する。
幼なじみの香澄から、明日のランチを一緒に食べようとのお誘いだ。夏休みで帰省したので会いたいと連絡したら、バイトを調整してくれた。
「なになに? 報告したいことだって?」
すぐ聞きたくなったので、教えてよ、と質問を送ったが「明日のお楽しみ♪」という返事が届いたのみだ。
「もったいぶらなくてもいいのに」
とはいうものの、画面上で点滅しているハートを見ていると、大方の想像はつく。
玲子はスマートフォンをおき、リビングに入った。両親は寝たようで、明かりが消えていた。冷蔵庫からオレンジジュースを出し、氷と一緒にグラスに入れて部屋に戻る。四か月ぶりに帰る自分の部屋は大きな変化もなく、高校時代のまま、使い込んだ参考書や問題集が並んでいた。
窓から顔を出すと海のにおいがする。受験生時代、勉強に疲れたときも星空を見上げていた。夜空を彩る夏の大三角は、星座に疎い玲子でも見つけられる。
「武彦先輩、どうしてるかな」
ふとした拍子に、同じ学科の先輩が脳裏をよぎる。紅茶好きなのは知っているが、暑い夜でもホットで飲んでいるのだろうか。武彦は夏休みに入ってすぐに帰省したので、一週間ほど顔を見ていない。
志望校に合格して初めての夏休み、それは初めての帰省でもあった。ずっと休んで里帰りしてもいいよ、とバイト先のマスターは言ってくれたが、それではあまりにも申し訳ない。考えた結果、一か月だけ休みをもらうことにした。
そして二日前に帰ってきた。香澄と会うのも、高校の卒業式以来だ。大半の子が地元に残る中で、都会の大学に行く玲子は少数派だ。地元に残った同級生の話もいろいろと聞けるだろう。
「香澄、この様子だと彼氏ができたのかな」
玲子も高校時代つきあっているつもりの相手がいた。それが一方的な思い込みだったことは、大学に合格したときに告げられた言葉で気がついた。
「もうこれからは、会う機会もなくなるね」
家庭教師の大学生にとっては、彼女と呼べる存在ではなかった。少しだけ期待していた大人の世界にかすりもしないで終わったのだから、そういうことかもしれない。玲子は数名いる生徒のひとりで、特別な存在ではなかった。
高校時代の甘酸っぱくてほろ苦い恋心を思い出しながら、玲子はオレンジジュースを飲み干した。
「レポートも一本仕上がったことだし、今日はもう寝るか」
開けたままの窓を閉め、エアコンのスイッチを入れる。潮風が吹く海辺の町なので、夜にはエアコンなしでも過ごせる日がある。しかし都会の生活を経験した玲子は、一晩中開けたままで寝る度胸はなくなっていた。
☆ ☆ ☆
香澄に指定されたのは、玲子の自宅から歩いて行ける喫茶店だ。
海岸通りにあるといえば聞こえはいいが、地元の人たちが利用するような場所で、おしゃれなところとはいいがたい。でも、中学時代から何度も利用しているふたりにとって、懐かしいホームグランドだ。
「玲子、こっちこっち」
中に入るといきなり声をかけられた。早めに来たつもりだったが、香澄のほうが先に到着していた。いつもぎりぎりの彼女にしては珍しい、と不思議だったが、ふりかえってみてすぐに理由が分かった。香澄の横には見知らぬ男子の姿がある。
「なんだ。約束の時間までデートしてたってわけね」
この人が彼氏に違いない。玲子はやや緊張し、右の手と足が一緒に前に出た。
「伊東さん、久しぶり!」
「え? 久しぶりって……?」
席に着くなり香澄の彼氏にそう挨拶され、玲子はじっくり顔を見た。クリッとした目に覚えがある。
「あ、もしかして織田くん?」
「ビンゴ! 覚えとってくれたんや、よかった」
「ふーん。香澄の彼氏って、織田くんだったの」
まさか同じ中学出身の彼氏だったとは。
「でもどうしてまた。高校は別だったうえに、クラス会があったわけでもないし。どこで再会したの?」
「玲子が大学に行ったあと、この近所にコンビニができてね。そこでバイトしとった織田くんと、偶然再会したんよ」
実は織田という人物は、香澄の初恋の相手だ。伝えることもできずに終わった恋が、今になって成就した。初恋は実らないというが、例外もあるわけだ。
「いいなあ、ふたりとも青春してるのね」
「えへ」と照れ笑いする香澄は、高校時代から比べて随分と綺麗になった。
彼氏のいない玲子には、羨ましい出来事だ。あたしも、と思ったときに、武彦の顔が一瞬浮かんだ。
「じゃあ、おれはこれで帰るわ。伊東さん、邪魔してごめん」
「ええ? 一緒にお茶しようよ」
「サンキュー。やけどこれからバイトやし。夏休みやけん普段できん昼間も入れとんや」
「残念。織田くんとも昔話したかったのに」
「しばらくはこっちにおるんやろ。次会うとき声かけてや」
織田は爽やかな笑みを残して店を出た。見送ったあとで玲子は、いつも頼んでいたフルーツパフェをオーダーした。
「ああ、びっくりした。まさか彼氏つれてきてると思わなかったし、その彼氏が織田くんだし、おまけに随分カッコよくなって最初は解らなかったし……」
「あたしも、最初声かけられても解らんかったんよ。初恋の相手やのに可笑しかろ?」
「香澄が解らなかったくらいだもん、本当に変わったね」
中学時代の織田とはまるで別人だ。
「そやけん初恋の相手いうても、違う気もしとんよ」
「確かにそうだね」
玲子と香澄は、中学時代の織田を思い出して、クスッと笑った。
ふたりの知っている織田は、小柄でかわいい雰囲気の男の子だった。しばらく会わないうちに背も伸び、がっちりした体格に変わっていた。声をかけられなければ、絶対に気づくことはなかったと確信できる。
「それより玲子はどうなん? 大学で彼氏できた?」
また武彦の顔が浮かんだ。
「その顔は……おるんじゃろ。だれ?」
「う、ううん、おらんよ。代わりに、か、彼氏じゃないけど親しく話せる人ならおるかな」
「おお、やっとこっちの言葉に戻ったな。図星やったろ。で、どんな人なん? 写真ある?」
身を乗り出してこんばかりの香澄に圧倒され、玲子はためらいつつもスマートフォンを取り出した。見慣れたとっておきの一枚を表示する。バイト先のジャスティというライブ喫茶で写したものだ。ベースを弾いている姿はわかるが、ちょうど下を向いているときに撮影したので、顔がはっきり見えない。
「うそっ、バンドマン? 芸能人なん?」
「違うよ。アマチュアだって」
「ほしたら、同じ大学の人?」
「うん。でも本当に彼氏とかそういうんじゃないの」
一番気軽に話せる先輩だ。向こうも同じように思っているかは不明だが。
「ねえ、他の写真は? 顔がよう解らん。一緒に写しとんのとかないん?」
香澄の更なる要求に応えたいところだが、残念ながら武彦の写真はそれきりだ。
そこまで親しい関係ではないから、当然といえば当然だろう。
「夏休み終わったら、写真お撮りや。でもって写したら速攻で送ってや」
「そんな、無茶言わないでよ」
「親しいんじゃろ? それくらいできろ」
「それはそうだけど……」
親しいといってもつきあっているわけではない。その前に自分が武彦に気があるのかすら解らない。
「また言うとんの? 好きか解らんて」
「またって、前にもそんなことあったっけ?」
「あったよ。家庭教師のときも同じこと言うとったのに、結局つきあい始めたやろ」
そうだったかな、と思い返す。たしかに好きという感覚が解るようで解らない。
「じれったいなあ。その人のこと、どう思てる? 嫌いなん?」
「……嫌いじゃない」
「ときめいとる?」
「と言われても……」
「ならどう? いっつもその人のこと考えとるやろ?」
「うーん、どうだろう」
香澄は大きくため息をつき、テーブルに頬杖をついた。
「なんよ、玲子って勉強できるくせに、好いた惚れたいう感覚が鈍いんよ。せやのにしっかり相手を捕まえよるん」
いや、この前の恋は捕まえられなかった。好きという気持ちは一方的で、玲子の想いと相手の想いは異なるものだった。会う機会が多く、親しく話すからといって、気持ちが同じとは限らない。
「さっさとお認めや、その人のことが好きやって。じゃないと、他の人に取られてしまうよ」
「うわ、耳が痛い。実をいうと相手の人はかなりモテるんだ。いつも、ものすごく派手な格好した女子に囲まれてる。通称、親衛隊」
「ええ? 親衛隊て……取り巻きおるん?」
玲子が頷くと、香澄は若干身を引いた。
「なんでまたそんな相手を……」
「講義室でたまたま隣に座ったとき、忘れてた教科書を見せてあげたのがきっかけだったの。親衛隊は学科内でも有名だったから、そういう人たちに囲まれている先輩がいることは耳にはしてたのよ。でも隣に座った人がその人だなんて解らなかったんだ」
噂の彼は、たくさんの女子をはべらせていい気になってる優男だった。だから、教科書を探してカバンの中身をひっくり返し、見つからなくて途方にくれていた人物がその本人だとは気づかなかった。
そこにいたのは、横顔が儚げで、心細さに今にも泣き出しそうな幼い子のようだったので、玲子は空いてる隣に座り、教科書を見せてあげた。
講義中、目の端に映る横顔が何度となく気になった。たまに目があうと恥ずかしそうに視線をそらす。人と話すのが苦手な、純情すぎる少年だった。きれいな顔立ちだけに、ともするとその人見知りが原因で、冷たい人物と誤解されそうだ。
――友達になりたいな。
そんな考えが自然に出てきた。
ところが事態は予想外の方向に進む。
講義が終わった途端、派手な女子の団体が現れた。何が起こったのか理解できないでいたが、彼女たちが横に座っている人物にまとわりついたのを見て、初めて噂の彼だと理解した。しまったと思ったときは遅く、親衛隊に嫌味を言われてしまった。
気丈な玲子でもひるんでしまい、この人とは二度とかかわるまいと決意した。
呆然としながら、講義室を出ていく彼らを遠目で見ていると、意外なことが解った。彼女たちに囲まれている彼は、いい気になってもいなければ、得意げな顔をしているわけでもなかった。迷惑で困っているのに拒否もできない。心細げにしている少年という印象は、間違いではなかった。
友達になりたいという気持ちは変わらなかった。
「なるほどね。で、その親衛隊はその人から離れんのやな」
「そうよ。何度も意地悪されたんだから。でもそんなのに負けてたら、あの人と話すことできないでしょ」
「力説するね。玲子は絶対、その人のことが好きなんよ」
「……そうなの?」
「まあ、今日は自分の心をじっくり観察してみたらええわ。いっつも彼のことを考えとる自分に気づくからね」
香澄は意味ありげに笑うと、チョコパフェを一口食べた。
☆ ☆ ☆