第九十三話
「なにいってるの! ウタはこの事件の犯人なんかじゃないわ!」
背後でざっと地面を蹴る音がした。
「ああほら、逃げられちまうだろうが!」
「逃げっ……引き留めるにしてもその姿である必要はないでしょう! 早く小さくなって!」
今のクオンは力加減がおかしい。確かに引き留めるには元の姿でないと難しいかもしれないけれど、地面をえぐったりベンチを破壊するほどの力は必要ないことは考えるまでもないはずなのに。
(クオンもこの香りの影響を受けているというの……?)
思い返してみれば、ユカリを探して別行動していたときも資料室でミラに甘い香りがすると言われたときも、すぐ怒りをあらわにしていた気がする。使い魔と魔女は魂を分けた存在であり心も繋がっていて、離れていても片割れがなにを思い感じているのか少しは感じ取れるのだ。アマネの心境が伝わっていていつものクオンならば、すぐに激しく怒りはしなかっただろう。
いつから杖に守られていたのかは分からないが、アマネは香りの影響を受けなかったので、クオンも香りの影響は受けていないと無意識のうちに思い込んでいた。
そしてなぜか合流できた今も、クオンがどうしてこんなことをしているのか、感情が読み取れない。
「ちっ、あいつらをとっ捕まえたら戻ってやるよ!」
焦れたクオンがアマネを飛び越え、逃走を図っていたウタの正面に着地する。
(あいつら……って、ウタ以外に誰が……)
クオンの言葉に引っかかり、誰もいなかったはずだと目で追ったアマネは、尻もちをついたウタが白いものを抱えていることに初めて気づいた。
(あれは……あの白い猫は……)
一度しかあったことはないが見覚えがあった。カヴァイで一匹だけ他の猫と離れていた白い猫。ミンと呼ばれた猫の感情のないガラス玉のような瞳が印象的だった。
(どうしてミンがウタと一緒にいるの?)
アマネが知らないだけでいつの間にか仲良くなっていたのだろうか。しかしウタは前世の杖の修復をお願いしていたので、カヴァイへ向かう時間があったとは思えない。おとなしそうに見えたミンが、ウタの元へ足を運んでいたのだろうか。
「来ないで!」
「ウタ!」
ミンをかばうように背けているウタに駆け寄り、そっと肩に手を置く。かなり恐ろしかったのだろう。その小さな肩は震えていた。
片手でクオンに距離を取りよう指示し、ウタにそっと声をかける。
「ウタ、大丈夫よ。もうクオンは追いかけまわしたりなんてしないから」
「アマネちゃん……」
「なにがあったのか、教えてくれる? それといくつか聞きたいことがあるの。いいかな?」
杖の補修に使った材料のこと、ミンとなぜ一緒にいるのか。どういう真実だろうが、本人の口からきかなければ納得できない。
「クオンちゃん、ひどいんだ。危ないからこの子から離れろって。そんなわけないじゃない。この子は私の話を聞いて慰めてくれる親友なんだから」
「親、友……?」
大好きだと言わんばかりにウタはミンを抱きしめる。瞬間、ぶわりと甘い香りが鼻をくすぐった。ばっと体をのけ反らせるとミンと目が合い、アマネは瞠目する。
(目の色が……!)
カヴァイで出会ったときは空色をしていたはずだった。それが今は夕陽に黒を一滴落としたような濁った色に染まっている。そしてこの色をアマネは以前、見たことがあった。
(フウが操られていたときと同じ……!)
アマネが気づいたことを面白がるかのようにミンが目を細める。それが嗤っているように見えて、ぞっとした。
「ウタ、早く離れた方がいいわ。この猫は」
「そんなっ、ひどいよ! アマネちゃんも私からこの子を奪おうっていうの?」
「違うわ落ち着いて」
ミンを抱きしめ続けていれば自然と香りを吸い込み続けることになる。言動が変わってしまう他にどんな効果があるのか分からないので、一刻も早く引き離さなければ。
寄ろうとすると顔を歪めたウタは立ち上がり、後ずさりながら首を振った。
「嫌だ嫌だ嫌だ! どうしてみんな持っていっちゃうの? アマネちゃんにはクオンちゃんがいる、ヒイロくんがいるでしょ! あははっ、そっか。ヒイロくんの代わりにこの子が欲しいのね! そうでしょ!」
一転してウタがクイズに正解した子供のように楽しそうに笑う。
(どうして急にヒイロの話になるのよ)
「ウタ、なにを言って」
「ヒイロくん、ユカリさんと二人っきりで仲よさそうにしてたもんね。取られちゃって、かわいそうにー、ふふっ」
『――あらら、かわいそうにねぇ。貴女もそう思わない?』
一瞬、風の唸りとともに、脳裏に知らない女性の声とはっきりしない姿がよぎった。
(この言い回しを、知っている? でもいつ、どこで……)
記憶の蓋がうっすら開いて顔を覗かせただけのようで、それ以外なにも思い出せない。ただなにか大切なことを忘れているという直感だけ残る。
「でもね、この子は絶対あげない。この子は猫だけど、アマネちゃんすぐ壊しちゃいそうだし」
「……っ、それは」
(やっぱり、不満に思っていたわよね。どれだけ丁寧に作ってもすぐに壊されたんじゃ、気分がいいはずがない)
どんなに気をつけて使っても、一週間も持ったことはなかった。そしていつもにこやかに笑って許してくれて、次に繋げるべく一生懸命ノートに記録を取っていた。その真っ直ぐな姿が眩しくて、優しさに甘えていた。
「ごめんなさい……もう、できるだけ壊さないように努力するわ」
「そんなこと言って、私が作ったものなんて脆いおもちゃだって、壊して楽しんでるんでしょ。だから理事長にお願いしてそんなすごい杖をもらったのよ」
「違うわ」
(壊してばかりいることが申し訳なくて、私なんかのために時間を使わせてしまってばかりではいけないと思って)
「だったら、今ここでその杖壊してよ」




