第八十四話
街中は日差しが強いせいか人通りがまばらになっていた。片手で影を作りながら見上げると、太陽は頂点に差し掛かろうとしている。カヴァイで用事を済ませたら昼食にしよう。
滲む汗もそのままに、ヒイロは立ち止まることなく足を動かす。
ほどなくして植物に覆われた建物が見えてきた。日陰が多くすぐ横に葉が生い茂っているからか、日向に比べてかなり涼しい。
「すみませ……」
扉をノックしようとしたが、漏れ聞こえる声が荒々しかったので軽く叩く寸前でこぶしを止めた。
盗み聞きするつもりはないのだが、日を改めた方がいいだろうかと迷っている間にも怒号が飛び交っているのが耳に届く。
(ユカリはいるみたいだけど、喧嘩かな……前よりもずいぶんと荒々しいな)
会話の内容まではさすがに分からないが、ユカリに案内されて初めてカヴァイに来たときよりも容赦がないようだ。
(まぁ、俺たちが来てたんだから普段通りにはいかないわな)
今日返すのは諦めることにして踵を返したそのとき、ガシャンと割れる音が室内から響いてきた。それは二度、三度と続き、ただ事ではないと即座にドアノブをつかんだ。
「どうしっ」
ドアを開け放つと同時に耳元でガラス瓶が壁に叩きつけられ、派手に割れた。砕けたガラス片が床に散り、中に入っていた青緑色の液体がどろりとこぼれる。
中央の丸いテーブルは倒れ、床に転がる商品たちが散らかっていた。薬瓶もいくつか割れたり転がっていたりと大惨事だ。
「あっ、ヒイロくん大丈夫ですか?!」
叩きつけられたガラス瓶を追って振り返ったユカリが目を見開く。駆け寄ろうとしたのを大丈夫だと片手を上げて制し、奥のカウンター前で前かがみになり、肩で息をしているゼンを見やった。
視線がかち合うと睨みつけられた。明らかに邪魔だという意思が伝わってくる。
(……なんだ? 魔力が乱れている、ような)
波立つ怒りに合わせて魔力がささくれ立っているのを感じるが、それだけではないような気がする。
「ちょうどいい。あんたユカリを連れて出ていきな」
「だから、私は出ていきません!」
「いったい……なにがあったんだ?」
会話の雰囲気からして、単にこの店の外へ出ろという意味ではなさそうだ。
眉を吊り上げていたユカリが困惑した顔で振り返る。
「急に師匠が、私を破門にするって言いだしたんです」
「ふん。あまりにもうるさいから店に入れることを許しただけで、弟子にした覚えはない」
「そんな。薬草や調合について、いろいろ教えてくれてたじゃないですか!」
「研究の邪魔だったからさっさと教えてやったのさ。しつこくてしつこくて、いい迷惑だったよ。分かったら二度と顔を見せるんじゃない」
なにもそこまで言わなくてもと思うのだが、ヒイロはあくまで居合わせてしまった部外者なので口を出しづらい。
しばらくゼンと睨み合っていたユカリだったが、やがて悄然としてうつむいた。
「………………分かりました。今まで、ご迷惑をおかけしました」
一礼してゼンに背を向け、ユカリは出口に向かって歩き出す。
「ユカリ……」
「待たせてごめんなさい。行きましょう」
促されるままユカリの背を追ったヒイロは、扉をくぐってからちらりとゼンを見やる。出ていくまで油断しないといった表情で見据えられていた。
そして彼女の足元へ一匹の白い猫がやってきて寄り添う。
(あの猫は……)
目の周囲が茶色い猫に一瞥されたのを最後に、ゼンたちの姿は扉の向こうに消えた。
「………………っ、ごほっ、ぁ……」
胸を突く痛みに襲われ、反射的に口元へ手を当てる。それから何度か音の濁った咳を繰り返したゼンは、手のひらからこぼれた赤い液体を見下ろし、微笑を浮かべた。
「…………これでいい……これで……」
あれだけきつく言っておけば、戻ってくることはないだろう。
それにしてもタイミングよく前に来た少年が顔を見せたものだ。
(ヒイロ、といったか、あの坊主……)
ケンカの勢いに気圧されていたようだったが、同時にこちらの様子を観察していた。騎士を目指し、日々訓練している者は魔力の変化に敏感だ。もしかしたらこの体に蠢く異質な魔力を感じ取ったのかもしれない。今も夕方までまだ数時間あるというのに眠りから覚めたかのようにぐずっている。
「ちっ…………」
ふらつきながらもカウンターに向かい、鍵付きの引き出しを勢いよく開ける。そしてずざっという音とともに現れた錠剤をわし掴み、頬張った。
服用者への配慮がない、吐き出したくなるような味がするのを無視してカウンターの上に置いてあった水とともに飲み下す。
それでも内側をかき混ぜられているような激痛は数分続き、やっと収まったころには血と脂汗で床がすっかり汚れてしまっていた。
「…………作っ…………ないと」
ユカリが確認してきた薬を作った覚えはなかったが、ちらりと棚に保管している原材料を視認すると記憶より量が減っていた。そしてそのことに今まで疑問も持たなかった。
来訪者はもうないのだから床の汚れなんて気にしなくていい。放置したまま奥の研究室に体を運び、動きの鈍い腕を叱咤しながら必要な器具と材料を用意していく。
いつのまに作ったのか。それを誰が持ち出し、誰が使用したのか。
そしてなにより、ユカリが言っていた灰の量と原材料の消費量が合わない。
(抑える薬もいよいよ限界のようだし、記憶まで飛びはじめているとはね。これも今日中にどこまで用意できるか……)
ランプに火をつけ、適量の水を入れたガラス瓶に青い実を埋め尽くすように満たす。
「ヌァーン」
鳴き声とともにふわりと毛並みが足元をくすぐった。幼少期からの長い付き合いで、とっくにおばあちゃんのはずなのだが、その足取りはしっかりとしていて老いを感じさせない。
見下ろすと、見上げられた。ミンがじっと見つめ返してくるときは、なにかを伝えたいときだ。
「悪いねミン、急用なんだ。少しだけ待ってておくれな」
「ヌァーン、ヌァァァーン……」
珍しく引き下がらないミンが急かすように鳴き続けるのを耳にしながら、ゼンは目の前にある薬の調合に集中した。
更新遅くなってしまいすみません……!!




