第八十一話
「……っ、クオン待って!」
顔を上げると同時に駆け出したクオンを捕まえようと手を伸ばしたが、届かない。
たったかと運動場へ続く階段を下りていく。近づいてくるクオンに気づいた二人は会話をやめてしまった。
クオンがなにかを言ったのか、二人がこちらを向いて離れた位置にいるアマネに気づく。
(む、向こうで呼んでるとか言って誘導してくれればいいのに、なんで居場所を……!)
これでは待っていた時間の意味がないではないか。ユカリに訊ねることはできるが、ヒイロもこのことを知ることになってしまう。
アマネの懸念通り、ヒイロたちが走ってきた。逃げる間もなくどうしようと視線をさ迷わせていると、ヒイロに両肩をがしっとつかまれた。
「大丈夫かアマネ!」
「………………え?」
大丈夫かと聞かれても特に思い当たる節はなく、アマネは驚きのあまり硬直していた。
(後頭部が少し痛いくらいで特に……それよりもちょっと、近すぎないかしら……)
「顔が赤いですし反応が薄いので、熱中症の初期症状かもしれません」
(え、熱中症? 誰が?)
遅れてやってきたユカリもアマネの顔を覗くなり眉根を寄せたので、ますます状況が分からなくなってくる。
「よしじゃあ、日陰に移動だな。ユカリは飲み物を頼む」
「お任せください!」
「えっと、どういう状況……っ!?」
会話に参加できないどころか、ヒイロが横へ移動したのを目で追っていたら唐突に体が浮かび上がった。
「しっかりつかまれよ。とりあえず保健室か、食堂か……」
「…………え……えっ」
ヒイロの顔がもっと近くなった。首にかけられているタオルから努力の匂いがしてくる。他の人であれば嗅ぐのも嫌だというのに、ヒイロの匂いは全く嫌じゃない。そして匂いもそうだがなにより、背中と膝裏に回された腕が筋肉質で、と全身で感じる今のヒイロの情報量の多さに頭が混乱した。頭からは湯気が出そうで、心臓は疾走しっぱなし。どうにかなってしまいそうだ。
(とにかくあれよ、近すぎる!)
「なんか更に赤くなってないか? 熱でもあるんじゃ……」
こつんと軽く額を合わせられるとともに、視界いっぱいヒイロで埋め尽くされる。
「………………よ……」
もう、限界だった。
「やっぱり少し熱いな」
「な……にする、のよ!」
悲鳴に近い言葉が飛び出すとともに、足元から吹き上がった暴風がこの場にいる全員を吹き飛ばした。
はっと我に返ると同時にふわっと地面に足がつく。慌てて周囲を見渡すとヒイロは仰向けにひっくり返り、ユカリも少し離れたところで尻餅をついていた。
「あっ、ごっごめんなさい。大丈夫ですか」
「ちょっとびっくりしたけれど大丈夫。魔法ってすごいですね」
立ち上がりスカートについた砂埃を払うユカリは、見た感じ怪我はしなかったようだ。
「本当にごめんなさい。普段はこんなことないのだけれど」
(混乱したとはいえ、人を巻き込んでしまうなんて……)
感情に任せて魔力が噴き出したのは、幼少期の火事の事件以来だ。今回は軽く吹き飛ばしただけで済んだみたいだったが、こんなことあってはならないのである。
「気にしないでください。アマネさんのせいじゃありませんから」
「俺のことはスルーかよ……」
低い声で話しかけられて振り返ると、ヒイロも立ち上がって全身についてしまった砂埃を払っているところだった。しかもその目は据わっている。
「ごめんなさいヒイロ。こんなことするつもりじゃ」
「謝る必要ないですよ」
唐突に割って入ったユカリは目を丸くするアマネの前に立ち、腕を組んだ。
「ヒイロくんは女の子の気持ちが分かってません!」
びしっと指を指され、ヒイロは戸惑いの表情を浮かべて目を瞬かせる。
「お姫様抱っこまではまぁ、熱中症かもしれないと私が言ってしまったので仕方ありません。が、突然おでこで、それも男の人に熱を測られたら、女子は誰だってパニックになりますよ」
ヒイロは僅かに目を泳がせると、申し訳なさそうに人差し指で頬を掻いた。
「う……悪かった。小さいころ、熱が出たときにキーちゃんがよくそうしてくれてたから……つい」
「あ、あの。ヒイロは悪くないわ。心配でしてくれたことだって、分かってるから……二人とも、ありがとう」
勝手に動揺したのはアマネだ。二人はアマネのために動いてくれただけ。
(いつでも平静でいられるようにならないと、対応が一瞬遅れただけで手遅れになることもあるのだから)
アマネが新たな課題を見つけたところで、クオンが上から降ってきた。肩に着地し、眉根を寄せながら乱れた羽毛を直しはじめる。
「はーあ、やっと戻って来れたぜ」
「クオン……そういえばどこに行ってたの?」
「どこに、行ってただぁ?」
ぴたりと毛づくろいをやめ、おもむろに振り返ったクオンはかっと目を見開いた。
「誰よりも軽―いオレっちはよ、それはもう高―く飛ばされて、木に引っかかったわけよ。だーれも気づいてくれないから、がんばって脱出してきたんだろうが!」
確かに運動場と校舎の境目に植えられている木々は背が高い。しかも葉が生い茂っているので、まぎれてしまうと見つけるのは難しくなるだろう。
「ご、ごめん……」
「ったくほんとによー…………で、肝心の話は?」
「あ、そうだった。ユカリさんに………………あれ、ない」
手分けして探しはじめたときにスカートのポケットに入れておいたはずなのだが、入っていない。
(うそ。落としたの? いつの間に……)
あれはネズミに関しての手がかりになるかもしれない、とても重要なものだ。
なくしたかもしれないことに青ざめる。
「そうそう、アマネさんこれ飛んでいっちゃうところでしたよ」
ポケットの辺りをはたきながら慌てふためくアマネにユカリが差し出したのは、四方をまとめて縛られた包みだった。ミラがなくさないようにと器用に包んでくれたあの包みで間違いない。
「あっ、これ! よかった……ありがとう」
包みを受け取り、アマネはほっと息をついた。




