第七十八話
「そろそろ時間だよな」
「そうね。昇降口へ行きましょうか」
言われて自室の時計を見やると、確かにそろそろ出た方がいい時間だった。
椅子から立ち上がってカバンを肩に提げ、トランクケースを片手に扉へと向かう。
扉に近づいたアマネは、微かな音に気づいて足を止めた。
《クオン……なんか、カリカリ言ってないかしら》
《んん? ……確かに下の方から引っかくような音がするな。なんだ?》
足元と言っていいほどかなり低い位置から聞こえてきていた。大きさからして、なにかの動物か、使い魔辺りだろう。そして寮に残っていたり登校したりしている知り合いの中でわざわざアマネの元にやってくる使い魔といえば、ひとつしかない。
《ヒナタだけで来たのかしら》
《うーん、あいつらいつも一緒だろ。よっぽどの急用なのか?》
《とにかく、開けましょう》
目線を下に向け、ドアノブを押し下げて引き開けた。
「遅い。遅いぞ! お前たちの反応速度は亀か、かたつむりか!」
憤然としているのはヒナタ、ではなく初めて見る使い魔だった。そしてその姿を目にした途端、前世の記憶がフラッシュバックして身を硬くする。
(ネズミ……なんでここに)
燃え盛る街、血の臭いで充満した空気。そして見境なく人々を襲う親友の使い魔である巨大なネズミ。
《落ち着けアマネ。こいつは別もんだ》
《え、ええ……分かってる……》
頬をもふもふとされ、息を細く吐き出して心を落ち着かせる。
「なんだ。詫びもなしにネズミ様の顔をじろじろと――!!」
(別物なのは分かってる。毛色も、感じられる属性もまったく違うもの)
ぎゃんぎゃんと文句を連ねているこの使い魔は、よく見ると青みがかったグレーというきれいな毛色をしている。アマネが風属性だからか、この使い魔の周囲だけ湿度が高くなっているのを感じ取れたので水属性なのだろうと思われた。
「待たせたのはごめんなさい。私になにか用かしら。これから出かけるのだけれど」
「なにって迎えだ。ってのに、のろのろしてるからぎりぎりだぞ!」
「迎えに……って、もしかしてあなた、ミラ先生の」
言いさすと使い魔は渋面になった。
「察しの悪い生徒だな。こんなんで試験大丈夫なのか? ほら急げ。今回だけ特別に走れ!」
「えっ、ちょっと待って」
急に走り出されても荷物があるのだから追いかけるのは大変だ。そもそも昨日、昇降口に集合だと言われているので迎えは必要ないのではないだろうか。
慌てたせいでトランクケースが扉につっかえてしまった。
「おい、そんな大荷物どうするんだ。試験なのにおしゃれしていくつもりか!」
「おしゃれなんて……ナギナミに行くんじゃ」
「ナギナミ行きだったら夜明け出発になるわ! そんなもん置いて足を動かせ足を!」
ぴょんぴょんと跳ねたかと思えば、踵を返して階段を駆け下りていった。
《忙しい奴だな……》
《ええ……本当にミラ先生の使い魔なのかしら》
落ち着いていて常に余裕があるミラとは対照的過ぎて少し疑ってしまう。
トランクケースはとりあえず隅に寄せておき、鍵をかけた。迎えだと言っていた使い魔はとっくに姿が見えなくなっている。集合に遅れることにはなりたくなかったので、使い魔を追いかけて階段へ向かった。
使い魔があまりに急かすものだから小走りで校門までやってきたのだが、校舎の壁に取り付けられている時計はまだ九時五十分だった。
《あれ、部屋の時計見たときも五十分だったわよね?》
《五十分だったな。あー、電池入れたのいつだっけ?》
一度も入れ替えた記憶がないので、編入前からセットされていた可能性が高い。
《電池、切れかけてるのかもな》
《切れかけてるのに早まることってあるの?》
《いや、オレっちに聞かれてもそこまでは》
昇降口へ歩いていくと、当然のようにミラが立っていた。こちらに気づきにこりと笑みを向けてくる。
「おはよう、十分前集合とはいい心がけね」
「おはようございます……準備が早めに終わったので」
先に行ったはずの使い魔の姿はない。あのすばしっこさならアマネたちより遅れないはずなのに、ミラの使い魔ではなかったのだろうか。
「ちなみに私の使い魔がそっちに行ったと思うのだけれど、会わなかった?」
「あの、青いネズミの?」
「そうそう。かなりせっかちだったでしょう?」
「ああ。足を動かせ足を! とか言って、オレっちたちより先にここへ向かってったぞ」
クオンが微妙に似てないものまねをして見せ、ミラは頬に手を添えて息をついた。
「先に行ったらお迎えの意味ないじゃない……迷子になってるわね」
ため息混じりに発せられた思わぬ言葉に目をしばたたかせる。
「え、あの、ミラ先生の使い魔なんですよね? 教師の使い魔なんだから学校で迷子なんて」
「あの子ね、よく迷子になるのよ。アマネさんのお迎えも魔力を辿るとかした勘のようなもので、会えただけで奇跡的ね」
「そ、そうなんですか」
魔女が見知っている場所でも迷子になってしまうとは。
「仕方ないわね……チウ」
短く呼ぶと、アマネがクオンを呼んだときのように一瞬であの青いネズミが現れた。ミラの足元にべしゃっと墜落したチウは、打ち所が悪かったのかうずくまって震えている。
「……のっ、ミラ! なぜ早く呼ばないんだ! 余分に走ってしまったではないか。そしていつもなぜ手のひらで受け止めない! また腰を打ったではないか! 走れなくなってもいいのか?!」
「きれいな着地を習得なさいっていつも言ってるわ。水属性なのだから生かしなさいともね」
《仲が、悪いのかしら》
《さぁ……いつもって言ってるから、そうでもないんじゃねぇ?》
睨みつけてくる自身の使い魔を無視して顔を上げたミラは、困惑しているアマネたちに向かって肩をすくめた。




