第五十一話
そこに現れたのは、黒不気味な靄をまとった茶色の毛並みの牛だった。角はクオンの大剣ほどに長く、瞳は濁った赤で、それが恐ろしさに拍車をかけていた。
「これが、あのスズなの? スズはもっと穏やかな目をした農牛で……」
ミツバはフウやアイカといつも一緒にいたから、闘牛姿のスズとは違う姿のスズを知っていたのだろう。目の前にいるスズをスズだと信じきれないらしい。
「あの姿はうそっぱちよぉ。これがスズの本来の姿なの。可愛いでしょぉ?」
心底フヨウはそう思っているのか、茶色の毛並みを愛おしそうに撫でている。けれどアマネたちからしたら、近寄りたくないほど異様な使い魔だった。
「スズぅ、あなたの可愛さを皆はわかってくれないみたい。嫌になっちゃうわねぇ?」
フヨウがスズに同意を求めると、スズは大きな身体に似合った音量の鳴き声を上げた。その音量に負けて、耳や脳が痛みを訴える。しかしここで目を瞑ってしまったら、フヨウの思うつぼになることは間違いない。絶対に閉じまいと、瞼に力を入れた。
スズは前足を高らかに上げると、そのままアマネたちの元へ突進してきた。
「クオン、ヒイロっ!」
ここで勢いある突進を止められるのは、同じ使い魔であるクオンとその持ち主であるヒイロしかいない。
「分かってる!!」
《任せとけ! アマネはボブのやつを頼んだぜ!!》
ヒイロは身体全体に強化魔法をかけると、大剣であるクオンで、スズに攻撃を放った。
スズはその攻撃を大きな角で受け止め、巨大な身体でヒイロを跳ね返そうとしていた。負けじとヒイロもその場で踏ん張ってみせるが、じりじりと後退している。たとえ身体に強化魔法をかけても、体重が何倍もあるスズには押し合いで負けてしまうようだ。アマネがクオンに魔法を付加しようとするが、その前にフヨウが手を打ってきた。
「そうはさせないわぁ」
フヨウは付爪をアマネに向け、無詠唱で魔法を放った。
アマネの周囲の空間が歪み、紫色の触手がいくつも出現した。いくつかの触手は展開させておいたクーヘキにぶつかって消滅したが、クーヘキ自体がそれほど強力なものではなかったことから、クーヘキを破ってアマネを四方八方からがんじがらめにする。
無詠唱であったために、それがどんな魔法なのかもわからず後手に回ってしまった。無理矢理にでも抜け出そうともがいてみるが、拘束が強まるばかりで一向に抜け出すことができない。
それでも瞬時に頭を切り替え、次にどういう行動をとるのが正解なのか考えた。
(今は私が助かるよりも、ヒイロとクオンの手助けをする方が先決!)
ヒイロたちにと魔法を行使しようとするが、フヨウがそんなへまをするはずがなかった。アマネを拘束せず、いまだ空中に漂うだけの触手がアマネへ襲い掛かってきた。
「っ、カザタマ!」
それを追い払うべく魔法を行使するせいで、思うようにヒイロたちへ援護をすることができない。苦虫を噛みしめるようにフウとの攻防をしていると、背後にいたラキがヒイロの元へ行く姿が視界の端に映った。
「ミツバ、お前はアマネの援護をするさね! 俺はヒイロの援護にいくさ!!」
「わ、わかりました!! ヨウ、出てきて!!」
先程のネズミとの戦闘では出さなかった使い魔を、ミツバは召喚した。ミツバの肩に緑のシマリスがふんわりと舞うように現れる。
使い魔との共闘はまだ不安定ではあるが、多数の敵を相手にしなくていいことから使い魔を召喚した方がいいと判断したのだろう。それに今回はアマネとミツバ、二対一での戦闘だ。不安定なところはアマネが補えばいい。
「ヨウ、アマネさんを助けるのを手伝って!」
「了解した」
ヨウはミツバの肩から飛び降りると、音もたてずに地面に降り立ち、軽やかな足取りでアマネの元までやってきた。
「火球よ、邪を燃やすつぶてと成せ――タマヒ!」
専門学校の一年で習う基本の技、タマヒ。火系魔法を得意とするアイカが好んでよく使う魔法だ。アイカとずっと行動していたから、自ずとミツバも練習していたのだろう。威力はアイカに比べたら弱いが、それはミツバの使い魔であるヨウがミツバのタマヒに上乗せしてタマヒを使用することによって、威力を最大限まで引き上げていた。
タマヒが触手に当たり、赤い炎が包み込む。しかし触手にはまるで効果がないのか、触手は炎に包まれても、燃えることなくそこに存在していた。
「ど、どうしてっ」
「ミツバ、落ち着くのだ。おそらく物理が効かないとするとこれは――」
攻撃が効かないと分かるや、ミツバが途端に慌て出す。しかしそれを使い魔であるヨウが冷静な声で落ち着かせ、自身の推測を声に出す。アマネも同じ推測に達していたので、その言葉を引き継いだ。
「これは――幻なのね」
よく思い出してみれば、ゲンキョウという魔法だって、いきなり目の前に姿鏡が出現したのだ。しかもその姿鏡からは、個の意思を持って外へ出てこようとしていた。もしあれが幻なのだとしたら。ヒイロが真っ二つに切ったとき、音を立てず蜃気楼のように姿を消したのも頷ける。
そして今回のこの触手。靄のような不確かなものではなく、確かにアマネの動きを封じている。けれど幻覚系の魔法には様々な使い方がある分、弱点もある。それは幻だと認識した場合、魔法が解けてしまうということだ。
アマネを拘束していた触手は輪郭を失い、霧散した。
「あら、残念。もう気づいてしまったのねぇ。せっかく貴方の防御魔法を利用して、幻ではなく、実体のように見せかけたのに」
「私もあれやヒイロが大剣で切ったときは騙されたわ。まあミツバのおかげで助かったけれどね」
「まさかあの子が魔法をこの状況で発動できるなんて、思ってなかったのよぉ」
今までフヨウに殺されてきた魔女や騎士は、これに気づくことなく戦ってきたのだろう。もしくは気づいても、その幻覚が本物であると錯覚してしまうほどの魔法だから、脳が幻覚だと認めてくれなかったか。
けれどフヨウが幻覚系に秀でた元魔女だと判明した今、アマネの敵ではない。前世で幻覚の魔女が同じ村にいたことがある。彼女よりもフヨウの方が何枚も上手の魔女であることは確かだ。しかし彼女のおかげで幻覚を幻覚だと認めることができる。
「フヨウ、あなたの攻撃はもう私には当たらないわ」
フヨウが新たに作り出した触手がアマネを襲うが、それらは全てアマネの身体を通り抜けていった。
「白の魔女が言っていた通り、本当に規格外なのねぇ。まあいいわぁ。あなたが無理でもミツバは違うもの」
「まさかっ」
アマネが振り向くと、アマネを通り抜けた触手は、ミツバの身体に絡みついていた。縄のように何重にも絡みつき、ミツバも苦しそうな表情をしている。
「ミツバ、それは幻覚よ!!」
「わかって、ます……けど、どうしても……っ」
心は分かっていても、脳がそれを受つけようとはしないのだろう。アマネの魔法でどうにかできればいいのだが、アマネは天空魔法の使い手。どうしても直接攻撃になってしまう以上、実体のない魔法への対処が思いつかなかった。同じ幻覚魔法を使い手がいれば話は別だが、この場に都合よくいるわけがない。
「ミツバ、ごめん。少しの間だけ辛抱して」
だとしたら、アマネの行動は一つしかない。
ミツバに背を向け、フヨウを睨みつけた。フヨウはその様子に満足したような笑みを浮かべていた。
「手加減はできない」
「そんなの当たり前でしょぉ? それよりも手加減なんて余裕――あるのしら?」
「どういうっ」
フヨウがにんまりと口角を上げた。その気味の悪い笑みに、ぞくりと悪寒が走る。
アマネが空けた壁の穴から、冷たい風が流れてきた。
「外を見てごらんなさいな。もう黄昏の時間、逢魔時なのよ?」
その風はフヨウの元にいき、長い前髪をさらりと撫でた。前髪の間から見えたのは真っ赤な瞳。けれどどの瞳の色が徐々に変わっていくのに気がついた。真っ赤だった瞳は、窓の外から見える夕陽と同じ色に変化していた。
驚くアマネの表情を面白いとでも言うように、その長い前髪をかき上げた。
「七つの大罪の魔女はね、白の魔女から特別な魔力を分け与えられているのよぉ。その魔力はね、逢魔時から使うことができるの」
「魔力が分け与えられている? どういうこと? あの子は私がこの手で……殺したのよ」
七つの大罪の魔女は、白の魔女が死んでから、独自に行動をしていると思い込んでいた。特別な魔力を分け与えられているとは一体どういうことなのか。それではまるで、今も生きているみたいではないか。
ドクン、鼓動が大きく音を立てた。
「何を言っているのぉ? 白の魔女は生きているわよぉ? だって私、数週間前に会ったばかりだもの」
「え……?」
ドクン、ドクン、ドクン。一回ごとの鼓動がやけにうるさい。
(あの子が生きている? いや、そんなはずがない。最期をきちんと見届けたもの)
動揺を隠すことができず、顔が強張っていくのが分かる。
「信じる信じないはあなたの勝手よぉ? でも、これが真実。さて、そろそろおしゃべりは終わりにしましょうか」
フヨウの言葉ではっと我に返る。
「――っ」
(そうよ、今は戦闘中。こんなことで心を乱している場合じゃないわ……)
そんなことを敵であるフヨウに気づかされるなんて、とアマネは下唇を噛んだ。
白の魔女のことを考えるのは、この戦いが終わってからだ。今は戦いに集中する時であって、考え事をする時ではない。
フヨウはすぐ近くでヒイロとラキと戦っていたスズに付爪を向けていた。そこからスズに向かって魔力が放出され、スズの身体がさらに大きくなっていった。
ヒイロとラキは大きくなったスズの攻撃に耐えきれず、吹き飛ばされてしまう。
「ヒイロ、ラキっ!!」
ヒイロたちがぶつかった衝撃で、壁の一部が破壊される。壁が壊れただけならまだいい。けれど壁が壊れるということは、すなわちヒイロたちがそれほどの攻撃を受けたことを意味する。
土煙が舞う中、ヒイロたちの姿を探そうとするが、フヨウに邪魔をされてしまう。
「よそ見をしている暇はないでしょう?」
フヨウはアマネの後ろにいるミツバに向かって、さらに多くの触手を向かわせた。幻覚系の魔法には、アマネの天空魔法は通用しない。その触手をどうにかミツバから遠ざけたくても、すでに幻覚だと気づいてしまったアマネの身体を通りぬけてしまう。
(どうにかしないと、どうにかっ……そうだ!!)
身体を通り抜けていってしまのなら。こちらもそれなりの方法で挑めばいい。天から舞い降りるように降ってきた案を、イチかバチかの確率でアマネは試すことにした。
「空中に漂う水たちよ、寄り添い幻を映し出せ――スイキョウ!!」
天空魔法は幻覚魔法に通用する魔法がないと思っていた。けれど、この魔法ならもしかしたらいけるかもしれない。
いつもは日常的に鏡代わりとして使っていた、とても弱い魔法。魔力もそこまで使用しない、攻撃力を持たない魔法。だからこそ、魔力を何倍にも込めて、さらに詠唱することによって魔法を高めていく。
空中には目に見えないほど小さな水が数えきれないほどたくさん漂っている。それを魔法で集め、一つの水にして両手を広げたほどの水鏡をミツバの前に作り上げた。水鏡は夕陽の光を反射して、触手を映し出す。
触手はそれにも関わらず、水鏡の向こうにあるミツバを攻撃しようと突撃していく。けれどそれは水鏡によってはじかれた。
(よし!!)
心の中でガッツポーズをする。
「なっ、どうして……」
対してフヨウは驚きを隠せないでいた。
「昔からこう言わない? 鏡は魔除けになるって。だからイチかバチか試してみたの。幻覚系の魔法だったから、確率の低い勝負だったけれどよかったわ」
フヨウが動揺している隙に、アマネはヒイロたちがいる方角へと視線を向けた。




