第三十五話
翌日、ベッドの上で身を起こすトウカの傍らにキシナが立っていた。アマネの隣にはヒイロがいて、怒っているようなそうでもないような、なんともいえない顔をしている。
「トウカには昨日話したけれど……魔女の資格を返上することにした」
「キシナが申請を済ませてくれて、今日の午後に受取人の方が来てくれるそうなの。よかったら……」
唇を噛んでいたヒイロは、最後まで聞かずに踵を返した。アマネも一言断ってから病室を飛び出す。遠のいていくヒイロの背に、アマネは鋭く呼びかけた。
「逃げるのヒイロ」
足を止めたヒイロに近づき、腕をつかんで見上げる。
「納得できないかもしれない。でもここまで関わった私たちは、見届けなきゃいけないと思う。特にあなたは身内でしょう? 私よりもずっと、心配してきたんでしょう?」
「……ああ、納得できねぇよ。心配だったよ!」
振り返ったヒイロは怒りながら泣きそうになっていた。
「こうなることもなんとなく分かってた。俺じゃあ、なにもできないってこともな!」
泣きそうになっているとは思わなかったアマネがどうしたものかと思っていると、ふいに頭上が翳った。
ゴッ、という音と共にヒイロの頭に拳が落ちる。目を瞬かせて振り仰ぐと、微笑んでいるのに怒気が溢れ出ているキシナの顔を目の当たりにしてしまった。
「その気持ちだけで十分嬉しいのだけれどね、院内は静かにしなさい」
「……はい」
「すみません」
反射的にアマネも謝ってしまうほど、キシナの怒った顔は震え上がるくらいに恐ろしかった。
国家から派遣されてきたスーツ姿の受取人は、お昼過ぎにやってきた。病室内で立会人としてアマネとヒイロ、キシナが壁際に寄り、ベッドに腰掛けたトウカの前に受取人が立つ。
「ではまず、使い魔をほどいて一つになってもらいます。お願いします」
「はい」
受取人に促され、トウカは膝の上に使い魔を召喚した。初めて見るが、黒い子猫の姿をしていてかわいらしい。トウカは愛しそうに頭を撫でると、詠唱した。
「我が魂よ、姿をほどき、我が元に」
体が透け出した黒猫の使い魔は尾を一振りし、あっという間に消えてしまった。
(なんて、あっけない)
たった一言で消えてしまった。大事な片割れだったはずなのに、数秒で、いなくなってしまうとは。
目頭が熱くなり、アマネは慌てて強く目をつぶって堪えた。涙で視界をぼやかしている場合ではない。見届けなければと、感情の波を押さえ込む。
なんとか治まったので目を開けると、なぜかトウカの顔色が悪くなっているようだった。元気になるはずじゃあと動揺していると、キシナが身を屈ませてそっと耳打ちしてきた。
「長年離れていてそれぞれの意思がある魂だから、馴染むのに少し時間がかかるんです」
原因は分かったものの、倒れはしないかとはらはらしてしまう。あとは資格の証明でもある魔女の証を渡せばいいだけだ。早く終われと、アマネの心ははやっていた。
「確認しました。では、魔女の証を渡してください」
指示通りにトウカはすぐ横に置いておいた魔女の証であるバッジを手に取り、一歩前に出た受取人の手のひらに置いた。受取人はバッジが本物か確認すると、持ってきていたカバンからケースを取り出し、クッション生地の中央に収納した。
「使い魔をほどき、証の返上を確認。今まで、お疲れさまでした」
「ご足労いただき、ありがとうございました」
「いえ。では、失礼いたします」
受取人が立ち去り、室内は静かになった。淡々と事は進んで一瞬の出来事のようだったが、前と後では現状は大きく変わっている。
トウカの体が傾いだのを見逃さず、キシナが片腕で抱きとめた。
「トウカ、よくがんばったね」
「いえ、これからよ。ヒーちゃん、アマネさん、立ち会ってくれてありがとう。悪いけど、少し眠るわ」
そう言ってトウカは目を閉じ、キシナは軽々と抱き上げてベッドに横たわらせた。ベッドの反対側に回り込んで布団をかけたアマネは、顔色は悪いもののトウカの呼吸が落ち着いていることに胸を撫でおろす。
「さっきも言ったけど、眠っている間に魂が馴染んで元気になるはずだから、もう大丈夫。二人とも、ありがとう。心配かけたね」
笑いかけるキシナに対し、腕を組んだヒイロは半目になる。
「まったくだぜ。今夜は早めに寝ろよな。目の下の隈を消してくれないと、クラスのみんなが落ち着かないってさ」
「えっ、みんなが?」
「気づいてないとでも思ったのかよ」
呆れるヒイロに同意して、アマネは学校に思いを馳せてみる。ここ最近のキシナの疲れきった顔を見れば、どうしたのかと誰もが心配するだろう。キシナは自身が不安に思っている以上に信頼が厚いのだ。
とりあえずキシナは早めに就寝することになり、トウカの眠りの妨げにならないよう、解散となった。
アマネの魔力も回復していき、奇しくも数日後、トウカと同時に退院することになった。
天気は快晴で、風も申し分ない。日光浴なんてしたら気持ちがよさそうだ。
「んんー、最高の退院日和ね、アマネさん」
「そうですね」
玄関口で清々しく伸びをするトウカの顔色は、すっかりよくなっていた。魂も何事もなく馴染み、日常生活を送るには問題ないと診断されたトウカは、帰宅したらまずなにをしようかと指折り数えていた。
「ヒイロ、僕、洗い物してたっけ?」
「食器なら俺がやっといた。服は今日の当番キーちゃんだろ?」
「や、やばい、洗ったけど干してないよ……!」
「げっ、マジかよ」
後方ではキシナとヒイロがひそひそと話していた。心なしか顔が青ざめている気がする。ちらほら聞こえていたが、トウカは家事のことに厳しいようだ。
「アマネさん、病院での毎日、おかげさまで楽しかったわ」
「私も、いろいろ話が聞けて楽しかったです。今回のことも、貴重な経験をさせてもらいました」
「ふふ、少しでも誰かのためになったのなら光栄ね。でも魔女の資格なんて、元気になったらいつでも取れるもの。またすぐ魔女の先輩として戻ってくるわよ!」
魔女の資格を得るのは簡単ではないはずなのだが、トウカのやる気と勢いを見ていると本当にすぐ戻ってきそうな気がしてくる。
「でもやっぱり、しばらく会えなくなるって思うと……寂しいわっ」
「わぶっ」
トウカが突然両手を広げたかと思ったら、勢いよく抱きしめられた。驚きはしたものの、豊満な胸に受け止められたので痛くはない。痛くはないが、少し羨ましく感じた。
「そうそう、資格を返す前にちょっと占ってみたんだけどね」
屋上でキシナに言われたことと同じことを言われ、アマネは目を丸くした。
「キシナ先生が言ってたのって、トウカさんの占いだったんですか」
「あら、キシナが伝えていたのね。じゃあ私からもう一つ、アドバイス」
耳元に口を寄せられ、アマネはくすぐったさに身じろぐ。
「目覚めのヒントは、ヒーちゃんと手を繋ぐこと、よ」
「ふぇっ!?」
一気に顔が熱くなる。そんなアマネにかわいいと頬ずりしたトウカは、満足そうに離れるとくるりと振り返った。
「さて、そこのキシナさん、急いで帰って洗濯物干すわよ。ヒイロはアマネさんを送っていくように」
「ひゃ、はい! すみません! じゃあアマネさん、また学校で!」
すたすたと歩いていくトウカの後を、荷物を抱えたキシナが慌てて追いかけていった。
見送っているあいだにアマネの荷物を持ったヒイロが隣に並び、二人はなんとなく歩き出す。
寮に向かう道中、しばらく二人は無言だった。アマネの頭の中は先程のアドバイスでいっぱいで、話題をふるどころではない。
(手って、無理! 無理ですトウカさん。クオンが目覚めるかもしれなくても、どうやったらいいのか)
ちらりと手元を見ると、ヒイロは外側の肩にアマネのカバンをかけ、大剣姿のクオンを持ってくれていた。内側の手はがら空きで、数センチ離れているかどうかの距離にある。
(というか、近い! いつの間にこんなに近くで歩くようになったのよ!)
勢いよく間隔をあけると同時に左肩と腕に衝撃が走った。ヒイロが目をむいて立ち止まり、呆れて溜息をつかれた。
「なにやってんだよ。大丈夫か?」
「だい、じょ……ぶ……」
(距離を取りたくて離れたら壁にぶつかりましたって、どれだけバカなの!?)
恥ずかしさのあまり、壁に体重を預けたまま座り込みたい衝動に駆られた。
「立てるか?」
アマネはためらいもなく伸ばされた手に目が離せなくなった。恐る恐る手を重ねると勢いよく引っ張られ、難なく立ち上がることができた。
「退院できたとはいえ、まだ本調子じゃないんだろ。無理すんな」
そのまま歩き出されたので流れで隣を歩くものの、繋いだ右手が気になって落ち着かない。さりげなさを装って手を自身の体に寄せると、ヒイロを目が合ってしまった。
「どうした」
「え、いや…………手、離さないのかなって思って」
「あ、ああ、悪い」
ボソッといった一言で、ぱっと手が離れていった。希望通りになったはずなのに、物寂しく感じることに眉根を寄せる。
(陽射しは暖かいのに、手は寒いだなんて)
再び無言になった。機械的に足を動かして、建ち並ぶ店を気にかけることなく寮までの道を行く。
「姉さんが元気になったのはよかったよな」
「……? ええ、そうね」
とりあえず相槌を打ったものの、唐突な話題の意図が分からず、アマネは内心首を傾げる。次の言葉を待っていると、ふいに右手が温かくなった。見やると再び手が繋がれているではないか。
「お、俺たちもそうならないよう、努力しないとな。パートナーなんだし」
大事なことを言っているのにあらぬ方向を向いているので表情は分からないが、耳がわずかに赤くなっている。アマネはおかしく思えて、今度はこのままでいいかと軽く手を握り返した。
「成り行きかつ仮のね」
「仮でもだ」
予想通りふてくされたヒイロの反応が面白くて、アマネは笑いを堪えるのに必死だった。
寮の入り口で出迎えてくれた友人からの熱烈な抱擁を受け、苦笑しながらも戻って来れたことを実感したのだった。




