第三話
廊下を突っ切り無我夢中で階段を駆け上がり、気づけば屋上に張り巡らされたフェンスをつかんで座り込んでいた。頭が追いつかず、混乱している。止めたいのに、涙があふれてやまない。薄灰のスカートが点々と濡れていく。
(聞いてない聞いてない! 同じクラスだなんて。よりによって、なんで)
最初の一言まで、初めて会ったあのときと同じだなんて。
顔を合わせないよう、接触しないように通えばいいと思っていた。学科が違えば、全体の行事でもない限りは大丈夫だろうと。同じ学科で同じクラスだという可能性も十分考えられたのに。
去年、中学の帰り道でスーツ姿の男に呼び止められたことをふと思い出す。いつもなら知らない人物、しかも男相手なら無視していたのだが、あの名前を呼ばれては振り向かざるを得なかった。
『こんにちは。ソウランのアマネさん、ですよね』
『なん……!』
昔の通り名で呼ばれるとは思っていなかったとはいえ、驚いたのがまずかった。心に隙が生まれ、足が棒のように動かなくなる。足止めの魔法をかけられたのだと気づいたときにはもう遅い。
『あえて騎士に話しかけさせるなんて、とんだ策士ね。魔女はどこ』
『そう警戒しないでください。お話があるだけです。危害を加えるつもりはありません』
それと私のパートナーは恥ずかしがり屋でして、と灰の髪を後ろでくくっている男は微苦笑しながら近づき、懐から名刺を差し出した。止められているのは足だけなので、渋々受け取り、視線を落とし、眉をひそめる。
『ランシン専門学校の、理事長? そんな人が直接、どうしてここまでして私に?』
『それだけお互いに重要なことだということです。できたら立ち話ではなく喫茶店とかで前世での活躍も聞きたかったのですが』
通り名を当てただけでは半信半疑だったが、前世と聞いて確信した。この男は、ソウランのアマネと呼ばれた者の生まれ変わりだと知って接触してきている。
『私が生きている間に再び巡り合えようとは、運命を感じますね』
うっとりと溜息をつく理事長に若干引きながらも、気味が悪いのもあいまって焦れたアマネが内容を促す。すると理事長は嬉しそうに口を開いた。
『単刀直入に言わせてもらいますと、我がランシン専門の魔女・騎士科に入学し』
『断る』
『即答ですか。分かってはいましたが残念ですね』
ならなぜ聞いたと苛立つアマネに、理事長は再び懐に手を伸ばす。
『入学してもらえないというなら……この写真を見てください』
少年の写真を見せられ瞠目する。予想通りの反応だったのか理事長はくすりと笑った。
『これは今年の新入生なのですが、あなたが応じるかによって未来が決まります』
人の悪い笑みが睨め上げるアマネを見下ろす。それは入学を取り消す程度じゃない。命を握っているのだと、細められた黄色の瞳が語っていた。
『……っ、とんだ脅しだこと』
『いえいえ、あくまでこれは、勧誘です』
写真を見たときは目を疑った。幼くはあるが記憶と寸分たがわない髪色、瞳、面立ち。写真をうまい具合に加工したんだと、思いたかった。でももしかしたらという気持ちが振り払えなくて。
『……少し、考えさせてもらえませんか』
時間を稼いでも、変わらない。断れない。
あの早咲きの桜散る午後。ひとつしかない、逃げられない選択肢を突きつけられた。
(わざと同じクラスにしたのね。私が、逃げ出さないように。そっちにクオンがいるんだから、わざわざ同じクラスにしなくたって。通うって決めたからには逃げないのに)
「こんなとこにいたのか」
はっと息を呑む。過去の光景が霧散し、現実が戻ってくる。いつのまに背後に、いや、よりによって追いかけてきたのがヒイロだなんて。
(やめて。話しかけないで!)
「なにか、用?」
「なんか用かって、突然泣きながら飛び出してったんだ。気になるだろ」
『気になったから来たんだろ。隠そうとしたって俺にはバレバレなんだよ』
振り返らなくても、呆れている表情がはっきりと浮かぶ。
「なんでもない。気にしないで」
もっと昔の、前世の記憶が、掘り起こされた間欠泉のように噴き出す。
(お願いだから、関わらないで。その声で、名を呼ばれでもしたら)
「なんでもないなら泣いたりしないだろ」
『お前また他の魔女とケンカしたんだろ』
靴がコンクリートとこすれる音が近づく。ヒイロの気配が、近くなる。
「いい加減、こっち向けよ。まだ泣いてんのか? なぁ、アマネ」
『じゃあ、またあとでな、アマネ』
いつもと変わらない、あの笑みを最後に。ヒイロは。
「触らないで。あなたには関係ない!」
アマネに伸ばされた手を、振り返りざま無意識に叩いてしまう。
「あっ……」
でも伸ばされた手を、あのときアマネは握れなかった。だからヒイロに触れてもらう資格なんて、アマネにはない。それでもヒイロの手を叩いてしまったことに、後悔ばかりが押し寄せてくる。
「……なんだよ、心配してやったのに」
アマネに叩かれた手をひらひらとさせながら、屋上の出入り口の方へ歩いていってしまった。それを止める資格なんてアマネにはない。
「余計なお世話よ」
「あっそう。じゃあ勝手に泣いてろよ。俺、戻るわ……ってお前ら」
肩越しに振り返ってみると、背を向けているヒイロの先、扉の隙間から様子を伺っているいくつかの人影が視認できた。遅れてやってきて、様子を伺っていたといったところだろう。
「なんなの、あの女! 駆けつけてきてくれたヒイロくんになんてひどい!」
「初日から目立とうと調子に乗ってるんじゃないの? ヒイロくんがかわいそう」
「俺らもがっかりだわ。こんなやつ放っていこうぜヒイロ」
声をかけられるも、ヒイロは無言のままアイカたちの横を通り、一人階段を下りていく。
「相当怒ってるな、これ」
「当然でしょ。私たちも戻りましょ。これ以上時間を無駄にはできないわ」
予鈴が鳴り響き、去っていく足音が扉の向こうに消える。再び一人になったアマネは瞑目し、何度も深呼吸する。
噴き出してきた記憶の蓋を鎖で厳重に閉め、心の奥底へと沈める。そうイメージすることで、ようやく落ち着くことができた。涙も止まり、長く息を吐く。
会わないようにする方法だけ考えていたのがまずかった。会ってしまったときの対策と心構えが足りなかった。これでは前世の記憶を引き継いだ意味がない。
(どこかが違っていれば、もう少し冷静でいられたんだろうけど。それにヒイロは前世のことを覚えているわけがないもの。動揺していたとはいえ、あれは言い過ぎた)
謝った方がいいという心の声もあれば、必要以上に関わらない方がいいという反対の声がせめぎあっている。
溜息をつき、目を開けて仰向けに寝転がった。青空に浮かぶ雲を追い越すように数羽の鳥が飛んでいく。自在に形を変え、気ままにたゆたう雲はずっと見ていても飽きなくて、なにも考えずにいられるから好きだ。
そうしてただ雲をじっと眺めていると、ふと運動場の方からいくつもの声が聞こえてきた。笛の音が定期的に発されるところからして体育の授業をしているようだ。
途中でもいいから授業に出ないとまずいかと思っていると、脳裏に声が響いてきた。
《一回くらいサボったって、どうってことねーだろ。サボったらダメ、なんて言われてないんだからよ》
アマネにとってヒイロと同じくらい大切な使い魔、クオンの声だ。アマネの魂を分け合った大事な家族である。見た目がヒヨコだからかよくしゃべる、男の子。現実逃避している場合ではないと、アマネは身を起こし立ち上がった。
《クオン、そっちは大丈》
《大丈夫なわけねー。せっめえわ、暗いわでなにも見えねぇしよ。押し込められたのも鳥籠ってさぁ、完全にちょっと預かったペットの鳥扱いだろ。なめてやがる!》
実際、クオンは月のない夜だろうが、嵐の中だろうが狙った獲物を見失わない。おそらく入れられている鳥籠に術でもかけられているのだろう。こっそりと救出に向かうことはできなさそうだ。
《ごめん、クオン。私》
《謝るのは違うだろ。オレっちが側にいられねーくらいでへこたれる奴だったか? こっちは悠々自適に昼寝でもしてっから、気にすんな》
ついさっき狭いだの暗いだのと文句を言っていたのに、嘘が下手すぎる。これで真剣に嘘をついているのだから、思わす笑いがこみ上げてきた。ふさいでいた気持ちが戻ってきたのを感じ取って、クオンがよしよしと満足している。
《幸い、念話はできるんだ。授業がだるくても他の奴が面倒でも、すました顔してオレっちと話してりゃいい》
《そうね、ありがとうクオン。そろそろ戻ることにする。あと、凝っちゃうから狭くても定期的に体勢を変えた方がいいよ》
《は? せ、狭くねぇし、うたた寝し放題だし。ああもう、戻るならさっさと戻れ!》
はいはいとクオンをなだめ、アマネはくすくすと笑いながら屋上を後にした。