第百二十二話
「由々しき事態になにのんびりしている馬鹿弟子!」
カツカツと厚底ハイヒールを鳴らして入ってきたのは、予想通りの魔女だった。口調は当時の師匠を真似ているようだが、笑みが含まれているので少しも似ていない。
その後ろに控えている騎士と目が合うと、にやりと不敵な笑みを浮かべられた。
「お前の弟子になった覚えはない。なんの用だヒエン」
ヒエンと呼ばれた魔女は、無言で書簡を放ってよこしてきた。男性が慌てて掴み取り、本部長へ手渡す。
「へっ、相変わらず腰巾着な根暗してんのな」
「はぁ……いつも同じ文言で飽きないですね。もっと語彙力つけたらどうですか」
言い返すと癪に障ったようで睨まれるが、無視して本部長の様子を窺う。
ちょうど読み終わったようで書簡から顔を上げた本部長は、真剣な顔でヒエンを見やった。
「これは確かなことか? それで、お前の目的はなんだ」
食いついたことでヒエンは笑みを深くする。あれはなにかを企み、野望に満ち満ちている顔だ。
「少々出しゃばりすぎているお師匠様から、椅子をお譲りいただこうと思うの。もちろん、協力してくれるわよね? 本部長?」
きらきらと陽射しが揺れる。ここは懐かしいあの木の下だ。よく仲のいい四人で集まっては好きなことをして時間を共有していた。
ふいに目の前の人物がこちらに手を伸ばす。
『――もう、また無茶をして……かわいい顔が台無しですよー』
頬に白い布が当てられ、一瞬の冷たさと鋭い痛みが走って思わず目をつむる。
『いっ……だってなぁシオン!』
『私のことで怒ってくれたのは分かってる。嬉しいけれど、先輩方と揉めては駄目よ。ついでにその、言葉遣いも』
嬉しいと言われた上に静かに諭されてしまっては、憤りを引っ込めざるを得ない。
『……でもよぉ、今更シオンみたいに話したら変だろ』
『変じゃないよー。きっともっと、かわいくなる』
『いーや、絶対ヒイロに笑われるね』
そうかなぁ、と首を傾げながらも、彼女はてきぱきと頬にできた傷の手当てを済ませていった。
『あ、いたいた! アマネまたケンカしたんだって?』
呼ばれた方へ顔を向けると、赤い短髪を揺らしながらヒイロが足早に駆けてくる。騎士仲間と稽古でもしていたのだろう。簡易的な防具しか身に着けていないのにかなり汗だくだ。
『ほら、アマネ。練習練習』
『ちょっ、そんないきなり言われてもよぉっ』
『あーあー、あちこち擦りむいてるじゃねぇか。まぁその程度で済んだのはさすがともいえるけど……なんなら家まで背負っていこうか?』
『こっ、これくらいの怪我なら自分で歩けるです、わよ』
一瞬の間。
続いて集落全体に爆笑が響き渡った。
顔を真っ赤にし拳を震わせているアマネの目の前で、ヒイロが腹を抱えながら崩れ落ちている。恥ずかしさと駄目だったじゃないかと恨みを込めてシオンを見やると、なんと彼女もあらぬ方向を向いて小さく肩を震わせていたのだった。
ふっと視界が開け、真っ白な壁が遠くに映った。みんなの笑い声と憤然とする自身の声が徐々にぼやけ、深く沈んでいく。
(どうして……声も、起こったことも覚えているのに…………どうしてみんなの顔だけはっきりと見えなかったの?)
穏やかな頃のことを思い出すのは久しぶりだったからだろうか。いや、事あるごとにソウランの悲劇は脳裏をよぎるので、シオンの顔を忘れるはずがない。
(………………思い出せるのが、最後に会ったときのだけなんて……そんなの)
あんな怒りと憎しみに染まったシオンは本来の姿ではない。否定してあのまどろ見た記憶の顔で上書きしたいのに、シオンだけでなく他のみんなの面差しも一切思い出せない。
(どうして……記憶はすべて引き継げていたはずなのに。みんなが、遠い……遠くへ、行ってしまう)
どれだけ手を伸ばしても、届かない。あの頃に戻れないのは分かっているが、せめて胸の内にしまっておきたい。
ただそれだけなのに。
「……アマネ、大丈夫さ?」
伸ばした手が横から優しく握られる。その温もりに目をしばたたかせたアマネは、緩慢に首を巡らせた。




