第百十五話
「あぁ……………………そう」
体が傾ぎ、床に倒れる。びくびくと体は痙攣し、血だまりが広がっていく。
「…………なにが、起きたの」
遠目で一部始終を目撃したアマネたちだったが、状況が理解できていなかった。ミラが作り出していた水の玉は、まだ杖の先端にある。
そしてミンが後ろ足で、自らの喉を掻き切ったように見えた。
「ふ……あはぁが……ゴボッ……ほんど、どいつもごいづも……裏切る」
血泡を吹きながらも、ミンは笑みを浮かべている。赤く染まりつつある体から魔力の塊が溢れ出したかと思うと、一対の赤い点が灯った。
「今回は、引き下がってあげる。この体も、もうゴミだし」
(い、意志を持つ魔力の塊……!? いえ、あれが)
事件を起こさせた根源なのだと直感する。魔力の塊は高く浮遊し、どこかへ去ろうとしていた。逃がすわけにはいかないが、みんな満身創痍で捕まえる余裕はない。
逃げられるのは惜しいが、殺さず見逃してくれるということでもあった。下手に気を引けば、気が変わって殺されるかもしれない。それでもアマネは問わずにはいられなかった。
「あなたはいったい、何者なの!」
屋根よりも高く飛んでいったそれはぴたりと止まり、振り返る。
高いところから見下ろし、目が細められる。
「私は常に――――――――――絶望しているもの」
また楽しませてね、という言葉を最後に気配は跡形もなく消えた。
ふっと重圧が消失し、力が抜けかけてよろめく。しかしすぐに踏ん張り、腕をつかまれたので転びはしなかった。
「大丈夫かアマネ」
「え、え……大丈夫。少し気が抜けただけよ」
「アマネ……ちゃん……」
「ウタ! よかった、薬が効いてきたのね」
腕の中でわずかに目を開けたウタは、瞼を震わせた。
「私……とんでもないこと……」
唇を噛み、肩が震えている。正気に戻ったことでこれまでの行動を思い起こし、後悔しているのだろう。
「今は休んで、元気になることだけに集中して。謝るのは、それからでいいから」
軽く抱きしめると、ごめんねと呟いてウタは目を閉じた。
(かなり疲弊している……はやく横にさせなくちゃ)
「し……しょ…………し、しょう、しっかりしてください!」
はっと視線を向けると仰向けになっているゼンの傍らで膝をつき、ユカリが涙を流していた。
(元凶は去ったとはいえ、ゼンさんがもう敵ではないとは断言できない……!)
フヨウのときは動けなくなった時点で勝敗がついていたが、今回も同じとは限らない。蹴落とし成り上がってきたという話が本当ならば、元凶に操られていたのではなく、協力していた可能性もある。そう仮定すると、アマネたちが未だ邪魔ものであることに変わりない。
「アマネちゃん、私は大丈夫だから。ミラ先生と……いるから」
「……っ」
反射的にミラを見やる。目が合うと額を流れ落ちてきた汗をぬぐいながら、気まずそうに眼をそむけた。
「ウタ、なにかされたらすぐ呼ぶのよ」
言い置いて足早に向かうアマネの背に、なにもしないわよ、と不機嫌そうな声が向けられた。半歩後ろからついてきたヒイロも、ゼンの動向に警戒してくれている。ゼンの奥側で並ぶように倒れているミンは息があるようには思えなかった。
アマネは必死に声をかけるユカリの隣で片膝をつく。
「ユカリさん、怪我は」
「わ、私は……私が師匠を守りたかったのに……師匠が私をかばって……」
錯乱しているが、負傷してはいないようだった。問題は蒼白を通り越して土色になっているゼンの方だ。ミンが噛みついた部分や水の糸を引きちぎった際にできた傷には包帯で止血されているが、一刻を争う状態なのは誰の目からしても明らかだった。
(破門だと突き放しておきながら、灰を打ち消す薬を騙して台無しにもしたのに……ユカリさんをかばった。この人もまた、操られていた?)
「……っ、ゴホッヴ、ゴボッ」
ふいにゼンが咳き込み、鈍い音とともに大量の血を吐き出した。口周りが、胸元が赤く濡れていく。
「師匠、師匠! あああ、どうしよう……薬学を学んでいるのに、どうして……っ!」
知識はあるのに、力を磨いてきたはずなのに、助けられない。いざというときに役に立たないのなら、いったいなんのために日々努力してきたのか。
そういう経験がアマネにもあった。遠い昔の記憶が溢れそうになり、首を振って心の奥底に封じ込める。
(あれこれ考えている場合じゃないわ。病院に運ばないと。でも、まだ灰も浄化しきれていないのに、まともに機能しているの?)
「ヌ……ァ……」
もう聞くはずがないと思っていた音に一瞬硬直する。目を向けると同時に、白い前足から伸びる爪がゼンの頬を軽く引っかいた。細い傷ができ、わずかに血がにじむ。
「……っ、たく……ミンに……怒られちゃ……ね……」
「師匠!」
喘鳴をこぼしながら目を開けたゼンは苦笑を浮かべている。正気に戻ったように感じたが、瞳は赤いままだ。アマネはいつでもユカリを下がらせられるように、ヒイロは取り押さえられるように息を整える。
ゼンの手が動いた。緩慢な動きだが、行く先を注意深く凝視する。
手のひらが、ミンの後頭部を包み優しく撫でた。わずかに開かれた空色の目は嬉しそうに細められると、跡形もなく崩れた。




