第百十四話
溢れ出ている魔力ごとミンの周囲を風の壁が囲い、その上から風の綱で縛りつける。
ミンはその場に縫い付けられたかのように動けなくなった。
手元から杖の感覚が消えていく。
「あははぁ、何度繰り返せば気が済む」
「……形を変え、研ぎ澄まされし牙よ、ただ一点を穿て――スイセンガ!」
ミンに向けられた杖の先端から、青く輝く水の大剣が撃ち出された。そこまで速くないものの真っ直ぐ、寸分の狂いもなくミンへと向かっていく。
あの威力ならば、当たれば多少のダメージは与えられるだろう。バクフウカンを瞬く間に破られ避けられたとしても、衝撃の影響が出ている間に今度こそ撤退できる。
そのはずだった。
拘束してすぐ扉に向かって動いていたため、駆け出した腕をつかめなかった。同じく引きつけ役を終えて戻ってきていたヒイロも、彼女の予想外の行動に後れを取ってしまう。
横をすり抜けた影にミラが気づき、目を見開いたときにはもう、スイセンガは敵を倒すべく突き進み、制御下を離れていた。
「ユカリさん!」
一緒に逃げるはずのユカリが、スイセンガを追い越して前に出る。そして拘束されたミンの前に血だらけで立ち尽くすゼンを守るように抱きしめた。
ぶつかった衝撃で空気がかき乱され、砂埃や破壊された木片が舞い、アマネは反射的に身を盾にしてウタを庇った。
部屋全体に弾けた水が降り注ぎ、建物が軋む。踏ん張らなければ転んでしまいそうだった。
水を滴らせながら顔を上げ、目の前の赤髪の背に問いかける。
「ヒイロ……ユカリさん、は」
あまりに一瞬のことで、理解力が追いつかない。
(ミンが、ゼンを盾にして……それでユカリさんは)
自らの身を盾にしたように見えた。
「……砂埃でまだ分からない。アマネは先に脱出を」
もうもうと舞う砂埃のせいで姿が確認できない。風が鉄の臭いを運んでくるせいで嫌な予感が胸を圧迫する。しかし晴れるのを待っていたら、逃げる機会を自ら捨てるようなものだ。
(逃げ、ないと……でも)
隣で片膝をついていたミラが肩で息をしながらも、なんとか立ち上がる。
「生徒の安全確保は教師の仕事よ。ここは大人に任せて行きなさい。ユカリさんは」
「いいなぁ」
ぽつりとこぼされた言葉に戦慄する。砂埃が恐れ戦いたかのように左右に割れ、散っていく。ところどころ血に汚れた白い毛並みがゆらりと姿を現した。
どろりと濁った深紅の瞳が、傍らに倒れている二人を見下ろす。
「あはぁ……美しき師弟関係、といったところかしら」
(ユカリさん、やっぱりゼンを……!)
白衣が赤く濡れている。直撃はしなかったかもしれないが、スイセンガを受けたのだ。倒れている二人に意識はないのか、ぴくりとも動かない。
早く助けなければと焦る一方で、アマネは違和感を覚えた。
(……ユカリさんが、盾になった、はずで)
「やはりろくに魔力を持たないものは盾にすらならない」
一歩、一歩とミンが体を揺らしながらユカリたちに近づいていく。盾が使えなかったことでそれなりのダメージは与えられたようだった。
「騎士見習いヒイロ。ユカリさんは私が連れだすからみんなを早く外へ」
「……分かり、ました」
注意がユカリたちへ向けられている今が、撤退する最後のチャンスだ。魔力もほとんど残っていないし、杖も砕けてしまった。腕の中にウタがいる以上、足手まといにならないよう脱出することが最善といえる。
息を整えたミラは、杖の先端に小さな水の玉を作りはじめた。
「小娘が目障りだったのだろう? 研究に集中できないと。真っ直ぐな目が眩しすぎるのだと」
尻を落とし、ミンはゼンの耳元で囁いている。
「他者を陥れた己には、影が似合っている。光の中を行く者が恨めしい。だからここまで協力してやったというのに」
頭を上げたミンは、空を仰ぐ。
「お前のせいで、興醒めだ。せめて」
再び見下ろすと同時に口が裂けんばかりに牙をむき出しにして、嗤った。
「お前たちの魂で贖ってもらおう」
鋭利な牙がゼンの首元を狙う。しかし噛みついたのは裾が赤黒く汚れていた右腕だった。
ゼンが振り向きざまに腕を振り払った体勢で、ミンを睨みつける。
「……ミ…………ン……っ!」
牙は深く食い込み、溢れる血が腕を真っ赤に染める。そのまま肉を噛みちぎられそうになったが、そうなる前に食い込んでいた牙が離れた。
目を見開くミンの首元から血が噴き出している。床につけていたはずの後ろ足が、真っ赤に染まっていた。




