第九十八話
一瞬で全身ずぶぬれになり、呆然とする目の前で前髪から水がしたたり落ちる。
「すっきりしたか、ん? 探してやった上に浄化もしてやったんだ。感謝しろさぁ早く」
「ありが、とう?」
「よし」
ここでようやく声の主がヒイロの腹の上で得意げにしていることに気がついた。
「……っ、げほっごほっ」
「ヒイロ、大丈夫? しっかりして」
せき込みながら水を吐き出すヒイロの頬に手を添えると、赤い瞳が覗いた。
「わり……油断、した」
「私こそ、対応が遅れてごめんなさい」
身を起こす背中に手を添え顔色を窺う。まだ少し辛そうに見えて小瓶の蓋に手をかけると、ヒイロの手に上から押さえられた。
「薬はいい。少し頭痛がするくらいだから」
「でも」
「これはみんなを助けるための薬だ。俺一人だけに使えない」
譲れないと強い意志で見つめられては、引き下がるしかない。アマネは渋々スカートのポケットに小瓶をしまった。
「いちゃついてる場合か! それに浄化したって言っただろ!」
声を荒げられて存在を思い出したアマネは、ヒイロの膝の上で憤然と飛び跳ねる救世主を見て瞠目した。
「あっ、あなた、チウ、よね。どうして真っ赤に……!」
海のような深みのある青い毛並みが、血に濡れたかのように真っ赤に染まっていた。しかし言動は間違いなくチウなので、偽物ではなさそうだが。
疑われたチウが眉間のしわを深くして自身の体を見下ろす。
「ああもう、またか! 外にいるだけですぐにこの様だ。空気が汚いったりゃありゃしねぇ」
膝から飛び降りて距離を取ったかと思ったら、苛立たし気に体を震わせた。赤い液体が飛び散り、元の青い毛並みに戻っていく。
チウが離れたので二人は立ち上がった。足元に水たまりができるほど上から下までずぶ濡れで、その水たまりもうっすらと赤みがかっている。
(これ、香りの……灰が水に溶けたからこんな色になったってことなのかしら)
「おい、お前らもいつまで濡れてるつもりだ。夏風邪をなめんなよ!」
「いや、これあん…………いや、一度着替えに戻らないと」
言い直したので、ヒイロも同じ考えだったようだ。濡れたままでも行動できないことはないが、灰を含んだ水なんて気持ち悪いし、影響を受けないとも限らない。時間がないものの、ヒイロの言う通り着替えに戻った方がいいだろう。
(寮に行って学校へ行けばウタとユカリさんもいる。様子を窺えるし……ミラとも合流した方がいいのでしょうね)
あんなことがあったのにチウに捜させていたということは、新情報かなにかあるのだろうか。
(この灰の効果を相殺できるという薬を持っていけば、いい策が見つかるかもしれないわ)
「あー、これだから面倒なんだよな人間は。しかたねぇ……ふんっ」
再びチウが体を震わせると、全身が外側に向かって軽く引っ張られる間隔がした。瞬きひとつで、アマネとヒイロの周囲を薄赤に染まった水が霧散する。
恐る恐る髪や制服に触れてみると、ずぶ濡れだったのが嘘みたいに乾いていた。
「すごい……」
「おら、くそ猫どもが動き出す前にさっさと来い!」
ヒイロを襲った猫たちはあれからピクリとも動かない。カザタマは手加減したが、気を失っているのだろうか。
「こいつらは寝てようが気絶してようが駄目だ。強制的に操られてまた動き出すぞ」
「操られてって、誰に」
「そんなの、どっかの犯人に決まってるだろう」
どうやらミラたちも犯人が誰なのか突き止めたわけではなさそうだ。
(ミンも誰かに操られているということなのかしら)
仮にこの倒れている猫たちもゼンのところの猫だとしたら、ますます彼女が怪しくなってくる。
「無理やり猫たちを操るなんてひでぇ奴だな。同じ動物として許せねぇ」
「ふん、天敵とはいえ同情しないと言ったら嘘になるか。ああああもう。だいぶ時間を食った! とにかくなにがなんでもミラのところに行くぞ! きりきり走れ!」
「あ、ちょっと!」
有無を言わさずチウが走り出してしまったので、アマネたちも慌てて追いかけた。おそらくミラは学校にいるのだろうが、移動していないとも限らないので見失うわけにはいかない。
そしてこちらを考慮して速度を調整するなんてことはしてくれないのだった。




