エタってもいいじゃない。模倣作品でもいいじゃない。
連載も三回目である。
今回のテーマは ④そもそも途中でエタッてる作品が多すぎる。
という批判にこたえることである。
さらに模倣作品が多すぎるという批判にも答えようと思う。
途中でエタるのはけしからん! 模倣作品がけしからん! という批判に対して、エタる作品擁護の立場でこたえるということは『べつにエタってもいいじゃない。模倣作品でもいいじゃない』という結論を導き出さねばならない。
しかし、ネット小説なんて所詮タダなんだからよー、とか、
完結してる作品だけ選んで読めばいいんじゃないか、とか、
そんなようなことだけ、述べるのであれば、発展性がない。
それで本稿としては、小説の内容の面から掘り下げてみようと思うのである。
では始めよう。
実は、以前に、この『小説家になろう』の作品上で、
『完結できそうにないなら、作品に語るべきテーマがないなら語り始めない勇気を持ってください』というようなことを言った人がいた。
未完の作品どころか、一発ネタのような作品でさえ、楽しく読ませていただいていた私としては、そのような発言を真に受ける人が多くなると、そのせいで投稿をためらう人が増えて、投稿の数が減ってしまうと危機感を抱いた。
それで私は、その作品の感想欄で反論の文章を書いたのだった。
以下はその抜粋である。
――――
作品をひとつ完結させるのには、ある程度の構成力や根気、あるいは一種のコツのようなものが必要なのかもしれません。
ではそれらのものを持っていない人は書き始めるべきでないのかといえば、そうではないと私は思います。
構成力や根気がなくても発想力さえあれば、つまり良いネタでありさえすればそれで良いのです。それはなぜか?
単なる一発ネタであったとしても、それはそのジャンルの成熟に役立つからです。
ある作品を見て面白いと思った人が、その作品をパクって(インスパイアされて)そこに含まれるネタを裏返し深化させ熟成させて別作品、別ネタとして投下する。それを見た別の人が同じことをし、さらにそれを見た別の人が……とそのようなスパイラルこそがジャンルの進化を促すのです。
具体例としては、例えばなろう作品でよくある召喚勇者ネタがあります。
元ネタ:勇者として異世界に召喚されて魔王を倒す
派生ネタ:召喚された勇者が魔王討伐を拒否
派生ネタ:召喚された勇者が召喚者に反逆
派生ネタ:召喚された勇者が魔王と手を組む
派生ネタ:召喚された勇者が魔王だった。
エトセトラ、エトセトラとどんどんパターンが増えていきます。このパターン増加、ネタ成熟の過程において、その作品が完結しているか完結していないかという要素はほとんど意味を持ちません。
このネタ成熟の過程で無数に量産される新ネタはほとんどが下らないものでありましょう。でもそれら無数のネタの屍の投下合戦の果てから、きらめくような作品が出てくる、かもしれません。故に未完の作品でも役に立っているのです。
――――
この反論文は、『エタってる作品が多すぎる。模倣作品が多すぎる』という意見に対する反論には一応なっていると思う。
しかしこの反論は、全然言葉足らずといえば言葉足らずである。それは何故か。
それは、彼は『テーマがないのなら語るべきではない』などとなんでそんなことを言ったのかという理由を、私は理解していなかったからのである。
◆
批評家の東浩紀さんの書いた『ゲーム的リアリズムの誕生』という本があって、それのなかに書かれているある考え方を知ったときに、私は自分が見落としていた要素に気付いた。
この本のなかには、ライトノベルについて分析している章があって、その中に『キャラクターの自律化』という考え方があった。
これはつまりアニメやラノベやゲームなどのキャラクターが、その作品自体を離れてキャラクターが自立するという現象のことを言っている。つまりキャラクターが固有の人格を持っているのである。
例えば二次創作のクロス物といわれるジャンルでは、キャラクターが自分の作品世界を離れて別の作品世界に出張したりする。つまり、ある作品のキャラクターが、そのキャラクターが存在する作品を離れて、キャラクター単独で行動しているのである。
しかし、東浩紀さんは、物語の中にしか存在しないはずのキャラクターが、物語を離れて存在しているのは考えてみれば奇妙なことでもあると書く。
◆
私はこれを読んで、ハタと膝を打ったのだ。
『完結できそうにないなら、作品に語るべきテーマがないなら語り始めない勇気を持ってください』というようなことを言った人と、
『良いネタでありさえすればなんでもいい』と言った私とは、そもそも最初からすれ違っていて、そのために、私の反論も的外れだったのだと。
では、彼と私は何が違うのか?
小説の作り方というものについて、考え方が違うのである。
『作品に語るべきテーマがないなら語り始めない勇気を持ってください』と言った彼は、『小説というものは、テーマやメッセージがまずあって、登場人物や、時代背景、設定や、あるいはストーリーさえも、そのテーマやメッセージに奉仕するものでしかない』と恐らく考えていると思う。これを便宜的にテーマ優先方式と呼称する。
テーマ優先方式の具体例としては、例えば童話の『オオカミ少年』などがあげられる。
『オオカミ少年』のテーマは『日頃に嘘ばかりついていると、信用を無くすので、本当に話を聞いてほしいときにもまともにとりあってもらえない』ということになるだろうか。
そして『オオカミ少年』の登場人物は、
・嘘つきの少年
・オオカミ
・村の人々 となる。
そしてこれらの登場人物は、テーマに沿ったストーリーを展開させるための役割こそ与えられているが、彼ら固有の人格は持っていない。
これらの登場人物は、ストーリーを展開させるためだけの存在でしかなく、そこに全面的に従属している。
しかし、このようなやり方以外にも、小説の作り方はある。
登場させたいキャラクターや、使いたい設定、登場させたいガジェット、妄想の限りを尽くした世界観などを先に作り、それを生かせるような適切なストーリーを後付けで考えだして上から被せる方式である。これを便宜的に設定(キャラクターのそれも含む)・ガジェット優先方式と名付ける。
(TRPGのリプレイはこの様な小説になりやすいと思われる)
テーマ優先方式と設定・ガジェット優先方式ではどのような違いがあるだろうか。
テーマ優先方式の小説は『テーマを読者に伝える』という目的が第一であって、小説の内部に登場するすべては、それだけの役割しか与えられていないし、逆に言えば取り換えのきかない必要不可欠な要素である。
オオカミ少年のなかの、嘘つき少年、オオカミ、村の人々、そのどれが欠けても、話として成立しない。その小説世界は無駄がなく確固としている。
さらにここが重要なところであるが、テーマを表現するための小説であるから、そのためのストーリーを十分に語りきる必要がある。語りきるというのは、小説に変な蛇足が付いているのでない限り、普通は完結させるということである。
すなわち『強いテーマ性は完結を要請する』
しかし、設定・ガジェット優先方式の小説は違う。
小説を書こうと思うと、小説の本文よりも、その設定資料集の方が、はるかに字数が多くなってしまうという経験をした人はいないだろうか。
そして、他の人の小説なんか読んだりして、心にピピッとくる設定や要素があれば、微妙に改変してからパクって(自分ではインスパイアという)設定集を改定したり、あるいは何かいい思い付きがあれば、追加設定をおこなったりするわけだ。
このような小説は、設定の面白さや美しさ、登場するガジェットの楽しさ、魅力的なキャラクターなどを『確固たるテーマ』や『テーマを伝えるための最も適切なストーリー』に比べて優先する傾向がある。
テーマとそのためのストーリーを優先しないということは、すなわちテーマを十分表現するためにストーリーを語りきる必要が少ないということになる。
“ぼくのかんがえたかっこいいなんとか”を披露すれば、その存在意義が大体果たされてしまうので、もういいのである。存在意義が果たされるとは、他の人がパクるための材料を提供し、ジャンルの成熟に役立ったということである。
すなわち『テーマ性が弱ければ完結は要請されない』ということである。
もちろん、テーマ優先方式、設定・ガジェット優先方式といってみたところで、すべての小説がそうはっきりと分けられるわけではない。
『オオカミ少年』のような、ほぼテーマしか存在しないような小説もあれば、
小説本体は10,000文字くらいしかなくて、更新も三話きりでずっととまっているのに、設定集は150,000文字くらいあるというような超設定優先楽しいガジェットやキャラクター満載小説もあるかもしれないが、大体の小説は、その両極端の間にあるのだと思う。
テーマをどちらかといえば優先する小説であっても、楽しい設定やガジェットを登場させていけないわけではないし、設定・ガジェット優先の小説でも重厚なテーマとストーリーを持ってはならないわけでもないからだ。
以上の話を踏まえたうえで、
『完結できそうにないなら、作品に語るべきテーマがないなら語り始めない勇気を持ってください』
と言った彼は、おそらくテーマ優先方式の語り方をする人であったのかもしれない。
それで、超イケてる設定と、素晴らしいガジェットだけ書き並べて、いいところが終わったらエタって放置という作品を見て、なんじゃそらと思ったのかもしれない。
彼は、この『小説家になろう』から撤退してしまったらしいので、もはや直接確かめることすら不可能である。
◆
そして『小説家になろう』というサイトは、テーマ優先の作品もあるけれども、設定・ガジェット優先の小説にも重点を置いていると思われる。
なぜそう言えるかというと『小説家になろう』にはキーワードというものがある。
キーワードの内容で、『現代』『学園』『ファンタジー』あたりはまだジャンル名であるにしても、『チート』『ロボット』『ハーレム』『ドラゴン』『VRMMO』など、明らかに設定やガジェットに関わるキーワードも多い。そしてそのようなキーワードを利用して、自分の好きな小説が検索できるようになっている。
そもそも、テーマというものはタグでキーワード化しづらいことを考えれば、このシステムは、小説における設定やガジェットを念頭に置いたものであることが分かる。
さらに重要なのは、設定やガジェットをキーワードにしてそれで検索ができるということは、そのキーワードの検索でひっかかる作品、すなわちその設定やガジェットに関する模倣作品の存在を『小説家になろう』のサイトそのものが予定しているようにも見えることだ。
例えば『VRMMO チート ハーレム』と検索すれば、似たような作品をひっかけることができる。
今回のまとめと結論
・『小説をテーマ優先型』と『設定・ガジェット優先型』に分類することができないこともない。
・『設定・ガジェット優先型』ではその設定やガジェットを披露してしまえば、その作品の存在意義を大体満たしてしまえるうえに、テーマが弱いので語りきる必要性も弱く、完結が要請されにくい。
・『小説家になろう』では、タグによって小説を検索できるようにしているところからすると、設定・ガジェット優先型の小説の存在と、設定やガジェットが重複する作品、すなわち模倣作品の存在が予定されているようにもみえる。
今回の議論は、小説をテーマ優先型』と『設定・ガジェット優先型』に分類という時点で、そもそも成立しうるかあやしい。
だから、こういう考え方が『あー、あるある』と思えるのか『ハア? 意味わかんないんだけど?』となるのか、他にも突っ込みどころはたくさんあると思うので、ちょっと感想など頂きたいなーと思います。
今回の章で、最初に設定した
①〈side ○○〉〈side out〉等のように視点を変える手法
②wwや(笑)や(・∀・)などのネットスラングの使用とか
③そもそも模倣作品が多いので世界観にオリジナリティーがなく、
そのために、中世ヨーロッパ風 とか 江戸時代の街並み というような“情景描写”手法さえまかり通る
④そもそも途中でエタッてる作品が多すぎる。
のうち、①③④については擁護の文章を書くことができました。
けれど、②については腹案はあるのですが、ちょっと難しくていつ書けるか分かりません。
ですから本連載はとりあえずこの回をもって一応完結ということにしたいと思います。
もし②について書けたら、割り込み投稿でこっそりUPしたいと思います。
ここまでお付き合いいただきました読者の皆様には、心より御礼申し上げます。 まことにありがとうございました。