表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/4

『中世ヨーロッパ風の街並み』は究極の情景描写?

 さて、第二回である。


 第一回で①から④まで、取り上げる論題を設定した。

 前回は①をやったから、今回は順番から言えば②になるはずなのだけれど、


 ②は wwや(笑)や(・∀・)などのネットスラングの使用とか である。

 これを擁護する文章を書かなければいけない。


 しかし、この論題は詳しく論じるのは結構難しい。

 よくわかんないが、たぶん文字というものの成り立ちとか、表意文字の歴史とか、コミュニケーションにおける活字媒体が占める役割の増加とか、それによる小説などの表現における変化とか、その他諸々 色々調べないといけない気がする。はっきり言って難しくて手間がかかる。ていうか今さらだが難しすぎて私には書けないような気がしてきた。

 だからぶっちゃけると後回しにしようと思う。

 後回しにしている間に誰か詳しい人が私のかわりに書いてくれると作者が喜ぶ。

 難しすぎて書けないので誰か書いてください。




 まあそれはともあれそういうわけで、今回は③の、


『そもそも模倣作品が多いので世界観にオリジナリティーがなく、そのために、

中世ヨーロッパ風 とか 江戸時代の街並み というような

“情景描写”手法さえまかり通る』


という批判について検討してみる。




Question:“中世ヨーロッパ風の街並み”という描写はダメ(具体的には手抜き)なのか。



 誰が書いたものだったか忘れたが(たぶん、三浦しをんさんの本だったと思うが定かでない)以前に読んだエッセイで、

――ある女友達が、自分の子供(幼児)に豆腐を『ほら、プリンよ~』と言いながら食べさせていた――

とかいうような文章があった。




 もし、誤解を正される機会がないままだったら、その子供はいつまでたっても豆腐を、ああこれは『プリン』というものだ、と思ったまんまだろう。

 その子供の名を便宜的にタカシとしよう。


 そしてタカシは大きくなり、中学二年生ぐらいになって、インターネットなどをするようになり、そのあげくに『小説家になろう』にアクセスして小説を読み漁るようになるのだった。そして西村紅茶なる人物の書いた小説を読んでいる途中に以下のような文章にいきあたるのである。




――――


佐藤太郎は冷蔵庫を開け、プッツンプリンのパッケージを掴んだ。

 掴んだその右手の親指で包装のビニールを破る間ももどかしく、左手で食器棚を開け、菓子用の白い皿を取り出す。

 プリンの蓋を剥がし、プリンの入った容器をさかさまにして菓子皿の直上中央に据える。

 太郎の顔面には何らの表情も浮かんではいないが、その実、彼の胸の内は大いなる喜びであふれていた。

 彼は微かに戦慄く親指をプリンの容器の上にくっついている突起に押し当て……数瞬の躊躇いののち、一気に折り取った。


 プッツン……ッ!


 所詮プラスチックの僅かな突起でしかないそれが、そのような大層な音響を発する筈もない。しかし太郎は『プッツン……ッ!』という擬音で表記されるべき音響を確かに幻聴したのだ。

 その音響こそが佐藤太郎という一個の男子にとって至上の快楽を告げる音響であるのだから。


 見よッ! いまや彼の眼前にある菓子皿の上には何があるか。


 そは、いと甘きもの。

 そは、いと柔きもの。

 そは、いと優しきもの。

 そは、讃えられるべきもの。


 おお、その名はプリン。プッツンプリン。

 微かに渋みある黄色に輝くその存在よ。

 『たゆん』と揺れるその在り様は、彼にどこか帰るべき場所を思い起こさせる。

 その頂上部に備わっているカラメルの帽子は、選ばれたる菓子でありながら、それでも万民の菓子であることを忘れぬ、すなわちそれは、決して驕らぬ菓子としての慎みを表すイコンである。


 おお、そは、偉大なりプッツンプリン……


――――




 とまあ、タカシはここまで読んできて、意味が分からなくなるのだ。

 もちろん、この文章の存在意義自体も理解できないが、それ以上にタカシは、


 なんでプリンが『微かに渋みある黄色に輝く』のか、

 なんでプリンに『カラメルの帽子』があるのか、まったく理解できないのである。


 そう、つまりタカシは中学二年生になった現在でもプリンのことを豆腐だと思い込んだままだった! 

 タカシは、

 (プリンつったらアレだろ。細葱と生姜と醤油かけて食うんだろ。なんでカラメルなんかかけるんだよ。てゆうかプリンは白だろ。黄色って何だよ。そのプリン腐ってるってことなのか? マジ意味わからんし!)

 などと考えているのである。 


 な、なんだってー!? 彼の母の罪は深い。



                        ◆



 この小話から何が言いたいかというと、文章における描写というものは、読み手の知識に依存しているということである。

 西村紅茶なる作者がどれだけ頑張ってプリンというものを描写しようと、読み手のタカシがプリンと豆腐を勘違いしている以上、描写は全く意味をなさない。

 だから小説というものは、書き手よりも、読み手のほうにずっと強く依存している。



 小説の伝わり方というのは、書き手の頭のなかにあるものが、電波になって宙を飛び、読み手の頭に到達するのでは勿論ない。

 書き手が、書き並べた文章を、読み手が読み、その文章の刺激によって、読み手は自分の頭のなかにある映像や観念を取り出して並べて、それで理解するのだ。



 だから書き手の頭のなかに想像力の粋を尽くした、真に独創的で誰も見たことがないような情景があったとしても、それを十分に読者に伝えることは決してできない。

 読み手が理解できることは、読み手の頭のなかにある情報の組み合わせで作り上げ得るものでしかないからだ。それはテレパシーでない、文章によって情報を伝達することに、本質的についてまわる限界である。



 さて、ここまでを前提として『中世ヨーロッパ風の街並み』という“情景描写”はどうか?


 小説を書く上で描写の対象になるものは色々ある。

 人の顔や外見、ファンタジー小説であれば武器や防具などのアイテム、あるいは敵として登場するモンスターなど。野外だけでなく室内であれば部屋の内部の情景。家屋、お城、そして街並みなどがある。


 そしてそれらを書き手が描写すると、読み手は、それまでの人生の蓄積のなかから、既知のイメージの張り合わせを行って、描写の内容を“想像”する。

 想像の難易度は、小さくて単純なものだと簡単だが、大きくて複雑なものになると極めて難しくなる。

 

 残念ながら『街並み』というのは人の顔などに比べて、描写の難易度は相当高い。

 読み手には、例えばヨーロッパに旅行したことのある人であればその時の街並みの風景、別の人は、今はまっているネットゲームのなかに出てきた街並みの風景、あるいは何年か前に見たアニメ、はたまた三日前に読んだラノベの挿絵、色々なイメージが混然としている。


 書き手の側が『中世ヨーロッパ風の街並み』ですませてしまわずに、描写を加えるのであれば、例えば石畳の色がどうであるとか、人の流れがどうであるとか、露店や出店が並んでいる様子がどうであるとか、色々と指定を加えて、読み手の想像を書き手のイメージに近づけていくことになる。


 しかし、ここにも問題が出てくる。


 まず、読み手の想像そのままのプレーンな状態に、書き手の指定が、あまりに多く入りすぎると、想像に注釈がたくさん付いた状態になって、すなわち読み手の処理能力に負荷をかける。そうすると想像したものの保持自体が難しくなってくる。


 もうひとつは、小説全体の構成の問題がある。

 小説というのは当然ながら情景描写だけをしていればいいのではなく、情景描写は小説の構成要素の一部に過ぎない。

 小説全体のテンポ、ストーリー展開の速度、読者の食いつき具合などにも配慮しなければならない。


 さらに、例えば東京とか大阪とか、既存の街並みを描写する場合、描写している場所はどこである、と述べて、それから少しの描写や説明を加えれば、それで済む。

 それは、現実に存在する街並みが読み手に十分なイメージを提供しているからだ。

 イメージの借用は簡単だ。読み手ごとのイメージのばらつきも、まあ少ないだろう。

 しかし現実には存在しない異世界ファンタジーの街並みだと、元になる現実の場所が存在しない。だから、イメージの借用元をどこに持ってくるかは、読み手に一任されてしまう。だからひとつの情景描写文章を読んでも、現実世界のそれと違って、読み手ごとの想像されたイメージは相当にばらつきがでてしまう。おそらく、もう全く全然別物と言っても差し支えないだろう。当然書き手の頭のなかにあるイメージともだいぶん違う。




 そうなってくると

 『真面目に情景描写したって、皆それぞれ自分勝手に想像するだけだから、もういいんじゃね? 文章表現の限界に絶望した!』

 という意見もでてくるかもしれない。




 というわけで、今回の結論はこうである。


 そもそも異世界系小説で例えば街並み描写を含めた情景描写をするのは相当に困難であり、読み手に与えられるイメージは極めて多義的で曖昧なものにならざるを得ない。極論すれば『不可能だ』とすら言える。

 だとすれば、異世界小説のなかでも、情景描写ではなくストーリー展開や、キャラクターの心理描写などに重点を置く種類の小説であれば、街並み描写を『中世ヨーロッパ風の街並み』で済ませてしまうのは、手抜きではなくある種の見識である。

 少なくとも『中世ヨーロッパ風の街並み』という“情景描写”があったからといって、それが単なる安易さを示すものだとは言い切れないし、作品全体の構成という視点から考えて、そのような“描写手法”がむしろ最善手である場合もある。


 ……と思うんですがどうでしょう。





 さあみんな! 反論があれば感想欄で作者に突っ込もう!!

 てゆうか、今回はかなり論理展開が強引なので、読んでくださった方は多分反論があるでしょう。

 さあ、感想欄でレッツ炎上!!



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ