七話
気がつくと、談話室内の人の気配が増えていた。
閉じていた瞼を開くと、テレビの番組がドラマに変わっており、何人かがそれを見ながら何か話していた。他にもカード麻雀をしている奴らもいた。その鬼気迫るような表情から推測するに、金を賭けているようだ。
……どうやら。目を閉じ聞き入っていたはずが、少し寝ていたらしい。
ソファの背もたれに首を乗せて上を向いていたので、首が固くなって変に痛い。軽く回してからヘッドホンを耳から外す。
と、
「――ええか? せやからシャツの開きくらいはこうでやな」
「えぇ!? け、けど……」
「アカンでぇ。そんなへっぴり腰やと」
「で、でもぉ……」
陽気だが真剣な不思議関西弁と、よく聞きなれた少し情けない感じの女の子みたいな声が聞こえた。割と近い。てかすぐ横から。
首を左手に向けると、ジョージが何やら真剣な目つきと手振りで昴に何かをレクチュアしていた。背を向けているため俺の方からは昴の顔は見えないが、どうやら困っているようだ。
「……なにやってんだ?」
コキコキと首を軽く鳴らしながら声をかける。ああ、この骨の鳴る小気味いい感じ、たまらないね。
「あ、湊。おはよう」
「おう、つぶやん。起きたか。――てかな、アリス。今は夜なんやからおはようはおかしいやろ」
どこかホッとしたような昴と、一転して陽気な表情のジョージ。
アリスというのは昴の愛称で、俺や鐘太、カマ原以外の奴が大抵、昴のことをそう呼ぶ。昴って言うよりもアリスの方が断然似合っているから、そう呼びたい気持ちもわからないでもないが、そう呼ばれている昴自身はアリスという愛称をあまり快く思っていないようだ。嬉しくは無いらしい。嫌でもなさそうだが。
昴は風呂から出て間もないらしく、髪はまだどこか湿っていて、身体もまだ火照っているようだ。
「今な、アリスに必殺技を伝授してん。これをマスターした暁には、アリスはもう向かう所敵なし! 無敵やでぃ!」
やたら陽気にテンションも高く、親指をぐっと突き出しそう主張するジョージ。なんだろうな。すごい嫌な予感がする。
ジョージ曰く必殺技を伝授させられた昴は、肩を落とし、はぁとか言って溜め息をついていた。
……予感は、確信へと昇華された。
どうせこの二次元オタクは、その持てる二次元知識をフル活用して昴にいらんことを無理矢理教えたのだろう。
「昴、へ」
「せやアリス! つぶやんに必殺技を試しに喰らわしたり!」
鬱陶しいことになる前に部屋に帰ろうと思ったら、めっちゃええこと思いついた! みたいな顔のジョージに遮られた。
「ウチの言う通りにやりゃ、きっと堅物つぶやんもデレるって」
妙に自身満々に断言する。なんだよデレるって。
「う……。け、けど」
恥ずかしそうにもじもじとする昴。やはり昴にとって良くないことか。ったくこのくされオタッキーは……。
「昴。無視しろ。アレはリアルに二次元を求める重度の障害者だ。黄色い救急車の必要な奴だ」
成分の半分が哀れみで出来た台詞を昴に言って、ソファから立ち上がろうとするが、
「怖気ついたんか、つぶやん」
ニヤリ、と口角を上げ不敵に挑発してくるジョージ。
「まさかとは思うけども、つぶやんともあろう者が敵前逃亡はせんよなぁ?」
今こいつは自分は敵だと認めなかったか?
俺は目を細める。
昴はそんな俺とジョージに挟まれおろおろと落ち着きを無くしている。俺とジョージの間に不穏な空気でも感じたのだろう。心配性な奴。
ふ、と俺は笑むように口から息を吐くが、多分表情はいつも通りのままだろう。こういう時、ニヒルに笑えると様になるのだが、まぁ、仕方がない。無表情と言うのも知的な感じや余裕な感じがして良いだろう。
「さて、戻るか昴」
すたすたと談話室を出――
「ちょ! ちょっと待ってぇなつぶやん! おかしいやろ! 今のでそないな反応はおかしいやろ! なんでやねんて! ここは乗るところやろ!?」
なぜか知らんがやたら悲痛な感じだ。
「ほら昴。ここは魔窟だ。害されないうちに戻るよ」
俺は表情として出ない顔の代わりに内心でとびっきりのスマイルを浮かべながら、淑女をエスコートする英国紳士風の優しい声音で言い、馬鹿を放置するこちに決定した。
「ちょ、わ、わぁった! 頼む! この通りや! お願いしますから一発喰らってください!」
ついには土下座までしやがった。こいつにはプライドとかはないのか? ……ないか。ないから自分がオタクだとカミングアウトできるのだろうし……あれ? オタクであることに誇りがあるからカミングアウトできるのか? どっちだ?
額に手を当て、盛大な溜め息をつく。何でこんな奴と友人関係を築いたんだ、俺は。
「なんか土下座までしてきたのだが、昴。嫌なら嫌と言え」
必殺技をするのは俺ではなく昴なので、一応そう言っておく。
まぁ、昴のことだ。ここまでされたら
「はぁ。湊、付き合ってあげよう」
言うと思いました。お前は、人の頼みを無下に断れないものな。
俺はやれやれと内心で盛大に呆れ、溜め息をつきながらソファに座りなおす。
「さすがやマイフレンド! さぁやるんやアリス! 必殺技GO!」
土下座体制から勢いよく姿勢を直し、うっきうきと指示を出すジョージ。
昴はやっぱり抵抗があるのか、最初もじもじしていたが、結局意を決めたようだ。
ちなみに、風呂上りの昴は薄い水色に白い水玉模様の入ったパジャマ姿だ。サイズが少し大きいらしく、ズボンの裾は折ってるし、袖からは微妙に手が出てない。
「ううぅ……。湊。ちょっとむこう向いてて」
さっさと終わらせたいので俺は言われた通り、昴に背を向ける。
「ジョージくんも」
「ええ? ウチもかいな。しゃーないなぁ」
渋々、といったような感じが感じられる。
暫くごそごそとした様子や、思案するような間。
何でもいいから早く終われ。とかボケッと考える。そういや風呂にまだ入ってねぇし。はあ、消灯時間なんて誰も守ってないが、それでも消灯時間になるとガス切られるからな。まだ時間に余裕はあるから心配は無いが……。
とかつらつら考えていると、くいくい、と服を引っ張られたので昴の方を向く。
――――っ。
「ねぇおにちゃん……。ボク、もうねむいよぅ」
ボタンを二つ開けているパジャマは肩までずれていて、女の子すわりでぺたんとソファに座っていて、サイズの大きい袖から出てない手の指で、眠そうに目をこしこしと擦って、つたない舌足らずな調子の声で、昴はそう言ったのだった。
俺は今日ほど感情を表すことの出来ない自分の顔に感謝したことは無い。
それほどまでに、強烈だった。確かに必殺だ。
誰がコレを男だと思えるだろう。
俺を思わず呼吸を止めてしまった。と言うよりも体の全機能が不全を起こした錯覚すら受けた。
頭に入ってきた情報と、それに対し素直な感想を持つ心。それを抱いた自らに嫌悪感と罪悪感を持つ俺。
昴はやるだけやるとやっぱり恥ずかしかったらしく、顔を耳まで真っ赤に燃やして、俯きながらいそいそとパジャマを正している。
「くっはーーっ! よもや、よもやコレほどまでの破壊力だとは! やっぱアリスは最高やな! かつてここまでかわいい奴はいただろうか!? いや、いなかった! 二次元にもここまではいなかった!」
ジョージは立ち上がり拳を握り締めて大絶賛しだした。
バカの声がやたら響くと思って首を廻らすと、談話室にいた全員が顔をあらぬほうに背けていた。
……嗚呼、こいつらもバカか。
自分の事は遥か棚の最上に押しあげてそんなことを思った。
「だと言うのに! つぶやん! こないエラいもん喰ろても表情一つ変えんてのはどういう了見じゃ! 見てみ! 他の奴らでさえこのあり様なんやで!?」
幾つか咳払いが聞こえ、テレビの音量が不自然に高くなる。
野郎ばっかりの空間だと、男だと理解していても昴みたいなのを女と誤認してしまうもんなのだろうか。はぁ、まさかホモとかゲイとかがこの中に混在して無いだろうな。
――心配だ。
「どうでもいいが、お前はいつから二次元の美少女からリアルの男に乗り換えたんだ?」
話題を変える。
実際問題として、俺も相当ヤバかった。心臓が早鐘のように鳴ってやがる。
クソッたれ。昴は男で、大切な友人だと言うのに。
昴は、きっとこんなおふざけは嫌いなはずだ。
最悪だ。自分で自分に吐き気がする。まともに昴と顔を合わせられない。
「ウチがいつ乗り換えたなんて言うたよ。リアルに二次元を被せて、その結果の素晴らしさに感動しとるだけや」
どこかムッとしたようにジョージは言うが、それはそれでどうかと思う。
「そうかい。――昴。俺は部屋に戻るから」
俺は誤魔化すように溜め息と共にそう言って、談話室を出た。付き合いきれない。これ以上は。
「あ、待って湊。ボクも戻る」
後ろから昴の声が聞こえたが、俺は聞こえていないふりをして早足に廊下を歩く。
不整脈ってこんな感じなのか。
不自然なビートを刻む胸にそっと手を当てて、そんなことを思った。