六話
結局、俺の危惧した通り、帰りはスタートダッシュからアクセルベタ踏みの全力疾走をするはめになった。まぁ、そのお陰で間一髪、門限に間に合ったが。
昴は俺の心配していた通り、小学生の方が早くないか? と思えるほどの脚の遅さを披露してくれたので、仕方なく俺が手を引いて無理矢理俺に合わさせた。じゃなかったら俺たちは後10分くらいしないと戻って来れなかっただろう。
その昴は寮についたときには肩どころか全身で荒く息をしている状態で、涙目になっていた。しかも今は7月で暑い。暑さの中での全力疾走のせいで紅潮した顔とか、汗で張り付いたブラウスとか髪とかが、やたら艶っぽかった。
――って、だから俺! 昴は男だっつーのに。
寮の外観は何の面白味も飾り気も無いコンクリート色の四角い建物で、アパートに比べると大きい程度。
俺と昴は一緒の部屋だ。
これは偶然とかではなく、俺が学校側に無理を言ってそうしてもらった。
二年生からは誰と相部屋になるか事前に申請すれば選べるらしいが、本来一年生はクラス別に完全ランダムらしい。
そのため最初学校側は渋っていたが、頑として譲らず頭を下げつづけた結果特例として認めてくれた。
まぁ、それには昴自身のちょっとした事情も関っている。
俺も詳しく知っているわけではないのだが、昴はいっそ異常と言えるほどに他人に脚や腕、顔などの部位以外の素肌を見られることを嫌う。苛められていた時のや父親にDVされていたときの傷跡があるからではないかと俺は思っているが、本人に訊いて確認したわけではない。ただの憶測。わざわざ訊いて傷口に塩を塗りこむようなこともしたくは無い。
だが、それ以外に理由が見当たらない。そして、その他人には俺も含まれている。
別にそのことに何かを思うことは無い。同情や哀れみなど、あいつは望んでいないだろうし、俺はそう言った感情が嫌いだ。
現在の時刻は20時過ぎ。
食堂で美味くはないが不味くもない夕飯を終え、俺は二階にある談話室のソファに座って、友人から借りた同人誌を読んでいる。
別に俺にそういう趣味があるわけではなく、単に時間を潰す手段を探していたら半ば無理矢理に借りることになっただけだ。原作のわからないパロディ本を読んでも面白くも何とも無い。
それでも文字を目で追うという行為は嫌いじゃないので、一応暇つぶしにはなっている。
談話室は学校の教室よりやや広いくらいの面積で、会議なんかで使われるようなテーブルと椅子。テレビと幾つかのソファ。後は自販機が置いてある。床はクリーム色の絨毯が敷き詰められている。まめに掃除されているらしく不潔感は全く無い。
昴は今、各部屋に備わっている狭い風呂で入浴中。俺は昴の気持ちを汲んで、入浴中は部屋から出ることにしている。泣いて嫌がるほどに裸を見られることを嫌っているのだから、何かの拍子で間違って見てしまったらマズイ。
どうでもいいが、この寮から徒歩で三分の位置に銭湯がある。そこは昔からある由緒正しい銭湯であるらしく、江戸っ子気質な元気じいちゃんが番台をしているらしい。
なので、部屋にある狭い風呂を使う奴よりも、銭湯に行く奴が断然多い。俺は銭湯みたいに不特定多数が一度に入浴すると言うのが非常に気に喰わない性質なので、狭くとも不便でも、部屋の風呂を使う。
「オイつぶやん」
微妙に関西訛りのある陽気な声が聞こえた。それに反応して顔を上げれば、派手な唐草模様のシャツのボタンを第3第4ボタン以外全部開けた、赤銅色の髪をした男がふらふらと近づいてきていた。
奴の名は城島 尚治。俺に無理矢理同人誌を押し付けてきた自他共に認める――といか自分から吹聴している開き直ったオタクだ。
「相変わらず早いなジョージ。鴉の行水って言葉知ってるか?」
ジョージと言うのはこいつが周りに強制しているニックネームで、こう呼ばないと一切反応しない。喩え先輩や教師であってもそれを貫いてるのだから、異常だ。
「ウチは鴉を越えることが目標なんやでぃ?」
そう陽気に不思議な関西弁で言う通り、こいつは入浴時間が早い。めっさ早い。俺がこいつから同人誌を借りたのが10分前で、こいつはそのときに銭湯に行ったから、四分とか言う正直ありえない入浴時間になる。
「どうでもいいが、お前ちゃんと洗ってんのか?」
幾らなんでも早すぎるため、俺は当然のように疑問をぶつけてみた。
身体洗って頭洗って。絶対四分じゃあすまないはずなのだが。
かく言う俺は入浴時間はだいたい20分程度。たまに一時間とかになるが、それは浴槽の中で寝てしまうことがあるからだ。入浴中の脱力感はいつまでたっても素晴らしいと思う。
「当たり前やん。両手を駆使したウチの妙技は、もはや仙人級なんやでぃ?」
……両手を駆使ってことは、頭と身体を言葉通りの同時進行で洗っているのか? 器用な奴。
「ウソやー思うなら今度つぶやんも銭湯使えばええねん、ウチと。あそこ学生は入浴後のコーヒー牛乳が無料なんやし」
呆れている俺に、奴はそんな提案をしてきたが俺は慎んで辞退させてもらった。なにが悲しくて誰が入ったかもわからない混合出し汁風呂に入らなくちゃいけないんだ。そんなもの地獄じゃないか。汚れを流すための入浴が、逆に汚れ塗れになるわ。
「てかさ、何でお前ってそんなに早いの?」
なんとなく、思ったことを訊いてみる。別に意味は無い。昴の入浴時間は結構長いので、駄弁って時間を潰そうと思っただけ。借りてた同人誌は、やっぱり原作がわからないから面白くない。内容も設定もいまいちわからないし。
「短縮できる時間は短縮して、趣味に生かしたいやん」
なにをわかりきったことを、みたいな感じでジョージはそう言ってソファに座り、テレビをつけた。談話室にはいまだにブラウン管だがそこそこでかいテレビが置いてある。
「趣味にいかすんじゃなかったのか?」
「この時間は別やねん」
そう言ってジョージはバラエティ番組に集中しだした。
駄弁って時間を潰すことは断念するしかなさそうだ。
テレビは寮内には談話室にしかなく、各部屋にテレビはない。それでも、自費で買ったり家から持ってきたりして部屋にテレビを置いてる奴もいるが、いかんせんアンテナケーブルを刺す所が部屋には無いので、どっちにしろテレビは見れない。精々がゲームやビデオ、DVD用のモニターだ。
同人誌をテーブルに放り、テレビに目をやる。ジョージは自分の本がぞんざいな扱いをされたことに気付いていない。
その番組はどっかで見たことあるようなタレントが、お笑い芸人たちと面白くも無い話をしながらクイズをしていくものだった。
すぐに飽きた。
俺はこういうのの何が面白いのかが理解できない。ひたすらにつまらない。ジョージはなぜか真剣に見ているが、好きな芸人でもいるのだろう。こいつがリアルの存在に興味を引かれるとは思い難いが。
……暇だ。
こういう時、大抵の奴はケータイでもいじるのかもしれないが、生憎と俺はケータイなんて文明の利器を持っていない。あったら便利だろうとは思うが、無いからと困るわけでもなし、金はかかるし。と持たないことにしている。
仕方ないのでいつも通りにMDでも聴いておくことにする。
ポケットから少し型の古いMDウォークマンと、フックタイプのヘッドホンを取りだす。
俺は今時の歌とどうも相性が悪いらしく、聴いていても雑音にしか聞こえない。だから、MDの中の曲は全てクラシックだ。クラシックが特別好きなわけではないのだが、聴いていると時間が早く過ぎて行く気がするのだ。
再生すると、ヘッドホンからモーリス・ラヴェルのボレロが流れてきた。
ボリュームを少し上げ目を瞑った。