三話
ギリギリで翻訳作業を終えた俺は、鐘太に顎を掠めるようなアッパーカットを真心込めて贈り、眠りにつかせた後、鞄を手に教職室へ特別課題を提出しに行った。
ギリギリ無理な課題を出して生徒を苦悶にのたうちまわすのが大好きな英語教師は、俺が時間内に終了したことになにやらとても不満気な顔をしていた。
余計なことを言われないうちに、とさっさと教職室を退室した俺はその足で演劇部部室へと向かった。
演劇部部室は見た目安普請なアパートの部室棟にある。運動部のように特定の部室を必要としない部は、ここに入っている。
演劇部は体育館なども使って練習するが、バスケ部がほとんど毎日使用しているため、必然的に部室内での練習となる。
演劇部部室についた俺は、扉のをノックして開けてもらう。
最初に言ったように俺は部活は無所属だ。だから、こんな所にわざわざ来る必要は無いのだが、一応帰ることを昴に言っておかなければ、あいつははぶてるし無駄に心配とかする。その結果として、俺は何度か弁当に人参のオンパレードと言う責め苦を味合わされたことがある。アレは俺の中では軽くトラウマだ。本気で二度とごめんなのだ。あんなことは。ああ、思い出しただけで鳥肌が立つ。
「はっは〜い。どちらさま〜ん?」
妙にしなのある低い声が扉越しに聞こえた。正直に言おう。気持ち悪い。キモイとかじゃなくて気持ち悪い。
「あららん。み〜ちゃんじゃない。どうしたの? はっ!? ついに私のプロポーズ――をぶっ」
あっ。
やっべ。気持ち悪い人が気持ち悪いこと言いながら出てきたから、思わず脊髄反射で力いっぱい叩き閉めちゃったよ。ちなみに、扉は外開きだったので叩き閉めるのに都合が良かった。
扉の向こうから『大丈夫ですか部長?』『死にましたか部長』『部長が死んだしキリがいいからこれで今日はもう解散にすっか』等々。実に部長の扱いになれた素適に感情のこもらない会話が聞こえてきた。部員達もあのカマ部長のことはどうでも良いらしい。まぁ、普通の神経ならそうだろう。
俺はゆっくりと扉を開けた。誰も開けてくれないからセルフサービスだ。
「あ、湊。どうだった? 時間どおりに終わらせれた?」
扉を開けた俺に昴は喜色満面。そう訊いて来た。部室内の他の部員も俺が来たことを知るとそれぞれに挨拶をかけてくる。演劇部の奴らは昴を通してだが知りあいだ。とりあえず、顔と名前は一致する。ほとんどの演劇部員は上級生なのだが、演劇部員たちはそういうのを一切気にしない気さくな人達だ。
「見たらわかるだろ。無事に終わらせたよ」
昴は俺の言葉に、「よかった」とまるで自分の事のように嬉しそうにへにゃ、と笑った。
「……ところで、その格好は何だ?」
「え? これ?」
あえて気にしないでおこうと、精一杯の理性や日和見精神や崖っぷちの根性とかそう言うアレでがんばっていたのだが、ダメだった。
「え、えへへ。その……似合う、かな?」
テレテレと頬を朱に染めながらそんなことを訊いてくる今のこいつのその格好は、確かに似合っていた。似合ってないはずが無かった。思わずクラリときたくらいだ。これを見て似合っていないなどとのたまう奴は、よほど見る目が無いかスペシャル級のゲテモノ愛好家のどちらかだろう。本当ならばもう少し捻りのあることを言いたいが、いかんせん俺は貧乏だからそう上手く出てこない。ああ、語彙がな。
昴の今の格好は男子校なのになぜか存在する女子制服姿ではなく、淡い薄黄色の簡素なドレス姿だった。襟元や袖口、スカートのところにフリルが控えめにあしらわれていて、どこか深窓のお嬢様みたいな感じになっている。衣装の所為か、いつもよりも女度が3から4割程増している気がする。
「そ、そのね。えっと、今度の舞台……ていうか初めてのなんだけどね。その、ボ、ボクがヒロイン役になって……その、あのその衣装なんだけど」
耳まで真っ赤にして恥ずかしそうに俯きながら、消え入りそうな声でそう言う。はっきり言ってやる。笑わば笑え。そして軽蔑したければ勝手にしろ。
――クソかわいい。
「どうどうど〜う? もう、めっちゃプリチーじゃな〜い?」
一生そのまま死んでくれていたら世界は最低でも二割は平和になるはずなのに、気持ち悪い奴はここぞとばかりに復活して得意げに、まるで自分の手柄のように胸を張る。
この気持ち悪いカマ口調の気持ち悪い奴は、演劇部の部長で三年の川原 藤土。マスカラやらなんやらかんやらをものすごく活用して女装メイクを常にしている真性のオマカ。何度でも言おう。これでもかと言うくらいに気持ち悪い。
どうでもいいが、この学校は染髪脱色はOKでアクセサリーは禁止。さすがに化粧をしてくる奴が出てくるなどとは学校側も思っていなかったらしく、校則には化粧については一切触れられていない。今のところは、こんな完璧カマメイクをするような輩はこの気持ち悪い奴しか居ないので、学校側は放置してる。
まぁ、俺としては学校側に言いたいこと――ツッコミたいことは山とあるのだが、気にしたら負けな気がする。何にって、この状況に。他の奴らは軽くスルーしてる。多分慣れたんだろう。慣れって怖い。
昴はまだ恥ずかしそうに俯いていて、時折、俺の顔を伺うように上目使いで見上げてきてはすぐに俯くということを繰り返している。さっきから黙りっぱなしだから気になるのかもしれないが、こいつは気付いてるのだろうか。今の自分が客観的にどう見られているか。
ちなみに、他の部員たちは各々勝手に帰った奴もいれば、部室に残って駄弁ってる奴も居る。徹底してこの異常を無視するその手腕は流石としかいいようが無い。身近に異常が常にあると、ほとんど呼吸と大差ないのだろう。そんな日常はとても嫌だが。
「……や、やっぱり、似合わない……よね」
いつまでも反応しない俺に、昴はしゅん……となってそう呟いた。
「ああ、いや。そんなことはないぞと思う。うん。どっから見ても女にしか見え」
俺は若干焦った頭で途中まで口走ってから、しまったと自分の愚行に気付き言葉を切る。
「すまん」
わかりすぎるくらいにわかりきっていることなのに言ってしまった。そのばつの悪さから短く謝罪するが、
「え、あ……。いいよ。気にしないから。これは、そう言う衣装だもの」
昴は笑いながらなんでもないことのように軽い調子でそう言う。
だが、俺は見逃さなかった。俺が口走った瞬間。僅かにだが、こいつは息を飲み硬直した。