僕の知らないなよ竹のかぐや 前編 (恋愛)
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。
月ってさ綺麗だよね。
なんていうか……なんていうか……ごめん、特に思いつかない。
ちょっと現実逃避してた。でも仕方ないよ、この状況じゃあさ。
今僕の隣には女の子が眠っている。すやすやと寝息を立てて目を瞑っている。月の光に照らされて青く輝いている。正直これ以上は詳しく言えない。何か不味い事があるんじゃなくて、ただ僕がじっと見ていられないだけだ。
隣の女の子が彼女かって聞かれたらはっきりと、でもちょっとだけ残念に、それを否定しよう。キスだってしちゃいやしないし、それどころか手だって握っていない。触れてすらいない。
さっさと襲え? 無理だよ、そんな度胸は無い。据え膳食わねば? 無理無理、だってさ、下に両親居るんだよ? そんな気分になれないよ。僕が据え膳を食べたりしたら、それを見守る王様だか神様は、膳が減った瞬間に僕を死刑にしようとしているんだ。
そもそも隣の女の子は誰なんだって言われると、僕は何にも言えない。変な女、でも可愛い、けどちょっと電波入ってる、後は少し図々しい、それに何だか僕の事を知っているらしい、それから凄く可愛い。今、分かっているのはこれ位。もうちょっとあるけど、理解したのはこれ位、かな? まあ、半日一緒に過ごしただけで、まるで初対面の相手からこれだけ情報を引き出せたのは大したものだと思うよ。……いや、分かってるよ。それだけ掛けて分かったのはそれだけかって言うんでしょ? 僕は女の子と話すのが苦手なんだ。女性恐怖症だと言って良い。そんな僕が、初対面の女の子と話すなんて、話せる話せないの問題じゃなくて、死ななかっただけ大したものだと思うよ。いつもなら頭が真っ白になって倒れそうになるからね。何故話せたんだろう。多分、必死だったんだと思う。人間死ぬ気になればなんとやらって言うしね。
で、ちょっと話が脱線したけど、簡単に言えば、僕と女の子は赤の他人だ。いや、向こうに言わせれば知り合いらしいんだけど、僕は知らない。両親は知っていたみたいで懐かしそうに女の子を家に上げて、部屋が無いからってあろう事か僕の部屋に泊めるなんて事になったけど。部屋は余ってるんだけどね。改築したばかりで荷物が一杯なんだ。でも寝られない事は無いだろうから、僕は自分の部屋を出て物置になってる部屋かそれが駄目なら外で寝るって言ったんだけど、両親と女の子の計三人に押し切られて、結局僕は僕の部屋に泊まる事になった。自分の部屋だって言うのに本当に泊まっている気分だ。間取りはほとんど同じだとはいえ改築したばかりだし、何となく新しい家の匂いに慣れないというのもあるけど、それだけじゃなくて、なんていうか、その、心が落ち着かないったらない。
横で布団が動く音がした。見ると女の子がこちらを向いていた。眼は瞑っている。起きた様子は無い。僕も女の子も横になっている。布団に入っている。布団は別々だ。でも何故か二つがくっ付いている。僕が敷いた時には離れていたし、眠ろうとしたらくっ付いていたから離したのに、何故か今もまた布団はくっ付いて少し油断すれば体がその境界を越えてしまいそうだ。どうして布団がくっ付いたのだろう。
女の子の寝息が僕の顔に吹きかかった。僕は耐えられなくなって、女の子に背を向ける形に寝返りを打ったけど、首筋に息が吹きかかって、もうどうしようもない。僕は立ち上がって、布団の上で正座をして、じっと真っ暗で何も見えない空間を見上げた。今日は眠れそうにないし、どうやって女の子と出会ったのかを話そうと思う。
気怠い昼下がりだとか幻の様な夜だとか、そんな時に出会ったってんならカッコが付くんだろうけど、残念ながら僕が女の子と出会った時にそんな風情は感じなかった。昼下がりは昼下がりだけど、ぼんやりとしたお昼過ぎ。ちょっと夕暮れに差し掛かっていたかな。何か人の近寄れない荘厳で神秘的な場所、禁忌に縛られ人の出入りのない場所っていうならカッコ良いのかも知れないけど、僕が居たのは人が居ない事は居ないけど、それだけのただの駅のホームだった。何か映画の中の主人公みたいに大事件に繋がる目的を持っていた訳じゃない。当然、娘の為にクリスマスプレゼントを買って帰る途中でも、未来から現代を改変しに来た訳でもない。それどころか何の目的も無かった。ただ何となくそこでぼーっとしていた。
携帯が震えて、取り出してみると、親友から。遊びに行こうという内容が回りくどく装飾を凝らして送られてきていた。良くこんな薄い内容でここまで長ったらしく出来るなといつも通り感心しながら、僕は嫌だと返信した。もう一度携帯が震え、数瞬前にしまった携帯をもう一度取り出さざるを得なくなり、見てみれば合コンだから来いとある。行く訳が無い。向こうだって僕の女性恐怖症を知っているはずなのに。もう一度僕は嫌だと返信した。すると待ち受けていた様にすぐさま『ホモ野郎』と送られてきた。僕は携帯をしまって俯いた。ぼーっとしようなんて気合を入れた。
ところが、それはすぐさま打ち破られた。横合いから声を掛けられたからだ。ここから会話が入るけど必死過ぎて幾分記憶が曖昧なので、妄想が多分に入っている可能性がある。まあ、流れは大体一緒なのでそこまで問題じゃないだろう。
で、掛けられた。言葉はこうだった。
「おはようございます、優斗様」
幾つか説明しよう。まず僕の名前は優斗だ。だからこの言葉は僕に掛けられたものである。けど、待ち合わせはしていない。完全に不意打ちの声だった。僕はただ駅のホームでぼーっとしようとしていただけなのだ。それを邪魔された形になる。それから後述するけど声の主は知り合いではない。最後に、僕は様なんて付けられる身分じゃない。ファミレスでなら呼ばれた事があるけれど。
さて、いきなり声を掛けられて僕はかなり混乱した。聞いた事の無い声だったし、何よりその声が女性だった。僕の思考はぐるぐると回って、色々な事、例えばいたずらじゃないかとか、間違いじゃないかとか、色々な感情、例えば恐怖だったり、多少の喜びだったり、が渦巻いたけれども、少しして渦の中心の一点、とりあえず顔を見てみようという事に落ち着いた。
混乱しすぎて忘我の状態に近かったので、何の感情も無く声の主を追って、僕は顔を上げた。
そこには、単純に言えば可愛い女の子が居た。具体的に挙げていくなら、まず目が大きく、まつ毛が濃く、鼻が高く筋がすっと通っていて、頬と唇にほんのりと赤みが掛かり、それを覆う長い黒髪は一点の曇りも無い。眉毛は少し濃かったけれど、長い黒髪と大きな目の間に挟まれていてむしろ調和が取れていた。和風のお姫様の様だった。服が和服なら様になっていたかもしれないけど、生憎と、本当に残念な事に、白いシャツに黒のロングスカートだった。それもそれで、ややクラシカルな出で立ちだったけど、一瞬想像した和服を着た様子と比べれば遥かに普通の、悪く言えば僕の期待にそぐわない服装だった。それぐらい常識離れした容姿だった。でだ、正直そんな事を言ってもまるで想像が付かないと思う。僕に迫真の描写力があれば口頭で説明できるんだけど残念ながらそんな文才は無い。寸法を取って目が何センチで、鼻が何インチでという訳にもいかない。まあせめてもって事でとりあえず特徴を二点だけ言うと、黒く長い髪を持った純和風美人、透き通って見えたほど翳りの無い大きな瞳が印象的だった。見上げた瞬間に頭に浮かんだのがその二つだった。とりあえず、最初に言った通り可愛い女の子が立っていたのだ。
さて、何度も言う様に僕はこの女の子にまるで覚えがない。女の子に目を奪われてから少し経って、ようやく意識を取り戻した時に思い浮かんだのは、誰? という短い疑問だった。
「どうしたの? 呆けちゃって。久しぶりだね、憶えてるよね?」
「ごめんなさい」
何かを考える前にそう口に出ていた。いや、本当に憶えてなかったんだから、返答としては外れてはいない。言ってはいけない言葉に入るだろうけど。
この時点で僕はとても焦っていた。人に会って名前を呼ばれ久しぶりと言われて憶えているかと問われ、それにごめんなさいとは良く言ったものだと、思い返す今は思う。激昂されても文句は言えない。あるけど、言えない。
どうしたものかと思っていると、女の子は酷くあっさりとさっぱりとした声で言ってのけた。
「そっか、やっぱりね」
どういう事? という疑惑を覚えて女の子を見ると、女の子は少し悲しそうに眉を顰めていた。ますます混乱した。
けどそれは一瞬の事で、女の子はすぐさま快活な笑顔に変じていた。
「私の名前は……あー……えーっと……そうだ! 愛斗!」
いやいやいや。ここまであからさまに偽名って分かる言い方も無いだろう。僕はそこら辺を突っ込もうと頭の中で身構えると、続く女の子、以後は愛斗と言おう、の言葉が聞こえた。
「今度こそ憶えていてね」
そう言われると、忘れているという負い目のある手前、何も言えない。憶えておいてやろうかなんて、勿論言えなかったし、思えもしなかった。すみません、憶えさせていただきますといった心境だ。
僕はここでちょっと迷った。自分も名乗った方が良いのかどうかという事でだ。相手は僕の名前を知っているのだから今更名乗るのも変だけど、僕の方としては初対面のつもりなのだから名乗らないのも居心地が悪い。僕は幾分迷ってから名前を言う事にした。何事に付けても礼儀っていうのは大事だよ。僕は少し息を吸って、戦闘準備を整えた。その時、声が聞こえた。
「焼肉が食べたい」
天から声を授けられた預言者並みに驚いたと思う。
僕の衝撃を分かっていただけるだろうか? 僕が決意と共に名乗ろうとした拍子に、愛斗に遮られてしまった形になる。それだけでも僕としては少し心が折れたのだけれど、内容の酷さを鑑みればそんな衝撃は微々たるものだ。
よりによって焼肉が食べたい? 戦後自由恋愛が謳われて数十年、今時の若い者は性に奔放になってけしからんとか言われているけれど、その帰結がこれなの? 最近の女の子は道端で男を誘う時に焼肉が食べたいって言うの? 都会では流行ってるの?
大体そんな事を、僕の混乱した頭は考えた。僕は一気に老人になった様な、時代に置いてけぼりにされた様な気分になっていた。これが最近の若者かと、高校生の身空で考えた。とにかくそれ位混乱していた。
混乱に混乱を重ねた僕は何も言えずにただ愛斗を見つめていると──これだけでも本来の僕からすれば考えられない位恐れを知らぬ行動だ──愛斗はそれに焦れた様でもう一度言った。
「私、焼肉が食べたい。だから焼肉が食べられる所に連れて行って」
その時は衝撃で何も考えられなかったけど、今思い返せば何とも図々しい奴だ。文句の一つでも言ってやりたい。
本当に言ってやろうかと過去の駅から現在の家にふと立ち返ると、視界の端に愛斗の寝顔が見えた。やっぱり言えない。顔を見てしまうと何も文句が言えなくなってしまう。頭で思う事すらも。まあ、僕の意気地なんてそんなものだ。
さて過去の駅に戻るけど、僕は愛斗にこう言った。
「え、あ、うん」
「じゃあ、行こう。案内して」
否定しろなんていう突っ込みは無用に願いたい。駄目な奴だなんていうのは一番僕が分かっている。けどあの時は何も考えられずにそう言ってしまったのだ。僕の態度に苛々する様ならこの辺りで中断して帰った方が良い。これから更に酷くなるから。もう一度、言い訳がましく言っておくけど、僕は女性恐怖症なんだ。むしろ会って十分以内に会話が出来た時点で、覇者になった位に褒められる事なんだ。
で、了承してしまった僕は愛斗を連れ立って、駅の改札へ向かった。切符を通すと残念ながら素直に通ってくれなかった。駅のシステムって切符を通した駅では降りれないらしい。普通に考えたらそんな必要は全然無い訳で、もしかしたら僕の町が田舎だったからそうなっているのかもしれない。都会住まいの人はそんな事無いのかもしれない。まあ、改善されても日常で良い事なんてほとんど無いんだけど。一方、愛斗の方は非接触型ICチップの備わったカードを使ってワンタッチで出て行った。お前は持っていないのかって? 地元の高校に通う僕には全く必要が無いんだ。必要ない物を持つなんて非合理だろ? だから持っていない。要らないからだ。別に羨ましくなんかもない。僕が駅員に説明している間、愛斗は改札の向こうで楽しそうにこちらを見ていた。勿論、羨ましくない、死にたくなる程恥ずかしかった訳も無い。でも何故か顔が熱くて仕方が無かった。
とまあ、一頻り負け惜しみを言ってあの時の恥ずかしさを切り抜けたし、更に話を先に進めようと思う。この時点で僕の精神は完全に摩耗しきっていた。改札口での全身が焼け爛れる恥ずかしさで、僕は口を聞ける様な状態じゃなかったし、話を聞ける理性も無かった。完全自動で僕の足は焼肉屋へと向かっていった。
一方、愛斗も道すがら何も言わなかった。もしかしたら僕の衰弱しきった死に顔に何も言えなかったのかもしれない。もしもそうなら少しだけ申し訳ない。愛斗は僕の横を僕の歩調に合わせる様に偶に早足になりながら付いて来た。僕は俯いていたので愛斗の事を全く見れもしなかったのだけれど、何となく愛斗は辺りを見回している様だった。僕はひたすらどうしようどうしようと考え続けて、少しふらついていた……はずだ。
そこら辺りから記憶があまりない。気が付くと焼肉屋の席に坐って、温まって陽炎が生まれ始めた鉄板を挟んで、僕と愛斗は向かい合っていた。愛斗は嬉しそうにメニューを眺めていた。その時僕が唾を呑みこんだのは多分焼肉に期待しただけでは無かったとはずだ。真剣にかつ奔放にメニューを眺める愛斗の姿は美しかった。綺麗だなと思った。次いで頭に浮かんだのが、お願いだから高い物は頼まないでくれという思いだった。僕の乏しい知識、主に漫画から仕入れたそれによると、こういった突然女性と邂逅して食事処に入った場合、十中八九青ざめる程の金額を言い渡されるものだ。僕は嫌な予感がして、でも口には出せなくて、心の中でお願いし続けた。お願いだから高いやつを頼まないでくれと。
結局、僕の願いはあっさりと打ち破られた訳だけど、総計では常識の範囲内で落ち着いた。愛斗は非常に小食で僕や友達が食べる量の半分も食べなかった。まあ、それでも全てが僕の財布に圧し掛かって、それなりに苦しかったのだけれど。
少し戻って、メニューを睨む愛斗を眺めていた僕は遂に一大決心をした。
「なあ、あんた、誰なんだ? 正直俺には全く覚えが無いんだけど」
これがその一大決心の後に飛び出た言葉である。幾つか補足しておこう。まず口調に就いてだけど、僕は思考の上では一人称には僕を使って、幾分丁寧というか奇妙な言葉使いなんだけど、話す時の一人称は俺で口調はもう少し砕けている。理由としては大した事じゃない。中学生までは思考と口調は一致していた。喋る時も一人称は僕で奇妙な言葉使いだった。けど高校生になってから急に恥ずかしくなったのだ。周りが普通に喋っている中で、こんな口調じゃ浮いてしょうがない。僕は世間に背を向けて生きる気概は更々無いので、諾々と世間の濁流に呑まれて口調を改めた。でも頭の中だけはどうにもならずに昔の儘になっている。後、昔ながらの友達の前だと口調が戻る事がある。次に発言に就いてだけど、これでも精一杯考えた結果の言葉だ。何処がと思われる方も居るかも知れないけど、とにかく色々考えた結果、これが一番だと思った言葉を発したはずだ。まあ、その結果が酷く失礼でどうにも締まりのない言葉になってしまったけれど、とにかく僕の精一杯だった。何度も言うが話せただけで奇跡なのだ。
愛斗は顔を上げて僕を見た。とても真剣な目で、僕の事を睨んでいた。一体こいつは誰なんだ。愛斗の口からどんな言葉が語られるのか。僕の体が少しだけ強張った。
「この最高級和牛の一番右上の奴が食べたい」
あ、そうですか。僕は呼び出しボタンを押して、店員に愛斗の言った旨と僕が食べたい物を告げた。店員は明るくはきはきとした声で復唱して何処かへ消えて行った。後には何か気まずい沈黙が残った。あるいはそれを感じてるのは僕だけだったのかもしれないけど。とかく二人して何やら神妙な顔を突き合わせて黙り合っていた。
しばらくしてそれを打ち破る様に愛斗が言った。
「私は愛斗」
その後に何か言葉が続くのかと思ったらそこで止まってしまった。何やらこちらの出方を窺っている様子だ。どうしろと?
「うん、それは聞いた」
僕にしては言葉がすらすらと出てくる。不思議と愛斗を前にすると話し易い。僕の女性恐怖症を除いても、愛斗は取っ付き辛そうというか、何を考えているのか分からないのに、何故だか口を衝いて言葉が出てくる。あるいはそれが魅力というやつなのかもしれない。
またも迷う素振りを見せ始めた愛斗は、しばらくしてようやっと口を開いた。
「私は月から来たの」
ん? というのがそれを聞いた時の感想だ。僕の聞き間違いかと思った。もしかしてつきっていう地名があるのかもしれないけど、その選択肢も次の愛斗の言葉が打ち砕いた。
「知らない? ほら、この星の周りを回ってる。あれ? 月で良いんだよね?」
うん、まあ地球の衛星は月だけども。僕は黙るしかなかった。こんな時何て言えば良い? 情報求ム。
「あれ? おかしいなぁ。月って言うんだったと思うけど」
愛斗も僕も何て言えば良いのか困惑していると、店員がやって来て注文の品を置いていった。愛斗は動かない。机の上に並べられたお肉を見て、固まっている。何だ? まさかここまで来て肉が嫌い何て言うんじゃないだろうな。なんて一瞬思ったけど、すぐに固まる本当の理由に思い至った。
僕がお肉を金網の上に載せると、お肉は肉汁を垂らし、湯気を上げ、小さく爆ぜる音が聞こえて、焼肉の匂いが辺りに満ちた。愛斗が嬉しそうに箸を開いたり閉じたりしている。やはりお肉を焼けなかった様だ。今すぐにでも食べたい様で、生焼けを前にして、
「もう食べて良い?」
何て言っている。ちなみに今のが三回目だ。そろそろ頃合いかなと思ったところで、僕は言った。
「そろそろ良いんじゃない」
恐ろしい速さで箸が動いた。僕には金網に向かう箸も、焼かれた肉が持ち上げられる様も、それが口に運ばれるところも見えなかった。瞬速。だからどうしたという話だが、とにかく僕は驚いた。驚いていると、咀嚼してご飯と一緒に一枚目を飲み下した愛斗が言った。
「うん、やっぱり月で良いと思う」
「まあ、確かに空に浮かぶ地球の周りを回る衛星は月だけどさ」
僕もお肉とご飯を飲み込んでそう言った。食べ物が入って胃が重くなった代わりに口が軽くなったみたいで、気が付くと僕と愛斗は話し合っていた。
「でしょ? だからやっぱり私は月から来たんだって」
「いや、月って」
「だって月だもん」
「どうやって月から」
「ふわって」
「ふわってって。浮いて来たのかよ」
「違うよ。浮き上がったら着いてるの」
「意味分かんねぇ」
「とにかく月から来たの! 私は月のお姫様なの!」
ああ、そういう系ね。ちょっと帰っていいかな。
心の中でそんな事を思ったけど、実際に帰る事は出来なかった。愛斗の顔が僕を引き止めていた。別に僕が愛斗の可愛さに目が眩んだ訳でも、愛斗が悲しそうな顔をして涙を浮かべていたから同情した訳でも無いけれど、何故か愛斗の顔を見ていると帰る気が失せてしまう。何かに束縛されているみたいに。今考えるとちょっと恐ろしい。
その後も愛斗と色々と話していた気がするけれどほとんど覚えていない。とりあえず、後焼肉屋で憶えているのは、僕の中のお札が数枚とんで、残りが硬貨だけになり、愛斗に気付かれない様にそっと溜息を吐いた事だけである。
「おいしかったね」
帰り道に愛斗が言った。
「私ね、ずっと優斗と一緒に焼肉を食べるのが夢だったの」
「そうか。良く分からない夢だけど、叶って良かったな」
口から出た言葉に反して、僕の顔は熱く火照った。愛斗の中で僕はどういう位置づけなんだろう。そんな夢に入れられる程、重要な位置に居るのだろうか。
「うん、これからもよろしくね!」
「ああ、こっちこそよろしく」
口から出た言葉に反して、僕の頭は酷く混乱した。頭の中に沢山の疑問符が浮いた。え? どういう事? これからも? ああ、また遊ぼうって事? そんなニュアンスじゃない気がするけど。っていうか、何で付いて来るの? ただそれを確かめる勇気がその時の僕には足りなかった。
「あ、優斗の家、変わってないね」
僕の家に近付くと愛斗は嬉しそうに言った。僕の家をはっきりと見つめていた。まだ僕の家が何処だなんていないのに。本当に僕の事を知っているのだろうか。なら何故僕は愛斗の事を知らないんだ?
家の敷地に入ると、案の定、愛斗は僕の後ろに付いて来た。玄関に鍵を入れると、愛斗は興味津々に僕の手元を見つめ、僕が玄関を潜ると、案の定、というか嫌な予感の通りに、愛斗は僕の後ろに付いて玄関を潜った。
流石にこれは追い返した方が良いだろうと、振り返って愛斗を見つめた時に、嫌なタイミングで母親が家の中からやって来た。いつもは出迎えなんてしないのに。
「お帰り。何処に行ってたの……って、あら、あらら、あらあら、あらあらあら」
僕の頭の中で、何回あらって言った数えてみようという甲高い声が響いた。ちょっと意識が飛びかけた。
「愛斗ちゃん? 久しぶりねぇ」
「お久しぶりです、おばさん」
「綺麗になっちゃってぇ」
何だかおばあちゃんと孫のやり取りみたいだ。っていうか、母親も愛斗の事を知っていた。何で知ってるんだ? それに愛斗って本名なの?
「母さん、こいつの事知ってるの?」
「はあ? 昔ご近所に住んでたでしょ。まさか忘れたんじゃないでしょうね」
「いや、忘れたっていうか……会った事あった?」
「うわ」
母親に小さな声でうわっていわれた上に、舌打ちされたのは初めてだ。愛斗に配慮して表情だけは笑顔なのが余計怖い。
「ごめんね、愛斗ちゃん。こいつ馬鹿だから」
「いえ、気にしてません。また会えただけで嬉しいですから」
愛斗の言葉を聞いて、僕は羞恥と仄かな嬉しさで顔が再び熱くなり、母親はにやけ面と泣き顔の中間みたいな良く分からない顔で頷いた。
「お父さん、ちょっと来て!」
少し声が震えている。そんなに感動したのか。それよりも、今でさえ大分混乱しているのに、更に父親まで加わるのか。てか、今家に居るの?
「おう、どうしたどうした」
何で居るんだよ。父親はいつも帰りが遅い。こんな時間に家に居る事なんて滅多に無い。それがどうして今日に限って。
「見てよ、お父さん。愛斗ちゃん!」
「あ、おお? おお! おうおうおう」
何て言ってるのか分からない。何やら似た者夫婦だ。
「豪い別嬪になったなぁ」
やっぱり似た様な事を言う。
「お久しぶりです、おじさん」
「おお、久しぶり。まあ、上がって上がって」
「はい!」
居間に通された愛斗は僕の両親と歓談している。僕はすぐそばに座っているけれど、気持ち的には隅っこの方で小さくなっている。そうして三人の話に適当に相槌を打ちながら、その実、何にも話を聞かずに上の空になっていた。何か昔話に花を咲かせているのだろうか。でも僕だけがその事を憶えていない。何故だか全く記憶に無い。周りの状況を鑑みるに確かに僕は愛斗と会った事がありそうなのに。何故だろう。狸にでも化かされているのだろうか。何かがおかしいのだ、何かが。
「じゃあ、そういう訳だから、優斗、さっさと布団敷いてきな」
「は? 何が?」
「聞いてた? 今日、愛斗ちゃんは家に泊まるって話」
「もう眠い」
「ほら、愛斗ちゃんもこう言ってるでしょ。だからさっさと布団敷いてきな」
「改築したばっかで部屋空いてないじゃん」
「あんたの部屋が良いって愛斗ちゃんが言ってんの」
「じゃあ、俺は?」
「二人で寝れば良いじゃない」
それが親の言う台詞か? それは流石にまずいだろう。いや、冗談なのは分かっているけど。
「分かったよ。じゃあ、他の部屋片付けて俺がそこで寝りゃ良いんだろ。もしくは外で寝ても良いよ」
「優斗と一緒に寝たい」
「ほら、愛斗ちゃんもこう言ってるでしょ」
「は? いやいやいや、それはまずいだろ」
「あんたが何もしなけりゃそれで済む話でしょう」
そういう問題じゃないだろう。見れば、愛斗は既に立ち上がって、寝屋に行く準備が出来ている。
「ほら、さっさとエスコートしなさい」
「本気で言ってる?」
「良いから、さっさと!」
僕が立ち上がった時には、愛斗は図々しくも既に扉を出て、階段を上ろうとしていた。なんで僕の部屋が二階にあるって知ってるんだ。
「しっかりやれよ」
父親がぼそりと言った。死ね糞親父。
「絶対に逃がさない様にね」
母親も母親で何か言っている。僕の両親がおかしくなった。二人はどういう勘違いをしているんだ?
僕の部屋に行くと、愛斗が部屋の真ん中に座っていた。
「前と変わらないんだね」
「改築したから新しくはなったけどな」
「そうかなぁ」
ああ、でも昔に会ったというのなら、築年数的には余り変わらないのかもしれない。やっぱり本当に来た事があるのだろうか。
僕が布団を敷いていると、愛斗は立ち上がって、部屋の外に出ようとした。何だと思って見ていると、
「お風呂入ってくる」
と言って、出て行ってしまった。しばらくして下からばたばたという音と、母親の奇声が聞こえてくる。お風呂に入るだけで何をそんなに騒いでいるんだろうと思いながら、僕は出来るだけ布団と布団の間を空けた。何やら意識している自分が恥ずかしかったけど、どうしよもない。
しばらくすると愛斗が戻ってきた。
「良いお湯だったよ。次は優斗がどうぞ」
僕は絶句した。何も言えずに黙っていると、愛斗は小首を傾げてこちらへ近寄ってきた。
「どうしたの、優斗?」
「ちょっと待て! ストップ!」
「何で?」
何故か愛斗は身体に会わない程大きいぶかぶかとした、そして肌がうっすらと見える程薄手でフリルが付いた古めかしい──僕はその扇情的で馬鹿げた衣装形態を生まれて初めて見た──ネグリジェを着ていた。まさか母親のか。いつもパジャマを着ているのに。まさか若い頃の? 僕が愛斗と母親の両方に衝撃を受けていると、愛斗が近寄って来る。
「どうしたの?」
動かないでくれ。見えそうだから。とは口に出して言えなかった。
「やっぱり大き過ぎるかな? パジャマが無いからおばさんの借りたんだけど」
だからって何でそんなものを、とは口に出して言えなかった。口が渇ききって開かなかった。
僕は不安がる愛斗を残してお風呂に入る為に部屋を出て下に向かった。野暮用もある。下に降りて居間に行くと両親がテレビを見ていた。僕の気も知らないで。
「何だよ、あの服は」
「可愛いでしょ!」
「悩殺されたか」
何だよのうさつって。
「俺も昔はなぁ」
聞きたくない。
「頑張ってね」
「頑張れよ」
何をだよ。
結局何も改善しないまま、僕はお風呂に入って部屋に戻った。部屋では布団の上に愛斗がちょこんと正座をして待っていた。少し嬉しいが、越えてはならない一線を越えそうで僕は心を凍らして、布団を離して、掛布団の下に潜り込んだ。
一瞬、愛斗の驚いた表情が目に映ったが、僕は心を鬼にして、上から伸びる電灯の紐を引いて電気を消した。
そうして今に至る。何故だか今は布団が隣り合っている。しかも下らない回想をしている内に愛斗の目が開いていた。思わず愛斗と見つめ合ってしまって、僕の心臓が高鳴り始めた。
「ねえ、優斗」
ただでさえ早突きをされていた僕の心臓が一際高く跳ねた。続く言葉は何だろう。良い言葉でも悪い言葉でも、何が来てもおかしくはない。憶えていない事や今日の不満を言うのだろうか、あるいは今日のお礼を言ったり、また会えた事の嬉しさを伝えてくるのかもしれない。あるいは誘ってくるかもしれない。あるいは誘われるのを待っているかもしれない。段々と僕の頭は茫洋としていって、良く分からなくなった。
「明日は遊園地に行きたい」
愛斗の言葉が聞こえたのと同時に、ぴたりと僕の頭の混乱が止み、しんと静まり返って結局は何も考えられなくなった。
「ああ、行こう」
「ありがとう」
僕が辛うじて出した言葉に愛斗は嬉しそうに笑った。すぐに布団を被ってしまったので、愛斗の笑顔は見えなくなった。
僕は嬉しかった。明日が楽しみになった。散々文句を言ってきたけど、やっぱり。でもその嬉しさが僕にはたまらなく苦しかった。
僕はこの笑顔を向けてくれる女の子を忘れているんだ。