もう一人の俺を創ってみた(ホラー・ファンタジー 残酷な描写有)
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。
残酷な描写が御座いますので、ご注意ください。
ああ、何たる世紀の大発見をしてしまったのだろう。
世の中の誰もが考えていながら世の中の誰もが為し得なかった人の創作。それを一人間、その上、そんな人間の中でも一等惨めな俺が成し遂げてしまうとは。誰が期待していた。誰が想像出来た。
今まさに、神々しい奇跡には不似合いな安っぽいアパートの一室、ぼろぼろの畳の上で自分と硝子の自分が向かい合って並んでいる。
俺と俺。
硝子の中の自分はぼやけて見え辛いが、確かな実感を持ってそこに存在している様に感じられた。少し油断すれば向こうの俺を越えて後ろの玄関が浮かび上がりそうでありながら、けれど間違い無くもう一人の俺はそこにあって、俺と奥の壁の間に立っている。鏡に映る自分や写真に写った自分等よりも、余程確として、膨らみをもってそこに居る。
そう、ついに俺は、神の御業、古来より男女の営みによってのみ母体から生まれ出る奇跡、古来より幾人の賢人悪人が神の備えた生命の神秘を真似ようとして失敗してきた大目標、その中でも一等罪深いとされる、存在する人間を複製するという大悪事を、ついに、俺は、ついにこれから成し遂げるのだ。
ああ、今、まさに世紀の大奇術を成し遂げんとするに至って、俺の頭に浮かぶのは、これから来る華やかな未来などでは無く、今迄行ってきた苦節の過去だというのは、余りの興奮を冷却せんとする脳の優しさだろうか。
最初に人を創ると思い至った時は、今でもはっきりと思い出せる。あれは自分に絶望した時だった。無気力にしてその日暮らし、無感動をもって未来も無く、ただ漫然と決められた生活を送る自分の汚らしさを、洗面台の鏡に向かって顔を洗っていた俺は気が付いてしまった。
俺は何故こんな生活をしている。決められたレールを走る等と言われているが、俺のレールは電車のそれではなく炭鉱のトロッコの様ではないか。自分で走る事も出来ず、ただ傾斜に従って転がり、重き荷を詰め込まれて運ぶ。己自身は何も思わず、周りに動かされている錆びついて古びれたトロッコが、俺の疲れて弛んだ顔と混ざり合って、途端にじめついた暗闇の中で息を詰めて立ち尽くしている気分になった。
こんな事じゃいけない。
社会の歯車や替えの利く部品どころではない。それどころか必要とすらされていない。俺の収まっている場所は誰も期待のしていない場所で、俺が居なくなっても補充すらされない様な、そんな場所だった。
俺に出来る事、それは何だ。
それは人間を創る事だ。
絶望した俺に突然神の啓示の如く浮かんだ目標は、まさしく俺にふさわしく、今考えてみれば、本当に神が人類を次なる段に上げる為に俺を使わしめたのではないかとすら思える。
誰一人として為し得なかった人類の大目標。
クローンだ何だと言われるがそれは如何にも馬鹿げた方法で、本当の方法は世の中のほとんど誰も思いつかない手段だったのだと分かった今になってみれば、まさしく社会の中の劣等種、やるべき事のある高潔な人間達とは違う俺の様に居ても居なくても必要無い者にこそ、このまともに考えればおかしな手段は成功せしめる事が出来るのだ。
世の中には倫理の壁がある。クローンというのも既に技術は完成しているのに、倫理的な問題で自粛しているなんて噂を聞いた。
だから俺は適任なのだ。倫理がどうたら言われる様な立場にない。目標を見据えてそれ以外の些事を全て投げ打つ事が出来る。俺はここに居なくても良いんだから。
そうと決まれば、早速人間を創ろう。
俺の心は、今迄の漫然としていた精神とは比べもつかない程沸き立っていた。全身からやる気が熱として発散され、立ち昇る湯気で目の前の鏡が曇る程だった。
人間を創ろう。俺らしい、俺しかやらない様な方法で。
その時の俺はやる気に加えて、明敏さすら伴っていた。やはり神の後ろ盾があったのだろうか、人を創ろうと考えた時点で既に、今のクローン、いや科学だけでなく、魔術や錬金術やその他様々な方法が全て間違っている事に気が付いていた。だから俺は自分らしい方法、例え他の人間が思いついても見捨ててしまう様な、そんな方法で人間を創る事に決めたのだ。
初めに俺は大きな鏡を買った。少し前に鏡の中から人が出てくる小説を読んだからだ。思いたった時に鏡の自分を見つめていた事も一因かもしれない。
自分が全て映る位の大きな一枚鏡の中には、前後が逆転した俺が居て、何やら真剣な目付きで俺の事を見つめていた。
これは早速当たりかもしれない。
鏡の中の俺もどうやら人間を創りだす事に積極的な様で、二人が合わさればこれ程心強い事は無いと思った。
早速、俺は鏡の中の自分へと手を伸ばして──そこで見えない何かに阻まれた。
鏡面は境が無い様に見えて、手で触れれば冷たく固く確かにそこに在り、鏡の中の俺を封じ込めて逃さない様子だった。手で触れ、足を伸ばし、顔を近付け、後ろを向いてみて、様々に試行錯誤してみたが、一向に鏡の境は消える気配が無く、鏡の中の俺がこちらに出てくる様子も無かった。
これは意外に難しそうだぞと気が付いた。
最初は自分ならば簡単に出来る気がしていたが、幾ら試しても自分を取り出せる気配が無い。成程、道理で世の中の人々が挑戦しているのに、未だ為し得ない訳だと納得しつつも、それで諦める訳にはいかなかった。既に俺は人を創る事に人生を賭けるつもりだった。富や名声が欲しい訳じゃない。成功しなくたって構わない。諾々と消費する人生よりも、例え無駄になろうとも自分自身が率先して自分の人生を使いたかった。
発想の転換が必要だ。
大きな鏡に全身を晒して、その自分を取り出す。この方法ではどうやら上手くいかない。
転換が必要だ。今までの凝り固まった考えを。
朝から晩まで鏡から自分を取り出そうと試みていた俺は、段々と意識が薄れていって、並々ならぬ熱意も敵わず、その日はそれで寝てしまった。次の日、冷えた空気を吸い込んで目を覚まし、冷え切った体に身を震わせた時に、俺は突然閃いた。
そうだ、俺を二つに分ければ良いんだ。
あまりにも自分を鏡から引っ張り出すという事に固執していた。鏡の境を取り払おうと躍起になっていた。そう、発想の転換だ。自分をもう一つ創るのではなく、自分を二つに分ければ良い。例え体が半分になったって、自分の意志で動いているのであれば、それは二人と言えるはずだ。
早速、俺はのこぎりで鏡を二つに分けてみた。
耳を切り裂く様な嫌な音が響いたが、これも自分の人生を有意義にする為だと我慢してやり遂げ、分けた鏡を上下に並べて固定すると、鏡の向こうの俺が、頭と体に分かれていた。鏡の向こうの俺の顔は、口を開いたり、眉を顰めたり、頬を膨らませたりと自由自在に動いている。一方、鏡の向こうの俺の身体は、胸を膨らませたり縮ませたり、手を開いたり、足を上げたりしている。どちらも自分の意志で動いている。
成功だ。
鏡の向こうの俺は分かれる事で二人となった。新しい人間を創れたと言って良い。だが、鏡の中の成功ではこちらの世界で使う事は出来ない。世の中に技術として確立し、人の役に立てる為には、こちらの世界でも出来なくてはならない。
とはいえ、俺はその時、初めに人を創ろうとした時と同じ様に成功を楽観視していた。鏡の中で出来たのだから、鏡の外でだって出来るはずだ。実験はもう半分成功しているのだ。俺は陽気な気分で鼻歌を歌いながら、自分の体を二つに分けようとしたが、ふと気になる事があって躊躇した。
もしも体を二つに分けて、片方に意識が無くなったとしたら。
人の意識は脳と心臓に宿るという。普通に考えれば、頭と胸を分ければ二つの意識を持って自在に動き回るはずだが、あるいはそうならないかもしれない。そうしたら、俺は身体の一部分を失ってしまう事になる。それで実験が続けられなくなったとしたら事だ。俺の大目標がそんな形で頓挫してしまい、後は燃える様な意識が宿っただけの錆びついた身体だけが残って、それで絶対に届かなくなった夢に憧れながら朽ち果ててしまうなんて、絶対に嫌だった。
まずは他の人で試してみよう。
外に出ると、実験に必要な人間は簡単に見つける事が出来た。何となく人間というのを手に入れるのは難しそうな気がしていたのだが、人間大の鏡の方が余程見つけ辛い。
考えてみれば当然で、何せ世界には人が溢れていると言うし、俺の実験にはただ人間であれば良いので選り好みする必要も無い。更に、ほとんどの人間は交換可能な代替物だそうなので、例え体を失って持ち場に付けなくなっても新しく補充されると考えれば、気遣う心配も全く無い。人を取り去るなんて一大事になりそうだと考えていた俺は、幾分拍子抜けして、さて二つに分けようかという時になって、鏡を切った時に酷い音を立てたのを思い出した。
さすがに近所迷惑だろうかと配慮して、辺りに人気の無い森に持って行って少し切ってみると思った通り、鏡よりももっと頭の痛くなる悲鳴を出した。本当に良かった。町中や自分の部屋でやったら、間違いなく苦情が来ていた。
そこまでは良かったのだが、残念ながら実験の方は全く上手くいかなかった。それどころか、予想よりも酷かった。
頭と身体を分けてみると、何と両方とも動かなくなってしまったのだ。全く理由が分からず、すぐにでも新しい実験を行いたい気持ちは山々だったが、もう一日と半分も眠らずに実験をしていたので眠かった上に、また新しいのを捕まえるとなると更に時間が掛かるので、俺は帰らざるを得なくなった。疲れ切った身体でシャワーを浴び、横になると、何故失敗したのか分からない自分が不甲斐なくて、情けなくて、涙が出た。そんな悔しさも悲しみも、眠りは全てを奪い去って、俺は気が付くと眠っていた。
次の日、俺は元気に外に出た。
眠りというのは何と偉大なんだろう。胸を満たしていた悲しみは消え去り、あるのは再び情熱だけになっていた。一度や二度の失敗に嘆いている様では、前代未聞の大事業を成功させるなんて出来る訳が無い。もう前日の失敗の余韻は消え去り、外に出る時の俺は何も考えていない、ある種の能天気さで次なる実験に向かった。
それからは失敗の連続だった。
切る場所を色々と変えてみたが、ほとんどの場合、両方の意識が消えた。偶に片方の意識が残る事もあったが、もう片方は動かない。何度か繰り返す内に、どうやら末端を小さく切れば、切った先以外の部分は意識が残る様だと気が付いたが、虚しい気付きだった。切った先はどうしても動かない。ある程度の大きさが必要なのかと、切る大きさを色々変えてみたり、一際大きい人間を選んで半分にしたりしてみても、一向に二つともが動く気配は無い。
発想の転換。
もしかしたら、切る速度が遅いのではと、肉厚で重量のある切断装置を造って切ってみた。が、それでも一向に動く気配は無い。幾多の試行錯誤を重ねて最後に、切るのではなく、離す様にしてみたらどうだろうと、幅の広い重石を使って、台の端にはみ出させた人間に落として、圧力で分ける様にしてみたがそれでも動かない。
発想の転換。
圧力で分けられた人間の中身が飛び出す様を見て、俺は遂に気が付いた。切る場所だとか、分ける方法だとかが問題なのではない。そもそも人間を物理的に分けようとしたのが間違っていた。答えは最初から分かっていたんだ。
俺の発想は一回りして、再び戻った。
そう、鏡だ。やはり鏡こそが、人を創り出す方法だったんだ。失敗したのは鏡の境をどうにかしてこじ開けようとしたからだ。そうではなく鏡を壊す事で飛び出させれば良い。そう、何か質量のあるもので鏡を押しつぶせば、自然と中の俺が外に飛び出てくるはずだった。
自信があった。今度こそ上手くいく。
既に十分に勝算はあったが、それに加えて俺は鏡ではなく、ガラスを使う事にした。
鏡というのは非常に強固に出来ている。強度という意味では無く、中に人を映す能力という意味で。鏡はあんまりにもはっきりとしているから、外と中を完全に隔絶してしまうのだ。
一方、ガラスはそうではない。映っているか映っていないか分からない位の曖昧さ、けれど実際に中に俺が居て、確かに俺の事を見つめている。このあやふやとしていながら、確か実在を持ったガラスこそが、目的に合致した物体だと俺は確信した。
失敗する気がしない。
今度こそ俺は世紀の所業を成し遂げ、人類史を新たな方向へ導く栄誉を預かれるのだ。俺は金属製の板をガラスの横に立てて紐を結び、そうしてガラスの前に立って緊張した面持ちのガラスの中の俺と見つめ合いながら紐を引いた。
ガラスの中の俺、奥の玄関、俺、玄関、その二重写し、俺、と移り変わりながら、その横では段々と金属製の板がガラスに向かって倒れて行き、そうして狭窄する視野の中で必要以上にゆっくりと金属板がガラスに触り、徐々に崩し、鏡の中の俺の頭に触れ、次の瞬間には世界が光の如く動き、板はガラスを完全に押し潰した。
俺は、一瞬眩暈を感じたが、頭がはっきりしだすにつれて、実験の成果、もう一人の俺が立っている事をはっきりと認めた。俺は夕暮れがかった窓からの逆光でその姿を黒く染めていたが、それでも俺にはそれが俺だと分かった。
これがもう一人の俺。
今の俺の気持ちを何と説明すればいいのか。疲労感というのが、一番端的で合致している気がする。気が抜けていて、心に締まりがない。思考を展開する事が出来ず、ただぼーっと目の前の俺を眺めている。
目の前の俺も同じな様で、二人でしばらく何も出来ずに見つめ合っていた。
「なあ」
どちらが先に言ったのか分からないが、どちらかの俺がもう一人の俺に声を掛けた。
「あ、ああ」
それにどちらかの俺が反応した。そこでまた声が途切れた。
何か現実感の無い、浮かび上がる様にふわふわとした心地がしている。
これは奇跡の大実験に成功した高揚の所為なのだろうか。
「なあ、俺」
目の前の俺が遠慮がちに言った。
俺の考えている事は分かっている。俺自身なのだから。俺が考えている事も向こうの俺には分かっているのだろう。それなら会話する必要があるのだろうか。そんな事を考えて俺は悩んでみたが、それすらも向こうに筒抜けだと考えると、何だか馬鹿らしくなった。
「分かってるよ。この成功を世界に伝えようって言うんだろ?」
「ああ、それで、分かっていると思うが、とりあえず一人だけでどこぞの教授のところなり、学会なり、テレビ局なりに行って、話を進めるのが混乱が無いと思う」
「良いんじゃないか。同じ事を考えているだろうが、どちらが行くかは言い出した方で良いな?」
「それじゃあ、行ってくる。俺が何処に行こうとお前は分かるのかもしれないが、とりあえずこの家で待っててくれ」
そう言うともう一人の俺は俺とすれ違って、やがて背後から玄関の閉まる音がして、俺は一人になった。
すると急に心細くなった。
ガラスの中から俺を取り出して二人になったと考えているが、もしかしたらガラスという物体に俺という存在が二つに分けられたのではないだろうか。俺が二人になり、俺が人を創りだした事は確実なのだが、もしも分かれたというのであれば、俺は俺という存在の一部が切り落とされたのかもしれない。体の一部を切り離したみたいに。
あまり気分の良い心地では無い。何だか奇跡の余韻も薄れて、早く一つに戻りたい気分にすらなっていた。
どんどんと動悸が高まって、不安な心が増幅していく。
身体を動かしてみようかと、散らばった破片を片付ける事にした。倒れた金属板の上から退いて、金属板を持ち上げてみると、下には粉々になったガラス片がびっしりと積み重なっていた。見回してみれば、辺りにもガラス片が飛び散っていて、歩くにも注意が必要だ。
注意を払ってガラスを避けて歩き掃除機に手を掛けた時に、玄関から短いノックの音が聞こえて、俺の名前を呼ぶ声も付いて来た。もう一人の俺、のはずは無い。鍵を持って出ているだろうし、俺の名前を呼ぶ意味も無い。
やや低く険のある呼び声は警戒するに足る声だった。
強引な新聞の勧誘か何かだろうか。
玄関のドアスコープを覗くと、レンズに拡大された厳めしい男が三人、玄関の前に立っていた。二人は私服だったが、もう一人は警官の制服を着ていた。それに加えて、三人とも険しい顔付きで辺りに気を配っている。
警察が何で俺の所に。全く身に覚えが無い。
警察の様子は俺に対する警戒の色に溢れている。
俺が何をした。
強いてあげるなら、二人に分かれた事だろうか。まさかもう一人の俺が出先で事件でも起こしたか。それにしたって早すぎる。
俺がドアスコープを覗きながら思考を巡らせていると、制服を着た警官がドアスコープを指差した。それに気が付いた二人の男が、警官を押し退けて、再びノックし俺の名前を呼んだ。二人の表情は更に硬く、険しく、俺に対する敵意と恐れが見え隠れしている。
何だか分からないが、危険な状況だ。
俺は玄関から離れると、即座に反対側の窓へと走った。途中、ガラス片を踏んだ感触があったが、頓着なんてしていられない。窓の戸を開けベランダに出ると、後ろから玄関を破壊しようとする音と男の怒声が聞こえた。
何も考えられなくなって、我武者羅に目の前の巨木に飛びつき、足を踏み外して下に落ちた。鈍い衝撃と痛みが全身に走ったが、それだって構っていられない。すぐさま起き上がってベランダを見上げると、まだ玄関を壊そうとする音が聞こえてくる。
逃げなくちゃいけない。
俺は裏手の塀を乗り越え、他人の敷地を踏み荒らしながら、必死で逃げた。道路に出ると人間の姿は一人も見えなかった。警察が辺りを張り込んでいるのではと心配していただけに幸いだ。他の人間に今の傷だらけの身体と服を見られない事も好都合だ。
俺は誰も居ない道路を走りながら何処に行こうかと考えていた。とにかくもう一人の俺と合流する事から始めた方が良い。一人よりも二人で考えた方が良い考えが浮かぶに決まっている。しかしもう一人の俺は何処に行ったのだろう。まさかもう警察に捕まっているのではないだろうか。
「おい」
後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ってみると俺が俺を追っていた。
もう一人の俺は息を荒げて、こちらに迫り、俺が立ち止まると、立ち止まった。
「どうして外に?」
「警察が来たんだ」
「やっぱりか。俺も町中を歩いていたら突然指を指されて警察を呼ばれて」
「お前、食い逃げでもしたんじゃないだろうな」
「そんな訳あるか。誓って、やましい事はしていない。そっちこそどうなんだ」
「する訳無いだろう」
「すると、やはり……」
「多分、俺が二人居る事を不審に思われたんだろうな」
何処からか警察の声がした。こちらに迫っている様だった。
「とにかく逃げよう」
「人が沢山居る所へ」
そう言った時には既に俺達は駆け出していた。
誰も居ない道路ではとにかく目立つ。何処か人の沢山居る所へ、人を隠すなら人の中へ。
二人で誰も居ない道路を走り、曲がり、走り、声が聞こえ、戻り、走り、曲がり、曲がり、走り、ようやく繁華街へと辿り着いた。
そうして人ごみの中へ駆け入ろうとして、俺達は立ち止まった。
「どういう事だ?」
そこには誰も居なかった。休日の繁華街だというのに、何処にも人が見当たらない。警察が俺達を捕まえる為に人を追い払いでもしたのだろうか。もしかしたら店の中や影に警察が張り込んでいて、入った瞬間に俺達を捕まえるかもしれない。
戻ろうとするも、後ろからまた警察の声が聞こえてくる。
「一か八かだ。行こう」
意を決して繁華街の中に飛び込むと、すぐに勘違いに気が付いた。繁華街に人が居ないのではない。繁華街の道路に人が出ていないだけだった。例えば俺が今通り過ぎようとする飲食店の硝子の向こうには、日の光でぼやけているが沢山の人間が居る様だった。それに大勢の人間が居る場所に特有の、脳を揺さぶる様なざわめき声が、しっかりと俺の耳に入って来た。
それを掻き消す様に丁度、正午を知らせるチャイムが鳴った。
成程。どうやら皆、昼食を摂る為に屋内に入っている様だ。
それでも道に人通りが居ない事は不気味だが、犯罪者が逃げている等の通達を受けたのだとすれば、出来るだけ外に出ない様にしている事にも頷ける。初めに見た時には、世界から人が消えた様な不気味さを感じたが、分かってみればなんて事は無い。
俺達二人はほっと安堵しながら、それでも警察の手が迫っている事をひしひしと感じて、その繁華街の中を逃げ回った。誰も居ないのに、声だけはざわめいている繁華街。不気味な気分が減じた今は、ただ走りやすく逃げやすい。
しばらく逃げ回ると、何時の間にか警察の声も聞こえなくなっていた。撒いたのだろうか。安心が全身の疲労を呼び起こして、突然足が重くなり、上がっていた息を自覚して、これ以上走れなくなった。
隣を見れば俺も同じな様で、息を荒げて俺達二人は足を緩めた。
警察の気配は感じない。今は走っていなくても大丈夫なはずだ。息を整えながら歩いていると、身体の疲れだけでなく、お腹が空いている事にも気が付いた。そういえば、人を創る方法を確立した事に興奮して、今日の朝どころか昨日の夜から何も食べていなかった。
もう一人の俺もやはりお腹が空いた様で、お腹に手を当てていた。相手が自分だとこういう時に便利だ。お腹が空いたかどうかの確認どころか、何を食べるのかまで既に二人の内に合意が生まれているのだから。
「あの店で良いよな」
「ああ」
そうして店に近付いて、ガラスの向こうの店の様子を覗いて、俺は思わず仰け反った。
店内に居る人間が全て俺の方を向いていた。
慌ててその場を離れて素知らぬ振りで別の場所に行こうと、ふと別の店を見ると、そこに居る人間達もみんな俺の方を向いていた。驚いて、隣の俺を見ると、俺も驚いた様子で俺を見ていた。そうして二人でしばらくお互いを見つめていて、はっと気が付いた。
同じ顔に人間が二人居るんだから、目立つに決まっている。あるいは警察が犯人の情報として双子の男とでも言い触らしているのかもしれない。繁華街に居る人々は全員が俺達二人の事を犯人だと思って見ているのだ。
こんな所に安住の地などあるはずが無い。きっとすぐにでも通報されて、再び警察の声が聞こえてくる事になる。
隣の俺を見ると、俺もまた理解が及んだ様で、きっと二人とも全く同じ恐怖の表情で、お互いの事を見つめ合い、僅かな理解の色が浮かんだ時には、二人同時に走っていた。逃げる間中、辺りを見回したが、ありとあらゆる店の向こうに俺達の事を見つめる人間が居た。繁華街を抜けて、民家の群れを通り抜ける時にも、ふと家の中を窺えば、人間がこちらの事を見つめていた。何処に逃げても、何処を覗いても、人間が居れば俺達の事を見つめている、例え居なくても話し声が聞こえてくる。
そう、だって人間はそれこそ無数に居るんだから。安心出来る所なんて何処にあるんだ。
俺は人の群れに隠れるという発想を転換して、人間の居ない場所を必死に思い浮かべた。森や山は人間が居ないだろうが、それ以上に生活していく事が難しい。当然、自宅は無理だ。警察が見張っているに違いない。隠れ家なんて一般人の俺が持っている訳が無いし、匿ってくれる様な仲間だって思い付かない。海外に逃げようにも、パスポートや資金が無い。非合法に出国する方法も知らない。
走りながら必死に二人で考えて、ようやく一つ思い当たった。
近くに廃ビルの群れがある。景気が落ち込み、捨て去られた雑居ビルが犇めく一角は、犯罪者や不良によって無法地帯になっているだとか、幽霊が出るだとかの噂があり、夜になれば照明なんてまるで無い暗闇で、昼間ですら全く無人の寂れすぎて気味の悪い一角なので人間が近寄らない。あそこなら人間が寄らず、適度に町にも近いので暮らせない事はない。
とにかく一時的に隠れられれば良いのだ。それこそ一晩あれば、きっと俺達を一つに合わせる方法が思い付くに違いない。一人になれば堂々と、学者、いやそれだと発表者を伏せられて手柄を取られるかもしれない、テレビ局にでも乗り込んで大々的に発表しさえすれば、俺は一躍英雄となり、警察の誤解も解けるに違いない。
そんな事を考えていると、すぐに無人の区域に着いた。そこは繁華街の様な偽りの無人では無く、まさしく誰も居ない人間の絶えた場所だった。そこでは声も何も聞こえない。風の吹く音だけが辺りに渦巻いている。
ビルを覗いても、中に人間の姿は見えない。当然、俺の事を見ている姿等皆無で、俺達は安堵しながら手近な廃ビルに入った。中は風が吹き抜けて寒いし、床は荒れ放題で泥にまみれ、当然照明だって点かないのでまだ昼過ぎだというのに薄暗く、全く快適とは言い辛かったが、贅沢は言っていられない。
「とりあえずガラスがあれば良いんだがな」
辺りを見回したがどの窓も、ガラスは割れているか嵌め込まれていないかで、完全な形の硝子は見当たらなかった。一つ一つの階を見まわっていくが、完全なガラスは中々見つからない。廃れてから既に何年も経つ、吹きさらしのビルなんてこんなものなのだろうか。
だが、無いでは困るのだ。
「おい、あれ」
何階か上った所で、ようやくガラスを見つけた。二人して駆け寄ってみると、今居るビルの窓ではなく、その先にある隣のビルの窓であった。ビルの間は離れているが渡れない事も無い。下に降りて、順当に向かいのビルへ行っても良かったが、今は一刻も早く一つの身体に戻りたかった。
「さっきはお前が行ったんだから、今回は俺が先に行くよ」
そう言って、俺はビルの窓枠に足を掛け、下を見ると風の吹き抜けるビルの谷間は、まるで俺を手招いている様で、足先から寒気が上に昇っていって、窓枠に掛けた足に力を込めて身を乗り出し、向こうの硝子に俺が映っていて汗を流して怯えているのを見て、ガラスの嵌め込まれた窓の隣の、何も無いぽっかりと空いた窓枠へと手を伸ばし、もう少しで届くという所で足を滑らせて落ちかけた。必死で手を振ると鼻を打ち付けたが何とか手が掛かって、
「おい、大丈夫か!」
後ろから聞こえる俺の声に励まされながら、何とかよじ登ってビルの中に入り込んだ。
胸から腹にかけて痛みが走った。ビルの床には細かいガラスが散らばっていて、それで切ってしまった様だ。傷は浅いが痛い。もう朝から散々で体中がぼろぼろになっていた。服はそこいら中に血が滲んでいるし、痛みの感じない場所なんて何処にもない。
涙が出そうだった。惨めったらしかった。折角の誰もが為し得なかった事を成し遂げたというのに、それでもまだ相も変わらずぼろ雑巾の様な自分が情けなかった。けれど希望もある。とにかく一つになって、大々的に発表すればこんな惨めな思いをしなくて済む。
悔しさと希望、それらが綯い交ぜになって、何だか分からない涙が出た。
今はとにかく一つになりたい。
「大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
俺は立ち上がって、窓に向かった。ガラスを調べてみると、細かい傷は付いていたものの、俺の姿をはっきりと映している。大きさは全身を映すには少し小さいが、屈むなり何なりすれば良いだろう、問題は無い。
「十分使えるみたいだ。取り外してそっちに持って行くよ」
「いや、俺がそっちに行くよ。窓から離れててくれ」
「大丈夫か?」
向こうの俺は頷くと、さっきの俺と同じ様に窓枠に足を掛けて、そうしてやっぱり俺と同じ様に足を滑らせて、何とかこちらの窓枠に手を掛けたものの、落ちそうになった。こちらからは窓枠に掛かる指だけが見えている。
「おいおい、同じ轍を踏むな」
俺と同じだろうから自力で上がって来られるのだろうが、助けてあげるに越した事は無い。俺は窓枠に近寄って俺の手を取った。
「悪い」
「引き上げるぞ」
思いっきり足と手に力を込めて、俺を引っ張り上げる。
「ぐっ」
そこで急に胸の傷から痛みが走った。余りの痛みに力が緩み、俺は俺の手を離してしまった。何とか落ちかけた俺の手を取って、今度こそしっかりと掴んだが、もう一人の俺の身体に掛かる重力は、既に引き上げんとする俺の力に勝っていた。
離すまいと手の力だけは緩めなかったが、俺もまたずるずると引っ張られていって、ついに足が床から離れ、途中で窓枠に引っ掛けた手も爪がはじけ飛ぶと共に離れて、痛みに顔を顰めた時には、すでに俺は俺と一緒に落ちていくところだった。
落ちる最中、俺は全く怯えの無い俺と見つめ合っていた。一人になりたいという欲求が恐怖を麻痺させて、緩やかな不安で満たしている。
怖さは無い。ただ一人になりたい。
廃ビルの区画を一人の男が歩いていた。酔っぱらって前後の見境がつかない程の足取りで、自分が何処を歩いているのかも分かっていない様だった。ふと、その男の鼻腔に錆びた鉄の匂いが入り込んだ。が、男は気にせずにその場を立ち去った。
廃ビルと廃ビルの間の暗闇に強い血の匂いが漂っていた。匂いに反して、赤い色やそれを流しているはずの物は見当たらない。
廃ビルの間を雲から現れた月が照らしだした。
割れたガラス片の中に、押し潰れて一つになった男達の身体が映り込んでいた。