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炎天(ホラー)

 暑い日であった。辟易する程暑い日であった。最近ふと意識をすると汗をほとんど掻いていない自分がいる。その所為で自分の内に熱さが閉じこもってしまっている様な気がする。だから近頃こんなに暑いのかと考える。けれどそんな事で自分が年をとった事を実感したくはないので、何かに気を紛らわそうと考えると、周囲には燦々とした暑さがあり、また初めに戻る。己の皮を剥ぎ取ってしまいたい位に暑さというものに辟易していた。

 暑さというのは何か心に迫って来るものがある。追いたてられている様な気がする。叫び声をあげてしまいたい様な心持になる。けれど町中で大声などあげられる訳も無く、その所為で自分の内に叫び声が閉じこもってしまっている様な気がして、どうにも気持ちが悪い。

 気持ちが悪いと思うと体中がむず痒くなる。むず痒くなると叫びたくなる。けれどその叫びは内に籠り、堂々とした悪循環が夏の日の私の体の中で巻き起こっているのである。巻き起こった悪循環が私の頭の動きを鈍らせて、視界をふらつかせているのである。

 ふと気が付くと、暑さが幾らか和らいでいて、よくよく辺りを見回してみた挙句に足元を見ると大きな影が掛かっていた。私の影はその大きな影に包み込まれていた。頭上を見ると豊かに茂った欅が太陽を遮っていた。いつの間にか公園の中に居た。

 暑さが和らいだ事で急に心地良くなり、大きく伸びをすると視線の先にベンチがあり、そこに坐る女性が目に入った。

 まだ成人に達していないであろうその女性は、白と黒のポンチョを着て、頭に小さめの麦わら帽子を被り、膝の上に底の浅い木箱を載せていた。奇妙な格好だと思った。女性は木箱を開けて中を覗いている。木箱の蓋が私に向いている。箱の中に何が入っているのか妙に気になった。

 無遠慮とは思いつつも、出来るだけさり気無さを輻射しつつ、女性の裏に回った。木箱の中をこれまたさり気無く覗くと、中には銀色の指輪や首飾りが入っていた。目を凝らすと値札の様な物も張り付いていた。露天商だなと思った。

 不意に懐かしい記憶が湧いた。遥か昔の事、この公園を含む一帯は焼けた瓦礫の原であり、同時に市場でもあった。市場に来なければ生活する事が出来なかった。普段は妻とその弟が買い出しに出ていたが、その時は珍しく私と妻の二人でここに来た。焼け残った紡績工場から盗み出した品物を食料やら雑貨やらと変えながら歩き回った。市場は薄汚く、泥臭い活気があり、乾燥した絶望と未練と希望とに淀んでいた。丁度今、私が夏の暑さに辟易している様に、この国とそして自分の家族の未来に辟易していた。そんな中で、その露店を見つけた。

 露店のござの上に山積みにされた大根と長芋の間にちょこなんと蝶の形をしたブローチが置かれていた。土くれに塗れたブローチは奇妙に大根と山芋に調和していた。今思い返せばまるで馴染まない光景であるが、その時は馴染んで思えた。その市場全体があらゆる物を入り混じらせた乱雑なごった煮だった所為もある。

 露店に近寄る私の前で丁度取引が行われていた。店主は酒瓶を受け取って、米俵を指差すと、酒瓶を渡した客は米俵を楽々と担いで去っていった。店主は大事そうに酒瓶を一撫ですると、自分の背後に置いた。恐らくその酒は、今では酒と呼べない代物だったであろうに。その当時は目が潰れる事も気にせず酔いつぶれたいと思う人々が居た。

 私が店主に声を掛け、布を差し出してからブローチを指差すと、店主は快活な笑顔で応じてくれた。その時何か話した気がするのだが、覚えていない。多分、大変だ大変だと言い合ったのだと思う。当時はそれが挨拶だった。皆顔を合わせれば、諦めと共に大変だと言った。

 ブローチを買って妻に渡すと、怒られた。何でそんな物を買ったのだと。余裕なんかないと怒られた。まさしくその通りで、怒られている間、私自身どうしてそれを買ったのか分からなかった。買った時には何だか熱に浮かされていた。その時だけは自分が自分で無かったのだ。

 けれどついこの前、妻が頑なに誰にも見せなかった箱の中にそのブローチを見つけた。箱の中には他にも妻が宝物に思っていたであろう物が詰め込まれていて、私の当時の衝動が間違いでなかった事を知った。

 店主が振り返った。当時の快活な笑顔を浮かべていた。やけに歯並びの良い笑みが何とも作り物めいていたが、その人工的な笑みは見ていると安心する不思議な笑みであった。

 笑顔の店主が急に女性に変わる。店主の服装が襤褸切れの様な野良着から上等そうなポンチョに変わる。その笑顔が現在なのだと理解するまでに大分時間を要した。私はいつの間にか想像の焼け野原から現実の公園に立ち返っていた。

「お爺ちゃん、こんにちは」

 店主がやけに明るい声でそう言った。私は未だに意識の半分位がまだ過去に取り残されていて、心の何処かで何で男の店主が女の様な声を出しているのだろうと疑問に思い、その疑問に意識を引っ張られて上手く答えられずに口をもごもごさせた。

「私、修行の為に色んな所を回りながらアクセを売ってるんです。シルバーアクセに興味あるんですか?」

 店主が立ち上がってベンチを回り私の前まで来て、箱の中身を見せてきた。失敗したなと思った。押しに弱いのでこのままでは買わされてしまうかもしれない。どうしたものかと決まり悪く箱の中を見てみると、蝶の形をしたブローチがあった。当然の事ながらかつて妻に送ったブローチとは違う物であったが、懐かしい気持ちが強くなった。再び私の意識が過去に跳んで、思わず頷いていた。

「へえ。若々しいんですね。とっても似合いそうです。体つきも逞しいですし」

 お世辞と分かっていても嬉しくて、恥ずかしく思いつつも得意になった。

「うん、ちょっと前まで空手をやっていたから」

 私の言葉に店主は大げさに驚いて見せた。

「そうなんですか! 凄いですね。どれ位やってらっしゃったんですか?」

「三十年か、四十年かな。趣味程度だけど」

「ずっとやってたんですね。凄いですね!」

 店主が拍手をする。わざとらしいとは思いつつも、私はまたおだてられて得意になった。

 と、突然店主が首を傾げた。

「でも空手をやってるなら、アクセ付けてちゃまずかったりします?」

 空手の時は外せば良いだろうし、既に空手は止めていると思ったけれど、私がそれを指摘すれば、店主は気分を害し馬鹿にされたと思って意地でも商品を買わせようとして来るかもしれない。

「まあ、僕が付ける訳ではなくてね」

 私がその先を続ける前に、店主が遮ってくる。

「あ、じゃあ、お孫さんにプレゼントですか?」

 孫という単語を聞いた途端に気分が落沈した。

 私にとって孫は大切なものであったが、孫にとって私は時たまそこに居れば漫画雑誌を買って来させるだけの小間使いの様な存在でしかなかった。漫画雑誌を買って来てというお願い以外に最近言葉をかけられた覚えがない。いや、その言葉すら遠い過去の事に思える。

 とはいえ腹が立とうとも、孫の心が更に私から離れるであろう事を思うと怒る事が出来ず、何とかして孫の関心を引こうにも孫の考えている事が良く分からず、何を話して良いかも分からず、私自身ただ諾々と小間使いに甘んじていた。今でも孫は大切な存在であるが、同時に憎々しく、奇妙に落ち着いた気持ちで孫と顔を合わせるのが嫌だと考える妙に諦観した自分が居る。

「これなんかどうです? そんなに派手でなくて、可愛いでしょう? 女の子ならきっと気に入ると思いますよ」

 私の孫は男である。

 そう思って、店主の指先を見ると、蝶のブローチだった。再び私の意識が過去に跳ぶ。

「じゃあ、それを頂くかな」

 気が付くとそう言っていた。

「本当ですか? ありがとうございます!」

 店主が頭を下げて、それから嬉しそうに値段を言った。案外安かったので安心した。流石に孫にあげても喜ばれないだろうから、妻にあげようと思った。一体何年ぶりの贈り物だろう。何だか子供の様にわくわくとした弾んだ心地になった。

 ところが、懐に手を入れてみると、いつも入れている財布が無かった。ズボンのポケットにも無かった。何処を探してもお金の姿は見つからなかった。小汚いぐちゃぐちゃになった小さな花が一輪だけ何故だかポケットに入っていた。それを掌に載せてみたが、まさか回想の中の市場よろしく物々交換で支払う訳にも行かない。

 私が滑稽に焦っていると、店主が気の毒そうに尋ねてきた。

「もしかしてお金ありません?」

 私は恥ずかしさでこんがらがった頭で必死に場を取り繕う言い訳を考え、結局思いつかずに頭を下げた。

「申し訳ない」

 店主が胸の前で何度か手を横に振った。

「いえいえ、良いんです! しばらくしたらまたこの町に来るので、その時に会ったら買ってください!」

 私の心がまた沈んだ。

「そう出来れば良いのだけどね」

 店主が心配そうに尋ねてくる。

「どうかなさったんですか?」

「うん、まあ体が悪いとかじゃないんだが、僕の息子夫婦は僕と妻を老人ホームに入れたいらしくてね」

 特に息子の嫁が私達の事をしきりに施設に入れたがっていた。入った方が良いんじゃないかと常日頃から催促してくる。幾ら否定しても粘り強く勧めてくる。最近では、ここが入居する施設だと言ってパンフレットを見せて来る事すらある。手続きの用紙を書いておいたと言って、後は名前を書くだけの状態で用紙を私の前に差し出してきた事もある。流石にその時には怒った。すると嫁は酷く驚いた妙な顔をして私の顔をまじまじと見てきた。息子が間に入ってとりなしてくれなかったら激昂するところだった。

 息子夫婦からすれば、家に老人が居ては酷く邪魔なのだろう。だからと言って無理矢理追い出させようとするのは腹に据えかねた。私も妻もまだ十分に動けるし、耄碌だってしていない。姥捨て山に捨てられるにはまだ早い。せめてどちらか片一方だけになって、加えて介護が無ければ生きられないという状態までは、家の中に居させて欲しい。

「だから自由にこの公園にも来られなくなってしまうかもしれないんだよ」

 私が思考から立ち返って、目の前を見ると、店主が消えていた。辺りを見回しても姿は無い。もしかしたら話に飽いて帰ってしまったのかもしれない。それはそうだろう。誰も老人の愚痴なんて聞きたくない。

 しょげ返って足元を見ると、光が瞬いた。何かが落ちていた。拾い上げてみると、さっき私が買おうとして買えなかった蝶の形のブローチだった。もう一度辺りを見回してみても店主の姿は無い。

 偶然に落としていったのか。そうは思えない。もしかしたら憐れんでそっと置いていったのかもしれない。そんなに物欲しそうな顔をしていたのか。愚痴も同情を寄せる為のものだと思われたのかもしれない。恥ずかしかった。

 どうしようかしばらく考えたが、このまま落としておく訳にもいかないだろうと思った。万が一再び会えたらその時返そうと、いや、その時払おうと思った。これは後払いで買ったのだと思う事にした。

 ブローチをポケットの中に入れると、手がやけに痛んだ。意識してみると、手が妙に痛かった。指の付け根が擦り切れていた。服がやけに汚れていた。転んだ様に汚れていた。もしかしたら炎天下が体をおかしくしているのかもしれないと思い、家に帰る事にした。妙に暑くて、また辟易した。

 気が付くと、家の前に居た。更に体の各所が痛くなっていた。汚れも増えていた。本格的に危ない。体にがたが来ているのかもしれない。もしかしたら嫁の言う様に施設に入った方が良いのかもしれないと思った。いや入った方が良いのだろう。足の痛みによろめいた瞬間、私ははっきりとそう思った。

 玄関を開けると、丁度外出するところだったらしい孫が立っていた。何処で怪我をしたのか、顔に青痣がくっきりと付いている。孫は私を見ると、唐突に慌てた様な悲しむ様な恐れる様な、奇妙な表情をして、私に背を向けて、二階に上がってしまった。どたどたとやけに足音が響いた。

 その足音を注意する声が聞こえ、声の後に嫁が現れた。嫁は私に気が付くと駆け寄って来た。

「あらお義父さん、何処に行ってらしたんですか? もう、ちゃんと言っておいたでしょう?」

「散歩に。暑くて仕方が無いから帰って来た」

 嫁の視線が急に下に落ちた。

「その手に持ってらっしゃるのは何ですか?」

 私が自分の手を見ると、いつの間にか蝶のブローチを摘まんで持っていた。

「ああ、これはさっき公園で買ったんだ」

「でもお財布居間に忘れてらしたでしょう?」

「うん」

 何と言って良いか分からず、私は頷いただけでその先は言わなかった。お金を払わずに貰ってきた等と言っては、浅ましい真似をするなと叱られる気がした。

 嫁は尚も訝しんで、私が摘まむブローチを眺めていたが、家の奥から薬缶の鳴る音がして、慌てて駆け出した。

 その背に向けて、私は、少し躊躇したが、努めて明るく言った。

「そうだ、老人ホームの事なんだけれどね」

「え?」

 嫁が驚いた様子で振り返る。その顔が次の私の言葉を聞いた瞬間、晴れやかに変わるかもしれないと思うと少し怖かった。

「考えたんだけれど、やっぱり入る事にしたよ」

 途端に嫁の表情が変化した。

 ただそれは喜びではなかった。

 まして残念そうな顔でも無かった。

 何だか眉根を寄せて、奇妙な表情だった。私の言葉が噛み切れず必死で飲み下そうとしている様な顔だった。

「そう、なんですか。はあ、あの」

 いつもハキハキしている嫁の歯切れが妙に悪い。どうしてなのか分からない。何かおかしかった。納得いかなかった。だが、とにかく言おうとしていた事は言ってしまおうと思った。

「それと家内は僕が説得するよ。きっと最初は嫌だと言うだろうけれど、僕も一緒に行くからと言えばきっと大丈夫だろう」

 幾分楽観的な予想ではあるけれど、きっと分かってくれるだろう。そう確信していた。私が手に摘まんだ蝶のブローチを掲げて、それに記憶の中で妻に渡した蝶のブローチを重ねた。これもまた妻の宝物になるだろうか。六十年の時が経った今でも、蝶のブローチを喜んでくれるだろうか。喜んでくれるに違いない。ずっと二人で歩んできたのだ。世界でたった一人の私と世界でたった一人の妻。時代が変わったとしても二人の繋がりは揺るがない。場所もまた同じ。家であろうと施設であろうと、二人が一緒に居る事には変わりない。そう考えると、別に老人ホームに入る事などどうという事もない様な気がした。妻もまた同じ事を思ってくれるだろう。

 私がブローチから視線を外すと、廊下でまだ嫁が立っていた。何だか表情を強張らせ、固まった状態でこちらを見つめ、立ち尽くしていた。

 ふと気が付いた。あれは嫁の喜びの発露なのだと。内から溢れる喜びを悟られまいと我慢した結果、おかしな表情になってしまったのだろう。とても寂しい気が付きだったが、子供と孫が幸せであるならそれで良い様に思った。

 嫁はまだ固まっている。家の奥から薬缶の音が鳴り響いている。

「薬缶を止めたらどうだい?」

 私が声を掛けると、嫁はびくりとして、何度か頷いて、奥へ消えた。それじゃあ、こちらも妻を説得しようと靴を脱ぎ始めた。

 気が付くと、薬缶の音は消えていて、靴も脱ぎ終わっていた。私は家に帰るとまず居間へ向かう。いつもの日課であった。襖を開けて居間を渡って更に奥の襖を開けると、畳敷きの八畳間の奥に仏壇がある。目の前に立って焼香する。妻の写真が飾られている。ふと妻に渡そうとしていた物があったと思い出した。行きがけに摘んだ妻が好きだった花。ぞんざいにポケットの中に入れたので潰れてしまった花を、きっと妻なら気にせず喜んでくれるだろうと自分に言い聞かせて、霊前に添えた。

 気が付くと、背後に気配を感じた。振り返ると、スーツを着た強面の男が二人立っていた。その後ろで嫁が怯えた様子をしていた。

 ああ、介護施設の職員が来たのだなと感づいた。立ち上がろうとすると、足元に何かが落ちた。誰のものだか分からない蝶の装飾品が落ちていた。

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