鈴男(ホラー?)
ドアノブを女が掴みゆっくり捻る。
お帰りと女が漏らす。ただいまと自分で返す。今日もまた人と話さず一日終える。マンションの冷えた一室、点けた灯りは陰りがち。饐えた臭いが辺りから。静寂が、孤独が部屋で待っている。女は笑い、袋を置いて靴を脱ぐ。お隣は寝ている様だ。騒音じみた音楽も壁で歪んでふやけた声も全くもって聞こえない。慣れてしまえばそんな音でも寂々として沈む心を慰むのだが。
袋を持って廊下を歩き、女はドアを静かに開けて、薄らと射す月明かり、仄白い光の影は重く冷たい、慣れた動作でスイッチに触れ、光あれ、そう念じると小さな居間が光で満ちる。
冷え切っている。人間も物質も。温かみとはまるで無縁の孤独な居間を女は睨み、煩わしげに袋を放りカーテンを開け放つ。
ベランダの下を覗けば人が営む夜の灯りが広がっているはずだった。孤独な日々のほんの僅かな幸せが窓の外に広がっているはずだった。
けれどもそこに男ののっぺりとした顔があった。手摺に顎を乗せて、首の下は壁に隠れ、ベランダの向こう、まるで宙に浮いている様に、男の無表情が部屋の中を覗いていた。
男が頭を傾げた。かと思うと頭が直立して、今度は反対へと頭を傾げた。また直立、反対、直立、その反対。男の頭がメトロノームの様に、右、左と揺れ動いている。男の頭は木製だと女は思った。中には軽くて良い響きを発する小石が入っている。そう思った。
男の頭の振れるスピードが速くなった。子供が嬉しさのあまり壊さんばかりにベルを振る様に。男の頭は輪郭すら分からない位、激しく早く動いている。
揺れに揺れる頭を見て、これは風鈴だ、そんな風に女は自分の見立てを訂正した。だが今は冬だ。風鈴では時期が違う。それにこれは男の頭、飾っておくにはあまりに不気味だ。
そこで女はようやく気付く。我に返ると言うべきか。目の前にあるその顔が、如何に不気味で不自然か。何故そこに男の顔があるのだろうか。七階のベランダの更に奥から、男の顔がこちらを覗く。
一つ気付けば早いもので、その異常性、その奇怪さ、恐怖はすぐに上り詰め、女は窓を一気に閉めて、カーテンで遮断して、外に出ようと踵を返す。
小走りに居間を抜け廊下を走り、玄関の戸を開けようとして手が止まる。足も止まって考える。何処へ逃げるというのだろうか。逃げ場なんかがあるのだろうか。頼れる人は何処にもいない。ずっと孤独に生きてきた。それで何処へと逃げるのだ。漫喫かビジネスホテル? 見知らぬ場所で一夜を過ごす? 男の顔は追いかけてくるだろう。のっぺりとした男の頭、感情なんて浮かんでいない死人の様な白い顔。得体の知れぬ化け物だ。窓を開けたらそれが居た。七階の空に立ち、昨日まで無かったその顔が、今日になったら覗いてた。男の顔は唐突に前触れもなく現れる。だとすれば逃げたとしてもそこにはきっと男の顔があるはずだ。
それならば知らない場所に逃げるより、勝手知ったるこの場所で震えた方がまだマシだ。
バッグ片手に部屋へと戻る。抜き足差して一歩二歩、力を込めてバッグを握り、扉をそっと押し開けて中の様子を窺った。異常なし。女はそっと滑り込み恐ろしそうに窓を見た。カーテンに隠れた窓は見えないが、その向こうには男が居ると知った今、気味が悪くて仕方が無い。
出来るだけ窓を見ぬ様、視線を逸らし、逸れた視線を釘打つ為にテレビを点けた。洋画が映る。嘆く男がお墓の前で誰かに向けて謝っていた。前にも一度見た事のある場面であった。ここまでの流れはまるで覚えていない。けどここはとても悲しい場面のはずだ。そのはずなのにともすれば滑稽な程、とても奇妙な儀式に見えた。せかせかと上げては下げる不思議な踊り。まるでメトロノームの様に?
男は顔をゆっくりと上げ決意に満ちた表情で何処かへ向けて歩き出す。ゆっくりと、突然急に、狂った様な緩急を付けながら。こせこせと場面が動く。人が現れ消えて行く。男は歩く。何処かへ向けて。男はまるで気付かない。先で待つ運命に。運命が糸を絡めて待っている。後一時間、それと十分、最後の最後死に至る。理由も何もまるで無く、これが映画でここが最後と急に言われて殺される。男はまるで気付いていない。男は歩く。何処かへ向けて。
男が死んだ。女は腕を大きく挙げて背伸びをしつつ壁の時計に視線をやった。もう十一時、そろそろ寝よう。ベランダに居る男の事はもうまるで覚えていない。コップの端に蜘蛛が這う。いそいそとベッドに入り、明日の孤独を嫌がりなら、ゆっくりと明日へ寝入る。
女は目覚め、気持ちよく伸びをして、朝の光を取り込む為にカーテンを引き開けた。
けれどもそこに男ののっぺりとした顔があった。男が頭を震わす。
女はしばし固まってから、驚いてカーテンを閉め切った。外の男をすっかり忘れ眠ってしまう、そんな自分が理解出来ない。だがそれも二の次だ。起きた時間が遅すぎた。今は何より遅刻が怖い。女はすぐに支度をして、男など捨て置いて玄関を飛び出した。
時は流れてその夜に、暗い夜道をようやく抜けて女はやっと自室へ着いた。女がドアを開け放つ。お帰りと女が漏らす。ただいまと自分で返す。足音を忍ばせて女は居間に辿り着く。居るだろうなと女は思う。きっと男はベランダでじっとしているだろう。嫌な気分が湧きだすが、怖さはまるで感じない。慣れかというとそうでない。感じるはずの恐怖心をまるで誰かに消された様な、奇妙な心地。
待てば待つほど嫌な気分が膨らむ様なそんな気になったので、女はすぐに覚悟を決めてカーテンを開き放った。
男は変わらずこちらを見ていた。冷たい顔して女を見ていた。そうしてまた男は頭を震わす。
鈴だと女はまた見立てを変更した。鈴男だ。
女は昔を思い出した。小さい頃、ランドセルに鈴を付けていた。思い入れは全く無い。付ける様な理由も全く無かった。気が付いたらそこにあって、外す必要も無かったから外そうともせず、何と無しに飾っていた。
途端にその頃の事が思い出され、何だか嬉しい気持ちがした。小さな頃には気兼ねせず誰かと遊びあって、毎日苦も無く暮らしていた。あの頃から月日が経ち、自分は今逃げ場のない孤独に晒され、昔の自分にこの自分を見せたのなら一体どんな事を思うだろう。何だか悲しい気持ちがした。
ランドセルの鈴は何処へ消えたか知らない。いつの間にか居なくなった。ちぎれた様子も無かったのにいつのまにか消え、今迄忘れていた。
鈴男が震えている。見た目は全く違うけれど、何だかやっと鈴が戻った気がした。
女が鈴男へ語りかける。その日あった他愛の無い話題を。鈴男は無頓着に鈴を演じ震えている。女の語りかけはしばらく続いた。冷たい夜空を背景に女は部屋に背を向けて、鈴男へ話していた。
朝になって、誰も居ない電気だけが灯った部屋の中のその静けを破る様に、ふいに窓が滑り動く。ベランダから疲れた顔した女が入ってくる。それを鈴男が見つめている。女は慌ただしく準備をして急いで外へと走っていく。居間を出、廊下の向こうへ、遠くの玄関扉を開け放って、女の姿は消えていった。女の居なくなった部屋の中を鈴男が見つめていた。
辺りが暗くなって、疲れた顔した女が帰ってくる。足取りだけやけに強い。女は力強く居間へとやって来ると脇目も振らずにベランダへと向かった。女はベランダへと出て、鈴男に話しかけている。部屋の中は電灯のみ、人の温もりは見当たらない。生活の跡は見えなかった。
明るくなって、人知れぬ居間の中、温もりはまるで無い。カーテンが風になびいて、時折見える窓の向こうに、人影は無い。日に焼けた床上にカーテンの隙間から朝日が照って薄闇を取り払う。明るくなった居間の中には人っ子一人見当たらず、日差しが強くなる毎に、居間はまた明るくなって、やはり無人のその中は静かで何も聞こえない。
ベランダに出て下界を見ると、子供の姿、家へと帰るところの様だ。さよならの挨拶をしている様だ。ドボルザークが鳴っている。何処からかラジオの音が聞こえてくる。何と言ったか分からない。乱雑なノイズが掛かり明らかでない。サイレンがうるさくて闇の中赤い灯が点き消えている。何やら外が騒がしい。朝もやが薄らと霞ませるその向こう、霊柩車、その後ろ、大勢の人々が太鼓を叩きのし歩く。
明るくなって、人知れぬ居間の中、温もりはまるで無い。薄暗い部屋の中、埃の層が敷き積もる。時計は朽ちて金は錆び、人の時間は消え去った。カーテンの無い裸ん坊の窓からは、薄らと青い、雲一つないくすんだ空が見えている。
机の上にコップが一つ、埃の溜まるその中に、蜘蛛が一匹糸を編む。
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。