僕は ○している 君を その為に 探している 君を(恋愛)
あれは小学生の時だった。林間学校で山間の旅館に泊まっていた。
時刻はとうに消灯時刻を過ぎていたが、勿論眠っている者は誰も居ない。四人部屋をあてがわれた六人と別の部屋から遊びに来た三人は、全国各地でそうしている様に、恋の話に盛り上がっていた。小学生であったし、恋はとても拙く、さあ誰が好きなんだ、言え、白状しろといった具合で、それでも意外な名前が出たりすると大いに盛り上がり、一人がもう付き合っているという旨を話した時には、先生がやって来るかもしれない事も忘れてはしゃぎ合った。
一人また一人と標的が変わっていく中、僕は内心怯えていた。というのも僕には好きな人が居なかった。異性の知り合いどころか異性と話をする事も出来ず、恋に落ちる程相手の事を知る機会は無かったし、遠目の外見はどれもこれも十把一絡げに同じ顔と思えて、言ってしまえば僕は恋をするにはあまりにも幼かった。
少なくとも暗い四人部屋の中においては好きな人がいないという事はとても恥ずかしい事で、僕は自分の番が来る事に怯えながら他人の話を笑っていた。
空き家で寝ている内に、僕はふとそんな昔の事を夢見た。
僕が奥に向かって誰か居ませんかと尋ねると、静寂が森閑と答えた。何て言っているのかは分からない。誰も居ませんよと言っている気がする。
空き家の中に人の気配が無い事を確認して、僕はそっと戸を閉めた。戸を閉めた瞬間、扉の向こうに沢山の人の気配を感じる。思わず閉めたばかりの戸を思いっきり開けようとしてじっと我慢する。きっと誰も居ない。僕はそう信じて、その場を離れた。
門を抜けると、急に蝉の声がうるさくなって、顔に熱気を感じた。道路の左右を見渡しても、人の往来は無い。強い日差しが濃い影を作っている。暑さを孕んだ風が突然に吹き抜けた。
僕は自転車で何処かへと向かう。目的の場所は決めていない。ただ一つ目的の物を見つける為に進む。汗を拭って自転車を漕いで、僕はこの先に海があると思った。潮の匂いが流れてくる。
僕は君を愛している。
今何をしているだろう。今何処に居るだろう。そんな風に君の事を考えるだけで、僕は楽しくなる。嬉しくなる。
角を曲がると海があった。やっぱり僕は正しかった。海はあったのだ。
自転車を捨てて砂浜へ。埋もれる足に熱が伝わってきて気持ちが良い。砂浜を駆け抜けて、海の前へ。水を含んだ砂が冷たくて気持ちが良い。
砂浜を蹴り上げて、砂を海に放った。君とこの海に来た事がある。
この砂浜で、あれは夏の、いや冬だ、あれは冬、寒い冬の日に、僕と君はこの海岸を歩いて、君は……君は突然屈みこんで、何だか寂しそうに砂を掬って「砂は海に攫われていくのにどうして無くならないんだろう」なんて呟くから、僕は、僕はどう答えて良いのか分からなくて、真面目に答えてもきっと君を傷つけるだけで、かといって咄嗟に機転の利く答えなんて返せる訳も無いから、しばらく黙り込んで、そうすると君は寂しそうな表情を僕に向けて、まるで答えを急かす様なその表情に、僕は焦ってこう喋る。
「昨日の内に運び込んだんだ。砂浜が無くならない様に」
中々良い答えだと僕は一人舞い上がるのだけれど、君は立ち上がって、呆れる表情で僕を見つめてから、背中を向けて思いっきり砂を蹴り上げて海へと放つ。
何だか怒っているみたい。恐る恐る近寄ってみると君は突然振り返って満面の笑みを浮かべてこう言う。
「馬鹿馬鹿しいけど、ありがとう」
僕はちょっと戸惑ってから笑みを返す。
僕はそんな光景に浸りながら砂浜を歩いた。しばらく歩くと砂浜に瓶が流れ着いているのが見えた。駆け寄ってみると、何も入っていない空き瓶で、強いて言うなら海水と砂が入っている。当然蓋はされていない。
ただの空き瓶だろうか。もしかしたら誰かのボトルメールだったのかも。蓋が取れて、中の手紙が流れ出てしまう事は良くある事だ。この瓶もそんなボトルメールの一つなんじゃないかと思う。
瓶から流れ出た手紙は誰にも届かずに海に溶かされてしまう。それがボトルメールにふさわしい終わりだと僕は思う。ボトルメールは誰かに受け取ってもらっちゃいけないんだ。別に詩的な意味では無くて。ボトルメールが万が一誰かに拾われて、もしも相手がこちらに普通以上の興味を示したとしたら、きっと多くの場合面倒になる。相手が良心的だとは限らない。相手がこちらの望む理想とかけ離れているかもしれない。だからボトルメールは流す前と流した後の想像を楽しむのが良い。だから拾われちゃいけない。誰にも拾われずに朽ち果てて、こちらはそんな事を知らずに空想に耽るのが良い。
でももしもこちらの抱く理想の相手が拾ってくれるなら。その可能性を信じるならば流す価値があるのだろうか。その為に流すのが正しいのだろうか。結局同じだ。理想の相手なんて居る訳が無いんだから。僕達がボトルメールにどんな意志を託そうとそれが実る事は無い。世界はそんな風に出来ている。SOSを送ったって、救助が来るのは白骨死体になってからだ。
僕は君からの受け売りを謳いながら砂の詰まった空き瓶に貝殻を入れて大きく放り投げた。
「ボトルメールは誰にも届かない」
あの時の君はそんな事を言いながら瓶に手紙を詰める。真剣な表情に僕は寄り付けない。直前に、ボトルメールなんていう古めかしくて時代錯誤な行為を笑う僕は、君が物凄い剣幕でまくしたてる、その行為に込める願いを知ってから、何も言えずにその様子を眺めている。
君は手紙が瓶から自然と流れ出る様に蓋を緩めにはめて、瓶を海へ流す。
「妹に届くかな?」
流れる瓶の行方を追わずに、君は僕に振り返って、悲しそうな顔をしてそんな事を言う。さっき誰にも届かないって言うばかり。勿論僕はそれを指摘するなんていう無情な事はしない。僕はそのまま黙って君が吹っ切れるまで見つめているつもりなのに、君がどんどんと悲しげな顔になっていくからこう諭す。
「もう届いているよ」
君は一度海へ振り向いてから、迷いを断つ様に海から顔を背けると、どんな感情を示していいか分からない時に良くする不機嫌そうな表情で僕の事を一睨みして、
「まだ流したばっかりなのに、届く訳ないでしょ」
さっさと砂浜から離れていこうとする。
「きっと届いている」
君が悲しんでいるばかりでない事が分かって、僕は少しだけ安心してその後に続く。
けれど直後に君が顔を見せずにこう呟く。
「私も一緒に流れればみんなに会えたかな」
僕はそれを否定しようとするけれど、否定すればさっきの手紙が届かなくなってしまうから困ってしまう。何も言えずに間抜けに口を開いて君の背を見つめる。
「ねえ、良いと思わない? 冷たい水の中をゆっくりと流れて」
君はまだそんな事を言う。僕は絶え切れなくなって少し強い調子でこんな事を言う。
「流させない。水に落ちる前に俺が掬い上げる」
そう言うと君は黙ってしまって、僕は不快にさせてしまうかなと心配になる。砂の踏みしむ音と風の斬る音、波の音。全部が全部硬質で、その所為か何だか急に寒くなって、良く考えれば君は薄着だし、ここは僕の上着を貸すべきか思案していると、
「ありがと」
やっぱりこちらに顔を向けずに君はそれだけ言って、歩調を早めて行ってしまう。僕は取り残されない様に追い縋りながら、君の抑揚のない感謝の言葉に、何だか不吉な気持ちになる。
不吉な気持ちになったんだ。けれど今になっても僕は何も出来なくて、いつまでたっても君を想像する事しか出来なくて、本当の君を知る事なんて出来なくて。もしかしたら一生知る事が出来ないんじゃないかと最近良く思う。思う度に僕は少し怖くなる。
見れば僕の放り投げた瓶は海に沈まずに波間を漂っていた。次第に沖へと流されていく。けれど沈む気配は無い。あのまま行けば本当に誰かに届くかもしれない。ふと、もしかしたらあの瓶は君が流したものかもしれないと思った。君の手紙だけが何処かへと届いて、瓶だけが返ってきたのかもしれない。そうして今度は僕がその瓶にメッセージを詰めて海に流した。いずれ君が受け取るだろう。さっき僕はボトルメールは届かない方が良いと思ったけれど、それが確実に理想の相手へと届くのであればその限りではない。だからあの瓶は届いて欲しい。いや、届く。君の元へと必ず届く。世界はそういう風に出来ている。
砂浜は海に沿って長く続いている。遠くの果てまで同じ色、代わり映えが無い。何も無いし、誰も居ない。勿論君の姿も見えない。この砂浜へと来た時にもしかしたら君が居てくれるんじゃないかという淡い期待があったけれど、それはやっぱり叶わなかった。それは少し残念だったけれど、あのボトルメールが君へと届く事を思うと少し嬉しい。相反する二つの心地に楽しくなった。楽しい気持ちで砂浜を後にする。半分砂に埋まった自転車も気にならない。引きずり出して、また別の場所へと向かう。
砂に汚れた手を洗おうと僕は水道を探した。自転車で走っていると潮の匂いはどんどんと遠ざかっていく。潮の匂いが薄れる毎に蝉の声が大きくなる。夏の暑さも強くなる。夏なんだなと思った。何となく嬉しい様な、寂しい様な。はしゃぎたくなる様な、時間を止めたくなる様な。先の事を考えたくはない。かと言って昔に拘泥したくも無い。僕はただ君の事を思って死んでいきたい。
公園があった。水道もあるだろう。住宅地の一角に備わった小さな公園は誰も居ない。元よりこの打ち捨てられた町に人は住んでいないのだけれど。何だか物寂しい。誰も居ない公園は何だか違和感がある。単に侘しいだけじゃない。さっきまで本当は沢山の人が居たのに、僕が来ると分かって何処かへと逃げていった気がする。まだ人の温もりが残っている様なのに──こんなにも温かいのに誰も居ない。それが不気味だ。もしかしたらまだその辺りに隠れているのかもしれない。そう思うとそんな気がする。呼び掛ければ答えてくれる気がする。
「誰か居ますか?」
答えは無い。誰も居ないのだろうか。でももしかしたら返事をしてくれないだけかもしれない。辺りの茂みに隠れているのかもしれない。探したい。だがもしも本当に隠れていて、呼び掛けに応えてくれなかったのだとすれば、きっと会いたくないに違いない。それなのにわざわざ見つけ出して顔を突き合わせるのは、何だか悪い気がした。
僕は人と出会うのを諦めて大人しく水道で手を洗った。冷たい水が僕の手に掛かり、弾かれて散り散りになって排水溝へと落ちて行く。水は透明だ。日差しが強い所為かいつもより透明に見えた。冬の空気みたいだと思った。そういえば高校生の時、君とこの公園に来た。
あの時の君はおでこにシールを貼っている。久しぶりのデートだと言うのに。デフォルメされる豚のシールと一緒に君は感情の籠っていない眼で僕を見つめている。もうすぐ冬が訪れる、そんな憂鬱な季節。君は寒さに文句を垂れながら、豚と一緒に僕の事を見つめている。豚のシールは一日ずっと張りっぱなしで、それで遠慮なく店に入るので、恥ずかしくてしょうがない。けれどそれを指摘しても良いものか、彼氏とは何処まで許されるものなのかと悩んでいる内に、結局機会を逃してしてしまう。だから君はずっとおでこに豚のシールを貼るまま、無表情で寒さに文句を言っている。
ショックで情動が抜け落ちるというのは良く聞く話で、君の表情が欠落しているのもその所為だと思う。だが豚のシールが何なのか良く分からない。自分の事を傷つける延長なのだろうか。だとすれば、自分の手首を切るよりも余程良い。君が僕を見る度に、豚が可愛らしく怒ってくるのは気になるけれど。
君は寒さの事を愚痴り、僕がそれに相槌を打つ。さっきからずっと同じ話題。
「あのさ」
君が突然大きな声を出す。同じ話題の繰り返しに慣れきっている僕は驚いて君を見る。君は何やら決意する様子。豚も怒って僕を見ている。
遂に来るかと僕は身構える。君に起こる事は色々と聞いている。君が今どんな気持ちでいるかも何となく想像出来ている。だから後は君の口から聞きたい。僕はどうすれば良いのか。僕にどうして欲しいのか。僕は君と何処までも歩む決意ととうの昔にしているし、君がどんな境遇に落ちようと君を見捨てる事なんて絶対にしない。今回の事だって、どうすれば良いのか僕には分からないけれど、僕は君の事を精一杯助けるつもりだ。だから寄りかかって来て欲しい。支えてみせるから。
そんな風に胸を滾らせていると、逡巡している君はようやっと口を開く。
「私、大学行くの止めようかなと思って」
予想だにしない言葉に僕は衝撃を受ける。
「ほら、そりゃあ、生きていけるとは言ってもね、甘えてなんて居られないし。これから何があるか分からないし。将来不安だし。だから妹が大学に行ってちゃんとした人生を送れる様に、私が支えてあげられたらなって思って」
瞬間、僕は物凄く恥ずかしくなる。僕は君の事だけを考えている。君と一緒に居る夢だけを見続けている。だからその他の、君の生活だとか、君の家族だとか、そんな君にとっての大切な事を何ひとつとして考えていない。それに気が付いて、僕は恥ずかしくなる。顔を合わせられなくなる。
「でも、絵の勉強したいって言ってただろ」
僕は辛うじてそれだけ言う。そう、君には夢があるはずだ。それを嬉しそうに話しているはずだ。そうしてその隣で僕が微笑んでいるはずなんだ。
「まあ、そりゃね。画家になりたいのは山々だけど。でも絵なんて仕事しながらだって描ける訳だし」
「良い環境で勉強しなくちゃいけないって言ってたのはお前だろ。画家になるにはそれが一番だって、忙しそうに試験の準備してたのに、それを諦めちまうのかよ」
自分勝手な言い分なのは分かっている。結局決めるのは君で、彼氏とはいえ僕が口を出していい重さの話じゃない。それでも僕は止まらない。僕は君に画家になって欲しいから。画家になるのは君の夢で、その夢を叶える事が君にとっての幸せで、そうしてその先にしか僕と君の温かな生活は存在しない気がするから。
「嫌な話になるけどさ、遺産は沢山あるんだろ? だったらすぐに働く必要なんてないじゃん。絵の勉強しろよ。しないときっと後悔する」
「勝手な事言わないで!」
君が怒鳴る。予想しているので僕は驚かない。
「そりゃあ、行きたいよ! 行きたいさ! でもね、これから私は本当に独り立ちしなくちゃいけないんだから。妹を守って生きて行かなくちゃいけないんだから。それなのに自分の勝手で画家なんて。成功するか分からないし、するとしてもずっと先だし。そんな夢見ていられない。いつどうなるか分からないんだから。今すぐにでも私は一人で生きていける様にならなくちゃいけないの。分かるでしょ?」
何だか今日の君はいつもの元気で前向きな君とはまるで違っていて、かといって単に悲しんでいる訳でも無い。ああ、これが大事な人を失うって事なのかな。だとしたら君は君の両親の事をやっぱり……。
そんなどうでも良い事を考えるのはほんの一瞬で、僕は直ぐに正気に戻る。
「分かるよ」
そうはっきりと言う。
「分かるって何が?」
「だからお前が言ってる事。すぐにでも独り立ちしたいって事」
「分かるなら──」
「それでも大学行けよ」
「なんで」
何でと言われても、僕は合理的な理由を示す事が出来ない。でも何となく分かっている。君がもし絵の道を諦るならきっと不幸になる。
「絶対後悔するから」
君は苛立たしげに頭を掻いて、落ち着かなげに足を踏み締める。
「あー、もうだから、何で分かんないのかなぁ、そういう事言っていられる状況じゃないの! それとも何、あんたが養ってくれるの?」
「それも良い」
「良いってあんた、バイトもして無い癖に」
「大学行かないで働く」
「……あんただって大学行ってやりたい事があるって張り切ってて」
君は悩ましそうに顔を歪めて僕へと近寄ってくる。掴みかかる様な勢いに、僕は身を引くけれど、君は特に何もせず心配そうな顔で僕の前に立つ。
「俺は良いんだ」
「良い訳無いでしょ」
「お前が夢を諦めるよりはずっと良い」
「良くなーい!」
「良い。俺が大学を諦めて働く」
「駄目! 私が諦める」
「嫌だ! お前が諦める事を諦めろ!」
「ホワッツ? プリーズリーズン!」
「何で英語なんだよ」
「ユーヴガットメール!」
「意味わかんねーよ」
何だかいつものノリになって気が楽になる。というより、脱力して何だかどうでも良くなる。
「とにかく、私は私の所為であんたが夢を諦めるなんて嫌だからね」
「だったら俺も同じだ。お前が諦めるのは嫌だ」
「私が諦めるのはあんたの所為じゃないでしょ」
「でも嫌だ」
僕が退く気の無いのを見て取り、君は伏し目になって溜息を吐く。
「私だけが諦めるのも、あんただけ諦めるのも駄目となると……二人共このまま夢を追い続けるか、二人共諦めて働くかの二択な訳ね」
「後半も却下。だから諦めるのは嫌だって」
「じゃあ、一択じゃない」
「だからそうしろよ。結局、お前の心配は遠い将来の心配だろ。だったら今は良いじゃねえか。別に切羽詰まってないんだしさ」
「あんたね、他人の事だと思って」
「思ってねーよ。彼氏だし」
「駄目になったらどうするの?」
「前にも言ったろ失敗したら俺が救い上げる」
「うー」
「それに、自分の所為で姉が夢を諦めたって知って、お前の妹が喜ぶと思うか?」
「そりゃあ、喜ばないとは思うけど」
君は黙り込んで、ぼんやりと地面を見つめ、かと思うと突然空を見上げ、何だか難しい顔をして唸りながら、やがて僕の目を見据える。
「あのね、唐突だけど」
「うん?」
「別れない?」
その言葉が僕の思考を彼方に吹っ飛ばす。何も考えられずに僕は黙る。君はそんな僕の事をじっと見据えている。やがてようやく衝撃から回復する僕は呟く。
「何で急に」
「分かってるでしょ?」
「分かんねーよ」
「私って、死神じゃん?」
その言葉で君が何を言わんとしているのか理解する。でも受け入れられる訳が無い。そんな世迷言に付き合う気は更々無い。
「私の大事な人がどんどん死んじゃう。きっといずれ妹もあんたも」
「断る!」
「何を?」
「別れるのも死ぬのも」
「そうは言っても」
「俺は死なない!」
僕が胸を張ってそう言うと、君は呆然としてから、苦笑する。
「馬鹿みたい」
「良いんだよ。馬鹿は死なないって言うだろ」
「言わないよ」
「どっちにしても俺は死なないし、別れない。告白した時に言っただろ。俺とお前は二人で一人なんだよ」
「それ告白された時にも言い返したけど、二人の苗字が一緒ってだけでしょ?」
「それでも良いんだよ! 俺はお前で、お前が俺!」
「あのね……あー、もういいや」
君は何だかすっきりとする笑顔を僕に向ける。
「何だか悩んでたのが馬鹿みたいに思えてきた」
「そうか」
「ありがとう。大分心が軽くなった」
君が突然僕の体へと身を寄せる。思わず僕の手が君の背を抱いて、何だか良い雰囲気に僕の心臓が高鳴りだす。
「ねえ」
「どうした?」
君が僕の事を見上げてくる。僕の心臓が一際高く跳ねる。
「なんかさ、すっきりしたらお腹空いちゃった! やけ食いしにいこ! やけ食い!」
僕が脱力する瞬間、君は思いっきり僕の手を引いて駆け出す。目指すカナンは何処だろう。多分、最近出来るケーキバイキングの店かなと想像していると、君が振り向いて笑う。
「そうだ! 忘れないでよ?」
「何? 奢れって?」
「そうじゃなくて、私が駄目になったら絶対に掬い上げてよ」
結局、君が目指す桃源郷は近所の中流中華飯店で、僕はそこで気持ち悪くなる位に君の馬鹿食いを見せつけられる。
そういえば、あの店はまだあるのだろうか。気になった。もしかしたらまだあるのかもしれないと考えて、僕は真夏だという事も忘れて、自転車を立ち漕いで、辺り一帯を探し回った。残念ながら中華料理を扱っている店は見つからなかったが、汗にまみれて駆けずり回った結果、何となく懐かしい気持ちに浸れた。
そんな懐かしい気持ちを具現化した様な駄菓子屋を見つけた。駄菓子屋の抜け殻と言った方が良いかもしれない。淀んだガラス戸に透けた店内は商品を陳列していたと思しき棚はあるけれど、お菓子の姿がまるで無い。看板も擦れて読めない。もしかしたら駄菓子屋ではないのかもしれない。ただ店構えが何となく駄菓子屋らしかった。だから駄菓子屋だ。
ガラス戸は難なく開いて、熟成された埃が僕の顔に襲い掛かって来た。扉から離れて一頻り咳き込んでから僕は戸を大きく開いて空気を入れ替え、店の中へと入る。
埃と黴と木と土の混ぜ合わさった古臭い匂いが立ち込めている。陽光が半端に照らす仄暗い空間に、雑多な配置の腐りかけた陳列棚。何だか眩暈がした。だが心地悪いだけではない。郷愁とでも言う様な感情が沸き起こった。一人暮らしさえした事が無い実家暮らしの僕なのに。
はがれかけたポスターがあった。そこに『美沙』と書かれているのを見て、僕は心臓が止まりそうになる。君の名前かと思ったから。でも違った。苗字は中野。ずっと昔、僕が小学校の頃に人気のあったアイドルだ。今はもうどうしているのか分からない。僕は見ていられなくなって、無理矢理目を逸らした。まだ心臓が大きく鳴っている。
何だかどっと疲れて、僕は店部と住居部を繋ぐ縁側に腰掛けた。自転車に乗って旅をしてもう四日。君を探す旅はゴールも見えない迷路の様な旅だけど、不思議と焦りも無く、微かな満足感を含んだ疲労が心地良い。
君は何をしているだろう。君は何処に居るだろう。そんな風に君の事を考えるだけで、僕は元気になる。舞い上がる。
薄暗い店内を透かして、入って来たばかりのガラス戸の向こう、僕の自転車が止まる明るい道路を何となく眺めた。外は白い。ひたすら白い。日の光の強さに外の世界はまばゆく霞んでいる。
夏だなと思った。強い日差しに入道雲、友達と走り回ったそんな記憶。店先の道路に子供達が走っている。そんな想像が沸き起こった。楽しそうなはしゃぎ声、手には虫取り網と携帯ゲームを持っている。何だかアンバランスな組み合わせだけれど、そういうものなのかもしれない。時代は変わったのだ。僕は大学生から駄菓子屋のおばあちゃんになって、店の前を行きかう子供達を微笑ましい思いで眺めた。
一人ぐらい入って来てくれないだろうか。来てくれたらおまけの一つも付けるのに。そんな風に思いながら、外を眺めていると、そこに一組の男女が通りかかって、女の子の方が店の中を覗き込み、男の子に何かを言っている。やがて二人は店の中を指差しながら敷居を跨いで入って来る。
ああ、僕だ。すぐに分かる。あれは僕と君だ。
君はお菓子を摘まみ揚げて嬉しそうに笑う。
「何か懐かしいよね」
「そうか?」
「うん! だって中学生になったらもう駄菓子屋とかこないじゃん」
「まあ」
僕はつい三か月前、卒業遠足に持っていくお菓子を買いに、地元の駄菓子屋を利用するばかりだ。三カ月と言えば、小中学生にとってはとても長い期間だけれど、それでも懐かしさを感じるほど昔かと言えば、そうではない。
「ねえ、見てこれ! 味噌水飴だって!」
「不味そ」
「分かんないよー。すみません、おばあさんこれ下さい!」
僕が止める間もなく君は小銭を取り出して縁側に座る嬉しそうなおばあさんのところへ行ってしまう。僕は冷蔵棚からジュースを取ってその後に続く。間違いなく口直しが要るだろう。
店を出る君は嬉しそうに水飴を混ぜ初めて、しばらくしてから口に含み、案の定気持ち悪そうな顔をして、口から離す。
「美味しくない」
「だから言っただろ」
そう言って、僕はジュースを渡す。代わりに君は水飴を差し出す。
「はい、あげる」
「いや、いい」
不味いと言われたばかりの食べ物を食べたくはない。けれど君は頑として譲らずに、僕の鼻先に水飴を突き付ける。
「あげる」
こうなっては、どういっても無駄だと思って、僕は水飴を受け取る。君はジュースを飲みながら楽しそうに僕を見つめている。
僕はしばらく水飴を眺めたり、匂いを嗅いだりしてから、覚悟を決めて水飴をゆっくりと口に運んで、食べようとして、もしかして間接キスになるんじゃないかなと思ってしまう。そりゃあ、僕は君の事が好きなので嬉しい事には違いないのだけれど、まだ付き合っていない身の上で、それをしてしまうのは何となくまずい気がする。そう思って、手が止まる。
その途端に気味の悪い笑い声が聞こえる。見れば君が意地悪そうに笑っている。
「今、何考えてたか当ててあげようか?」
「いらねえよ」
「大丈夫。私、そういうの気にしないから」
にやにやと笑っている。それがしゃくで、もしここで止めればもっと笑われるに違いないと思い、僕はどうにでもなれと破れかぶれに水飴を口に含む。強い味噌の味がする。それだけだ。取りたてて不味い訳ではない。美味しい訳でもないけれど。
「そんなに不味くはないでしょ?」
君はにやつきながらそんな事をのたまう。
君の意図を理解して、悔しい思いが湧く。つまり君は今のシチュエーションを演出して、僕が恥ずかしがるところを見ようとしている訳だ。まんまと嵌まる自分が憎らしく、まんまと嵌める君が憎らしい。何だか落ち着かなくて、僕は自分のジュースを飲む。炭酸が憎らしさを少し溶かしてくれる。
君は笑っている。可笑しそうに大きな口を開けて笑っている。
それを見て、僕はどうでも良くなって、そして君が笑ってくれるので許す事にする。思えば君が元気になるまで半年かかる。それだけ悲しいのだろう。それでも元気になってくれて安心する。
ふいに君の僕を見る眼が細まる。
「今、何考えてたか当ててあげようか?」
「別に何も」
「実はさ、私両親が死んでも全然悲しくなかったんだ」
君が道の先の何処か遠くを見る。僕は困惑する。
「周りが悲しんでたし、特に妹がね、普通は悲しむものだし、だから悲しむフリしてたの。全然悲しくないのに」
僕は何と言って良いのか分からない。
「むしろ演技なのに、周りが必死で元気づけようとしてくれてて、それが申し訳なくて、自分が嫌になって悲しかった」
僕は何も言えない。
「だからさ、今迄ごめんね。でも嬉しかった」
僕は、気にする事無いと答えようとするのだけれど、口から出る言葉は違う。
「本当に悲しくなかったのか?」
「うん、全然。両親とはあんまり仲良く無かったしさ。むしろ今引き取られたおじさん、おばさんとの方が親しかった位」
君はわざとらしい位に明るく答える。
「変だよね、私。そういえばさ、昔猫を埋めた事、あったよね。あの時もさ、あんたは本気で悲しんでいるみたいだったけど、私は、全然悲しくなかった」
憶えている。小学校に上がる頃、僕と君は秘密基地に猫を埋める。君があんまりにも悲しそうに泣くものだから、僕も釣られて泣く。あれは、演技なのだろうか。
「嫌われちゃいそうだから、言いたくなかったんだけど。何か言っちゃった。あのね、だから私がこれから誰かが死んだ事を悲しんでいてもそれはきっと演技だと思う。あはは、何か気持ち悪いよね、私。嫌いになったよね」
君は悲しそうに僕を見ている。僕はそれに首を振る。
「嫌いはしないけど。でも、俺は、何となくだけど」
「何?」
「多分お前は演技なんかじゃなくて、本当に悲しんでたんだと思う」
「違うって」
「本当に悲しそうに見えた。だからきっと、お前は演技だと思っているのかもしれないけど、本当は悲しかったんだと思う」
「そっか」
君は不機嫌そうな顔になって、僕の持っている水飴を引っ手繰って、頬張る。
「あんまり美味しくない」
「知ってるよ」
さっき食べるし。っていうか、そっちもさっき食べて知っているだろうに。
「ジュース、私、そっち飲みたい」
良く分からずに、僕は自分のを渡す。
「はい、じゃあ、こっちあげる」
代わりに君が君の分のジュースを僕に渡す。
いまいち君の意図が読めない。怒っているのかなと不安になる。君は僕が渡すジュースを握りしめて、不機嫌そうにじっと見つめている。やっぱり怒っている様子。どうやって機嫌を直してもらおうかと僕は考える。
難題に頭を悩ませていると、君が朗らかな声で言う。
「あーあ、私、あんたと同じ中学行きたいなぁ。電車に乗れば通えるしさ、転校しようかなぁ」
そんな冗談を言う。どうやら機嫌を直してくれる様で、僕は嬉しくなって気安く応じる。
「なんで?」
蹴られる。
僕は思考を打ち切って、休憩を終え、駄菓子屋の縁側から立ち上がった。やっぱり疲れているのか、体が少し重い。遠くで蝉が鳴いている。ああ、夏だ。夏休みは束縛の無い自由な時間。体が重たくなる位に暇な今が、とても楽しく思えた。
外に出ると、一気に汗が噴き出す程、暑さが凄まじかった。自転車を漕ぎだすと暑さは更に強くなる。何だか冷房の利いた部屋に籠っていたい。
もしかしたら君もそう思っているんじゃないだろうか。何処か冷えた部屋の中で本でも読んでいるかもしれない。そう思うと、そんな気がして、僕は君を探しにまた一段強くペダルを漕いで街中を駆け抜けた。
気が付くと最初の空き家に帰って来ていた。中に誰も居ない事は分かっている。僕は申し訳程度の庭に自転車を止めた。庭の端に枝が落ちていた。見ようによっては十字架に見える。僕はそれで、ここが君とあの猫を埋めた場所かと思った。
この空き家はとうの昔から人が居ない。僕達がここを見つける前から。僕と君はここを秘密基地にしようと語らい合って、その時からこの空き家は僕と君の場所になる。君は家に居たくないからと言って、学校が終わるとすぐに幼馴染の僕の所に来る。そうして秘密基地が出来てからは、君はとても楽しそうにここを私達の家と称して、遅くまで二人してこの秘密基地で遊ぶ。怒られる事は一度や二度ではないけれど、僕達はめげずに遅くまで遊び続ける。君なんて、怒鳴り付ける両親に向かって、どうせ妹の方が大事なんでしょ、なんて近所中に聞こえる位に大きな声で啖呵を切って見せる。やがて僕の両親も君の両親も諦めてしまって何も言われなくなる。今思えばとても甘やかされている。
そうしてしばらくこの秘密基地で遊んでいるある日、そこに猫が迷い込む。僕と君は二人の場所を荒らされるのが嫌で猫を追い出そうとするけれど、僕はその猫が三毛猫の雄である事に気が付いて、それが珍しい物である事を漫画で読んで知っていて、飼おうと主張する。君はとても嫌そうな顔をするけれど、僕が必死に頼み込むと、君は嫌そうなまま、いかにも不承不承という様子で飼う事を承諾してくれる。
僕が頻りに猫を構う。君はそれをつまらなそうに眺めて時たま猫を撫でて、やっぱりつまらなそうに猫から離れる。そんな猫との生活が始まる訳だけれど、その期間は本当に短くて、二日後に猫は死ぬ。秘密基地の前の道路で、車に轢かれて死んでいる。
僕があまりの事に呆然としていると君は猫に駆け寄ってその死体に手を添える。僕もそれに続く。猫は引き潰れていて、生きている頃の面影は無い。猫にも見えなくて、虫が寄り集まって猫の皮を被っている様なそんな気がする。
悲しみよりもまず気持ち悪さが先に来て、僕は猫から後ずさる。ところが君は平気で猫を触っているので、驚いて君を見ると、君はとても青ざめる顔で苦渋を滲ませ涙を落として何かを呟いている。僕は何となくその表情に勇気づけられて猫に近寄って、もう一度その死体をはっきりと見る。今度はしっかりと猫の死体に見えて、僕は君と同じ様に悲しみで涙を落とす。
「埋めてあげよう」
君が言う。僕はこんな時でも冷静で優しい君を尊敬する。
「うん、埋めてあげよう」
僕と君は道路にへばり付いている猫を引き剥がして、それを埋めてあげる。その墓の上に十字の形をする枝を突き立てて。
「死んじゃった猫、天国に行けてるかな?」
君がか細い声を出す。とても辛そうに見える。僕は励まそうと思って、元気よく答える。
「きっとあの世で幸せにしてるよ!」
君はゆっくりとその表情を明るくする。
「そうだね! きっとそうだよね!」
「あのね! この前テレビでやってたんだけど、あの世って海の向こうにあるんだって!」
「そうなの?」
「うん、だからさ、今度海に行こうよ! それで猫にお祈りしに行こう!」
「うん!」
君の表情がぱっと華やぐが、その眼尻にはまだ涙が滲んでいる。会って少しの猫をここまで思えるなんてと僕は感心する。
そんな優しい君を、思えばあの時から僕は好きになる。
そんな事を考えながら僕は木の枝を見下ろす。はっきり言って、十字架には見えないし、盛り土も無い地面は墓に見えない。けれど僕はこれを墓だと思う。墓だと思うのだから、これは墓なのだ。
ひとしきり墓を見て満足した僕は、空き家の中に入った。疲れの所為で僕は埃っぽい地面にへたり込む。空き家は本当に何も無い寂しい場所だったけれど、雨風が凌げれば十分だ。今の僕には格好の寝床になるし、僕と君にとっては絶好の遊び場になる。
そう、なるんだ。床に突いた僕の手の上に、水滴が落ちる。
何処に居るんだ?
涙が湧きあがった。
何処にいるんだ、君は。
喉が苦しくなる。
何処にいるんだ。何処に行けば君に会えるんだ。
胸が痛みだす。
ずっと探してきた。ずっと君に逢いたくて、君の事を探し続けてきた。それなのに君は何処にも居ない。探して探して、探して探して、探し続けたのに君が居ない。
君の姿も君の思い出もこんなに思い描けるのに、君だけが居ない。どうして居ない? 居ないなんてはずは無い。何処に居る? 何処かに居るなら出て来て欲しい。せめて君の痕跡だけでも、それだけでも僕は見つけたいのに。
悲嘆する僕を眺めるもう一人の僕は、ああ、箍が外れたなと思った。しょうがない。一人というのは寂しいものだ。
僕の中の冷静な意見のお蔭で少し心が冷えた僕は顔を上げる。そこに電話がある事に気が付いて思わず飛びついた。
小説で読んだ事がある。誰かを探して歩き続けた主人公は最後留守番電話の音声にその誰かの痕跡を見つけるのだ。
僕は焦りながら電話を操作して君の声を聞こうとする。
だが電源が切れていた。見れば電池が入っていない。
僕は急いで、鞄の中から電池を取り出して、電話に付ける。
だが動かない。電話は壊れていた。
僕は愕然として、後ろに下がり、尻餅を付いて天井を見上げた。
寝ようと思った。今日はもう疲れた。
僕は天井を見上げたまま固い床に倒れ込み、打ち付けた頭の痛みも気にせずに、目を瞑った。
ああ、そういえば、ここで君と。僕はまたこの秘密基地での空想に耽りながら、いつのまにか眠りに落ちた。
僕は震えながら自分の番が来るのを待っている。一人一人自分の好きな人を話し、話す度に笑いと驚きが起こって、時に喧嘩になり、そうして僕の番が回って来る。
「で、柊の好きな人は?」
僕は逡巡する。本当の事を言えばきっと笑われる。それも今迄の笑いなんか比べ物にならない位馬鹿にする様な響きで。もしかしたらこの林間学校が終わった後も、笑われ続けるかも知れない。それは嫌だ。
だから僕は嘘を吐く事にした。
「居るけど、みんな知らない人」
「年上?」
「もしかして外国の人?」
「違う。離れた所に住んでるから」
「へえ、なんで知ってんの」
僕は少し考える。
「それは、幼馴染で」
「ああ、転校しちゃったとか」
「そう、そんな感じ」
「何処に住んでるの?」
「遠いの?」
「五駅くらい離れてる」
「へえ」
「なんだ結構近いじゃん」
「えー、遠いよー。ね、柊君?」
「うん、遠い」
「そうかなー」
段々と場が熱されていく。
「で、名前は?」
「まず苗字からね」
名前。どうしよう。間抜けな事に僕は全く考えておらず、慌てて思いついた苗字を口にした。
「柊」
それは僕と同じ苗字だった。案の定、周りが一斉に訝しんだ。
「それ、お前と同じ苗字じゃん」
「そ、そうだよ。一緒の苗字だもん。別に良いじゃん!」
「もしかして家族?」
「いけないんだー! えっちー!」
「違うって! たまたま同じ苗字で」
「へえ、何か良いじゃん」
「じゃあ、名前は?」
僕は今度こそ、しっかりと頭を働かせたけれど、どうしても思いつかなかった。なので、またも思い浮かんだ名前を口にした。
「美沙」
それはその時人気のアイドルと同じ名前だった。けれどその事は気にされず、すぐさま別の質問に移り、次々と質問に答える中で、柊美沙の形はどんどんとはっきりとしていった。はっきりしていくうちに、僕は本当にその柊美沙の事を好きになっていた。
僕は君を愛すると決めた。僕は君を探し出すと決めた。
夢を見た気がする。昔の夢だった気がする。けれどあまり覚えていない。夢に拘泥してもしょうがないので、僕は目を開けて、覚醒する為に大きく寝返りをうった、
すると傍に君が立っている。君はおかしそうに微笑んで、僕の髪に手櫛を加えて「おはよう」と言う。僕も「おはよう」と返す。
「何だかちょっと臭いよ」と君が言う。そういえば、昨日お風呂に入らずに寝る事を思い出す。「ちょっとお風呂に入って来るよ」と僕が言う。
僕が身を起こすと、君は何だか少し不満そうな顔をして「何か言う事あるんじゃない?」と言う。「朝の挨拶ならさっきしたよ、もしかしてキスがお望み?」と答えると、君は「馬鹿」と言って、扉を開け放して部屋を出て行ってしまう。
僕はこの後の事を考える。とりあえずお風呂に入ろう。それから鞄の中のプレゼントを出してこなくちゃいけない。それに、どうやって誘い出そう。
今日は結婚記念日。君はきっと僕が忘れていると思って怒るのだろう。勿論、忘れる訳が無い。プレゼントは買うし、今日のデートコースもしっかり決める。
プレゼントを渡せばきっと、君はプロポーズの時と同じ顔をするに違いない。
僕は楽しい思いで、あの不機嫌な顔を想像しながら扉を開けた。
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。