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友達を思うと触手が笑う(私小説風? ファンタジー)

「だからそんなに落ち込むの止めなって」

「でも……」

 目の前で友人が泣いている。好い加減にしろよと思いながら私は焼酎を呷って息を吐いた。

 何でも同窓会に呼ばれなかったと落ち込んでいるらしいが、それを聞いて私はだからどうしたと思った。思っただけでなく、実際にそう言ったが、友人はぐじぐじといじけ続けている。

「気にし過ぎだよ、ホント」

 もう少し楽に生きればと思う。結局の所、世の中なんて自分の感じた様に出来上がる。だから前向きに捉えれば人生なんて如何様にも楽しくなる。別に友人や私は特別不幸な境遇でもないのだし。

 友人は何かと落ち込む性質の人間だ。その原因を辿って行けば、彼女から生えている触手に突き当たる。触手は確かに気味悪がられる事が多い。それで子供の頃から馬鹿にされてきたのだから、性格が歪んでしまうのは仕方が無いのかもしれない。

 だが、かくいう私も角が生えている。鬼の様に力が強い。その所為で同じ様に馬鹿にされ嫌われてきた。友達と言えば目の前で落ち込んでいるこいつしか居なかった。だが今は違う。交友も広がったし、彼氏も出来た。思い一つで変えられるのだ。世界は。

 だがそう言っても彼女はこう言う。でも吉美は美人だから。化粧っ気も飾り気も無い姿でそんな事をのたまう。なら綺麗になる努力をしろと思うが、友人にとっては全てが生まれつきのもので、変えようのないものらしい。何かを変えようとする努力を全くしない。

 自分は何もせずに愚痴だけは言う。はっきり言って一番嫌いなタイプで他人ならば関わろうともしないだろうが、どうにもこの友人は放っておけない。放っておけないという事は多分何かしらの魅力があるのだと思う。けれど全くそれを活かそうとしない。それが歯がゆい。

 どんという腹の底に響く様な音が聞こえた。俄かに辺りが騒がしくなった。

「気にしすぎって言っても、気になるのはしょうがないでしょ?」

「だからさ、気になるのは動かないからだよ。だから腐るんだって。もっと自分から変えよう変えようってしていけば、そんな些細な事気にならなくなるって」

「変えるって言ったって、何を? 今度同窓会をやる時には誘ってくださいって、みんなに連絡するの?」

「だからそういう事じゃなくてさ、あんたが落ち込んでる理由はみんなに嫌われたと思ってるからで、その原因は自分が不細工だからって思ってるんでしょ?」

「で? だったら何? 整形でもすればいいの? 触手ちょん切れば良い?」

「だからそうじゃなくて」

 頭を掻いて、友人から視線を外した。どうにも扱い辛い。

 やあ、皆さん。お食事時かな? お風呂でも入ってた? それとも奥さんの上に圧し掛かってた? それじゃあ、今日も張り切って行ってみよう!

 真面目にお願いします。

 あ、すみません。いつもの癖で。さて今日はここで爆発がありました。ほら見てくださいあの人だかり。煙も出てますねえ。今、あそこで不具者達が死にかけているそうですよ。もう少し表現を柔らかく。はい、分かりました。それではちょっと行ってみましょう。

 まずはあそこで寝転んでいる方にお話を聞いて見ます。こんにちはー。ご機嫌はいかがですか? 楽しいですか? お名前は? え? すみませんが聞こえないのでもう一度。はい? 何と言っているのか分かりませんねえ。僕の耳が悪いのでしょうか? うーうーとしか聞こえません。あ、蟹の手が外れていますよ。痛々しいですが、この方にとっては気味の悪い腕が取れてまともになれた訳ですね。あ、でも頭にまだ触覚が生えています。残念ながらまだ健常者という訳にはいかないみたいですね。それじゃあ、頑張ってください。

 次はーっと、お、こちらでは大きな牙を生やした化け物が、失礼、大きな牙を生やした方がいらっしゃいますね。見てください。あの牙。あれじゃあ、キスだって出来ません。まあ、あの顔ですし、する機会もなさそうですけど。あ、顔が紫色になっています。苦しそうで。あ、倒れました! 皆さん、倒れました。見てください。倒れましたよ。牙が折れてます。

 おっとこっちにはとびっきりの不細工が居ますよ。酷い不具もあったものだ。お嬢さん、こんにちはー。

 震えた。

『きょう親いない』

『あっそ』

『遊びに来て』

『今、友達と遊んでる』

『友達と俺どっちがダイジ?』

『友達』

「嫌だね」

「テレビ?」

「うん」

「どうせ苦情が行ってるよ。あのリポーターもそろそろ干されるんじゃない? 出た当初は過激さが物珍しくて人気があったけど、今はみんな飽きて落ち目だし」

「そうじゃなくて、事件の方」

「爆発?」

「毒ガスらしいよ。不具者だけに効く毒なんだって」

「へえ」

 熱気が顔に掛かった。遅れて焦げた臭いが鼻を刺激する。揺れ上がる炎。爆ぜる音。油が滴り。炎が肉を舐める。焦げあとが毒々しい。

 箸を伸ばして掴んで上げる。油が垂れる。肉が揺れる。押し殺した声。左見右見。皆テレビを見ている。見れば紫色の煙が辺りを這っている。紫色の海の中で人々がおぼれている。苦しんでいる。

「毒ガスねえ」

 箸の先が肉を運ぶ。口がそれを迎え入れる。舌先が触れ、熱さでひっこみ、歯が受け止めて、箸が離れる。

「嫌だよね?」

 話しかけられたから慌てて噛む。噛み、噛んで、飲み下す。

「嫌というか」

 嫌じゃない。と言うより、興味が無い。どうせ私には関係ない。

「どうでも良いよ」

「なんで?」

「だって私達と関係ないし」

「無差別テロだってテレビで言ってるよ?」

 無差別テロ。沈鬱な司会者。専門家の饒舌。国家は安泰である。抵抗せねばならない。徹底。冥福を祈る。狙われたターミナル。狙われた巨大商業施設。死者数十人。

「狙っているのは人の多い所だし。こっちには来ないでしょ?」

「でももしも」

「来たとしたらどうしようもないでしょ」

「そういうんじゃなくて、なんていうのかな、何か思う所は無いの?」

「全く」

「あっ、そう」

 友人がふてくされてグラスを呷った。だが水は無い。氷すらも溶けてなくなっている。友人は未練のこびりついた仕種でグラスを揺らめかせ、端に置いた。隣にはまだ口を付けていないカクテルの入ったグラスがある。赤く濁ったその酒を友人はゆっくりと口に近付けて、如何にもせせこましい様子で啜った。ほんの僅かの量を口に含んだだけなのに、たちまちの内に顔が赤くなる。炎が上がる。また肉が燃えている。

「世界は悠然とただそこにある。変えたいのであれば立ち上がれ」

 おやと思ってテレビをみると、洋画になっていた。番組が変わったらしい。きっと誰かが苛立ちのあまりチャンネルを変えたのだ。

 金網の上には最後の一切れが残っている。丁度良い焼き加減で、身を縮こませて湯気を上げ、箸に掛かるのを待っている。きっと友人は取らない。絶対に遠慮をして相手に譲る。だから私はその一切れを拾い上げ、口に放って、伝票を取った。値段はまあこんなものか。友人に手を差し出し、金を寄越せと合図する。

「千」

「え、それじゃあ私の方が少ないでしょ?」

 丁度半々で無いと気が済まない。そう言っている。こちらの方が三倍食べて三杯飲んだのに。友人はしばらくごちゃごちゃと何か言っていたが適当に聞き流した。昔、レジの前で同じ様な問答を繰り広げてからは、必ず会計前に払い分を定める事に決めた。

「千」

 言葉が途切れたのを幸いに、私はもう一度それだけ言った。友人はしばらく迷う素振りで財布を開け閉めしていたが、やがてそこからお札を二枚取って差し出してきた。

 皺の付いたみすぼらしい札が二枚。手に取ると柔らかい。自分の財布の中にある固いお札と比べると、毛でも生えているんじゃないかと思う。一枚を友人へ突っ返した。友人は何だか良く分からない顔をした。

 立ち上がると仕切りに遮られていたざわつきが周りから押し寄せてきた。音は真っ直ぐに飛んでいるのだと改めて思った。レジに向かう途中ふと上を見上げると天井に白煙が舞っていた。左では高校生が談笑している。右では一人でサラリーマンが寂しそうにしている。左には家族連れがつまらなそうな顔をした子供を中心に笑い合っている。レジの呼び鈴を鳴らすと店員が如何にも慌てていますといった様子でやって来た。妙に作り物めいた笑顔を浮かべている。

 伝票を渡すとデジタルな数字が四桁示された。丁度になる様に払い、レシートは要らないと言うと分かりましたと返ってきた。レシートも一緒にやって来た。そのままレシート入れに放り込む。飴が差し出される。二つ受け取って一つを友人に渡す。渡すと擦れたありがとうが聞こえた。テレビでは動物達の愉快な映画がやっていた。犬と猫と烏がはしゃぎ合っている。笑い声が聞こえてくる。牛がやって来た。

 店を出る。閉まり切っていない背後のドアの奥から喧騒とありがとうございましたが聞こえてくる。外は涼しい。気持ちが良い。清々しい冷たい空気。店内は煙臭い。そう思った。

 飴の包みを開けて、そこには店名が書いてある、中身を口の中に入れると、固い異物感が口の中で口蓋と舌を押し退けようとする。それを舌で抑えつけながら舐めていると、飴は段々と丸みを帯び始め、口蓋が段々と痛くなってきた。

 更に舐める。何だか飴が憎らしくなって荒々しく舌で弾くと、歯に当たって音が立ち、それがまた不快で、面白く、舌の勢いを強めて、

「さっきのビル、上の階にまだ人が残ってるんだって」

「そうなんだ」

「聞いてなかった?」

「全く」

 興味が無かった。

「八人居て、みんな不具なんだって」

「へえ、どうでも良いんじゃない?」

「もし私達がその八人だったらどうする?」

 質問の意図が分からない。

「どういう意味?」

「もしも私達が上の階に取り残されたらどうなってだんだろうって」

「別にどうって事ないんじゃない? 毒ガスは空気よりも重いみたいだから屋上で救助を待ってれば良いんだし」

 震え。馬鹿だ。携帯を取り出して耳に当てる。

「寂しいよー」

「何か用?」

「寂しい!」

「あっそう」

「大丈夫だった?」

「何が?」

「またテロだって」

「全然違う場所に居るから」

「でも心配だなぁ。気を付けてよ、ホントに。俺の未来のお嫁さ」

 遠く灯りが滲んでいる。屋根の合間にビルが見える。件のビルだ。改めてみればそんなに離れていないのかもしれない。それでも歩いていくには遠すぎる。いつの間にか口の中の飴は溶け切って無くなっていた。

 携帯をしまうと友人がにやけていた。

「彼氏?」

「そう」

「素っ気ないなあ」

「良いの。調子に乗るから。それよりこの後どうする?」

「え? 何処かに向かってるんじゃないの?」

「全然。何となく歩いてただけ」

「じゃあ、カラオケでも行く?」

「んー、いや、あんたの家に行こう。カラオケは明日の朝で良いよ。夜は高いから」

「そうだね」

「時間はあるんだし」

「そうだね」

「場所は」

「直ぐ近く」

 明るい自動販売機。こんな夜にも買いに来る者が居るのだろうか。居るんだろう。今は辺りに誰も居らず、寂しげに光る自動販売機は誰にも見られる事無く朽ちていきそうに見えるけれど。

 直ぐにマンションが見えた。駐車場に車が十台。友人の車は無い。車を持っていないから。駐車場を横切り、車の中に豚の人形が置いてある、入り口の前の段差を上る。段差は所々欠けている。何となく人間臭いと思った。

 友人の後ろから、高らかに靴音を響かせて、マンションへと乗り込む。灯りが煌々と照っている。だがどうしてだろう。明るいはずなのに何だか不気味だ。明るいのに暗い。砂嵐が掛かっている様なそんな明るさ。響く靴音が不吉な予感を膨らませた。エレベーターのボタンを押すと扉がすぐに開いて、のりこむと鏡が掛かっていた。角の付いた自分の顔。服が少し寄れているのでさり気無く伸ばした。友人の背。無造作に伸ばされた手入れのされていない長い黒髪。スカートが不自然に膨らんでいる。中には触手が詰まっている。

 エレベーターが開いた。右に曲がってドアを三つ。三つ目の前に友人が立った。ふと気になって子細に玄関を観察した。どうやら押し売りのマーキングはされていない。少し安堵する。友人が鍵を取り出す、それが差しこまれると、捻られて、玄関が開いた。中は暗い。月の仄灯りと外灯に照らされた淀んだ玄関の中は何だか寂しくて、少しだけ息が詰まった。

 友人の手で廊下の電灯がつけられて中が光に満たされる。明るいと余計に物寂しい。ドアが二つある。奥に部屋が見える。薄暗い部屋はどうやら綺麗に片付けられている様だ。

「結構綺麗にしてるね」

「うん、前のアパートでは散々に言われたからね、誰かさんに」

「だれでっしゃろ」

 先に友人が部屋に入って電気を付ける。私はその後に続いて部屋に入る。正面にガラス窓。右の壁にドアがあった。どうやら二部屋在るらしい。真ん中にはテーブルとソファ。端にテレビと観葉植物。あまり物がない。応接間といった所か。左の壁に風景画。

「広いね」

「家賃、それなりに高いから」

 友人がソファの上にバッグを置くので私もそれに倣う。友人の様子がとても辛そうに見える。

「どうしたの?」

「ちょっと疲れた。喋りすぎた」

「喋りすぎたって……じゃあ、寝るか」

 震え。寝室へ通される。ベッド、パソコン、本棚、詰まった本、動物のぬいぐるみがベッドの上で出迎える。キッチンが付いている。寝室にキッチン、何となくおかしな取り合わせだが、友人らしいとも思う。

『夕飯作ったよ、一人で』

 写真が付いている。何の変哲も無いカレーを盛り付けた器とスプーン、それから馬鹿面が二本指を立てて映っている。

 写真立が窓枠に置いてある。中には写真が入っている。風景写真だ。何処かの草原を写した物で、一杯に草が生い茂り青々と空が掛かっている。他には何も映っていない。

 友人が居なくなっていた。

「じゃあ、先にお風呂入って来るね」

という声がさっき聞こえた気もする。そんな気がするだけで実際は何も言わずに出て行ったのかもしれない。消臭剤のきつい匂いが漂っている。カーテンはクリーム色の無地、半開きになっていて、隙間から夜景が見える。気になって立ち上がり、固いカーペットの上を歩いて、窓に近寄ると、遠くに光の粒が点々と建物の形を作っていて、私はそれに魅せられた。一際高いビルの下から赤い光が滲んでいる。恐らくパトカーか救急車の灯りだろう。

 ざわめきが聞こえてきそうな気がした。窓を開けて赤い光を見つめながら耳を澄ますが、風の音しか聞こえない。それでも何かを聞こうとして耳を澄ませ続けた。

 風が冷たくて寒い。段々と肌が冷えていく。でもどうせこの後お風呂に入るのだから良いだろう。何も聞こえない。何かが聞こえてもいいはずだ。そう思うのに。寒い。思わず体が震えた。ふいに清々しい心地になった。寒い。寒いが心地良い。

「何してるの?」

 振り返るとスウェット姿になった友人が不思議そうに私とその後ろの夜景へ交互に目をやっていた。

「いや、別に」

「やっぱり事件の事が気になる?」

「別に」

 私は部屋に戻って窓を閉めた。

「タオル貸して」

「お風呂場に置いてある。寝間着は? 私の使う?」

「角が引っかかっちゃうよ」

「そりゃそうだ」

「あるから大丈夫」

「そ。後脱いだのは洗濯機に入れちゃって」

「ありがと」

 寝室を出ると灯りの点った居間。やはり煌々と照る電灯は不気味だ。人が居ないからだろうか。夜景が綺麗だと思うのはあるいはそこに人が居るからなのかもしれない。あの赤い光の元にも沢山の人が居る。バッグから下着とパジャマを取り出した。私は人の沢山居る場所へ行きたいのだろうか? あの赤い光の元へ行きたいのだろうか? 行きたいのだろうなと思う。ただふらふらと歩み寄って何の努力もせずに沢山の人に受け入れられたいのだと思う。毒ガスがあるのだから死んでしまうのだけれど、それでも万が一を信じて何の用意も準備もせずにふらふらと寄って、全国放送されているカメラの前に躍り出て、何の訳も無しに受け入れられたいのだと思う。だがそれをはっきりと口に出せば、それは敗北だ。ただの劣った人になってしまう。廊下に出て、途中の扉を開ける。脱衣所が待ち構えていた。

 そろそろ冬だ。これから寒くなるだろう。脱いだ端から肌が冷えていく。だが逆に夜気で冷えた部分、腕と肩と顔は妙に温かかった。この脱衣所は肌よりも冷たく、外気よりも温かいらしい。多分室温よりも温かい。

 脱いだ衣服を洗濯機の中に入れて、浴室の扉を開いた。浴槽にはお湯が張っていない。多分、シャワーだけで済ませたのだろう。まあ、それで良いか。それよりも、と見回して案の定だと溜息を吐く。体を洗うための物が無い。スポンジすら無い。石鹸だけ。多分友人はタオルで洗っているのだろう。仕方が無いから私は手で洗おう。シャンプーもトリートメントもそこらで売っている安物。脱衣所に立ち返って洗面台を見ると、化粧品もそこらの安物。思わず叫びそうになったが堪えた。これでもまだマシになっている。前は最低限の化粧品すら無かったのだから。そう、少しは成長しているのだ。もう少し教育が必要だけれど。

 あまり気にしてもしょうがないと諦めかけた時に、ふと小瓶が見えた。『Eau de vent』という最近高校生の間で流行っているコロンだ。如何にもな甘ったるい薔薇もどきの匂いに、高校生の手が届くぎりぎりの値段設定であやふやな高級感を醸しだし、人気を博している。それは良いのだけれど、何故ここにあるのか。少なくとも二十の後半を迎えた人間がつける物ではないし、そもそも友人が持たなそうな一品で不思議に思った。

 まさか恋人でも出来たのかと思ってコロンを取って見てみると、まだ使われた形跡が無い。封も開けられていない。箱から出されただけの状態だ。まだ買ったばかりなのか、使っていないのか。

 まあ、後で問い質してやるか。浴室に入って蛇口をひねるとお湯が出てきた。自分の家だとお湯が出るまでにもっと時間が掛かる。羨ましく思いながら化粧を落とし、石鹸を体に擦り付け、何となく上を見た。一面のタイル張り、繰り返しの模様は天井で途切れている。体を濯いで、シャンプーを泡立たせ髪を洗う。目を閉じると、無防備になる。これが楽しい。次の瞬間には背後に何かが立っていて自分の首を掻っ切るかもしれない。そう思うと何だかわくわくした。多分子供の頃に培った破滅願望の名残なのだと思う。

 髪を濯ぐと肌にへばり付いた。この感触が嫌だ。だがもう一回味わわなくてはならない。トリートメントを掌に伸ばし、髪に擦り付けていく。シャンプーもトリートメントも安物な事を思い出した。多分今、キューティクルが死んでいる。そんな破滅は嫌だった。

 何だか億劫になった。自分の体を整える事が馬鹿馬鹿しく思えてきて、お風呂なんて入っていたくなくなった。お風呂すら面倒に思うのは風邪をひいた時くらいだ。洗い流してへばり付いた嫌な感覚もお湯で流し、再び石鹸を手に取り、体を洗う。風邪をひいた時と同じという事は私は熱に浮かされているのかもしれない。友人のずぼらさにか。あるいは巷を騒がせているテロルにか。よくよく考えてみれば、お湯がすぐに出たのは友人が入ったすぐ後だったからかもしれない。

 洗い流して、立ち上がり、ごわついたタオルで髪を拭き体を拭き、肌が少し痛くなったので残念な気持ちになりながら、浴室を出て更にお湯を拭き取って、何となく沈んだ気持ちを発散させる為に、タオルを洗濯機へと放り投げた。

 下着を付けて、パジャマを着て、ふと気が付く、化粧水を叩き付け、着信を示す携帯のランプが灯っている事に、乳液を塗り付け、クリームを塗って、携帯を開いて、

『何で返信してくれないの?』

 写メ。食べ終わったカレーと笑顔の馬鹿面。

『うざいから』

 外に出ると、ひんやりと静まる夜気の向こうからぼそぼそと話し声が聞こえてくる。時折笑い声も聞こえる。テレビでも見ているんだろう。居間を通って寝室に入って、

「何か見てるの?」

尋ねると、友人は無表情でテレビを見ていた。

「ニュース」

 ならさっきの笑い声は? その疑問はすぐに解消された。テレビの向こうでさっき見たリポーターが馬鹿笑いをしながら傷心の人々をいたぶっている。

「こんなの見てどうするの?」

「何となく。気になるでしょ?」

 気になりはするが、それ以上に苛々する。

「こんなの見てもしょうがないでしょ」

 テレビを消して、

「ああ、そういえば、あのオーデコロンどうしたの?」

「え? あの香水? お母さんが買ってくれた。機会が無いから使ってないけど」

 やっぱり自分で買った訳では無かったか。それにしても恋人に買ってもらった訳でも無く、母親に買ってもらったなんて。

「どうしたの?」

「いや、何でもない。もう寝る?」

 既に床に布団が敷いてある。友人はとろんと溶けそうな眠たげな顔をして頷いた。テーブルの上には飲みかけのコップと何も入っていないコップがあった。何も入っていないコップを取って、ペットボトルに入った紅茶を注いで飲み干してから寝室を出た。振り返ると友人は既にベッドに入るところだった。

「歯磨きは?」

「え?」

「え、じゃないよ。早く来な」

 面倒くさそうな友人を連れ立って、居間を通り、廊下に出て、脱衣所へと戻る。置いてあるコロンを指差して、

「使ってみれば良いじゃん」

と言うと、

「どういう時使えば良いのか分かんないし」

と友人は答えて、歯ブラシに歯磨き粉を塗って歯を磨き始めた。

「いつ使っても良いんだよ」

 私も歯ブラシに、歯磨き粉を借りて塗り付け、歯を磨き始める。

「んーんん?」

「んーんん」

 友人は悩みながら歯を磨き、逸早く磨き終わった私は口を漱いで、コロンを手に取った。

「今使う?」

 同じく口を漱いだ友人が首を振る。

「今は止めとく」

 そう言ってずっとしないんだよなぁと思ったが、無理強いして抵抗感を持たれてしまっては仕方が無い。

 そんな事を思っていると、突然友人が真顔で聞いてきた。

「そういえば、結婚するの?」

「え? 何で急に?」

「だって彼氏いるんでしょ?」

「結婚ねえ」

「私達ももうこんな歳だし」

 自分がウェディングドレスを着ている様を想像出来ない。自分が奥さんをやっているところも想像できない。自分が想像できたのは、同じ家に住んであの馬鹿を叩きながら掃除をする場面だ。それでは今と変わらない。

「良く分からん」

「早くした方が良いんじゃない?」

「そっちこそ。まず相手を見つけなよ」

「私はもう、諦めた」

「早いんだって、諦めるのが」

 私が床に敷かれた布団に入ると、友人が電気を消した。

「もしも居るならいずれ見つかるよ」

「探しに行かないと見つからないよ」

「分かってるけどさぁ」

 頭上から布団が擦れる音が聞こえてくる。友人が寝返りでも打ったのだろう。

「それより、事件の事だけど」

 暗闇の中に密やかな声が響く。

「また? どうでも良いじゃん」

「だって……」

 見えずとも友人の落ち込んだ様子がありありと浮かぶ。億劫だ。

「で? 何?」

「うん、あのさ、あのビルの最上階はワンフロアが大きなレストランになってるでしょ?」

「そうだっけ?」

 思い出す。かつて二人で行った事がある。その時は……その時は最上階の食事処の合間を縫って何を食べるか議論しながら、結局どこも混んでいてたった一つだけ空きに空いていたとても美味しくないラーメン屋に入ったはずだ。

「でね、それってさ」

「え? あ、うん」

「何だか映画みたいじゃない?」

「は?」

「大きな爆発が起こって、建物の中に閉じ込められて、それでそこがとっても豪華なレストランで」

 豪華なレストランと言われてもどんな所か分からない。友人が思い浮かべている光景は私も見た筈なのに。なのに私には全く覚えがない。憶えがあるのは安っぽいラーメン屋だけ。本当に友人と私は同じビルの事を話しているのだろうか。

「それで、最初はみんな不安に沈んでいるんだけど、段々と疑心暗鬼になってきて」

「そうなの?」

「ううん、ここは私の想像」

「アホか。もう寝るよ。そっちもつかれてるっつったんだから早く寝な」

「はーい、お休み」

「お休み」

「……でもさ、本当にあんな大事件の渦中に居たら、いつもみたいに助けられるばかりじゃなくて、助けてあげられる気がする」

「私を?」

「うん」

「馬鹿。いつも助けてもらってるよ、あんたに」

「そうかな?」

「勿論」

 それっきり会話が途切れた。ざらついた暗闇に見知らぬ部屋が照らされている。カーテンの隙間から白い月の光が微かに差しこんで、闇と混ざり合って青く輝いている。あの青の向こう、そう離れても居ない場所で今ニュースを盛大に賑わせている事件が起こっているのだと思うと、私も何だかスペクタクルをこの身で味わいたくなった。


 目を覚ますと、そこは大きなシャンデリアに見下ろされた巨大な洋風のレストラン。外では怒号が飛んでいるが、このレストランの中とは関係ない。素早く辺りを見回して確認できた人影は八、いや、六人。私と隣で怯える友人を含めて八人。皆、常人よりも醜い不具者達だ。

 目の前に用意されたコーヒーを飲んで落ち着いていると、いきなり肥満気味の神経質そうな男が立ち上がって私を指差してきた。その腕は緑色で、その指は粘液に塗れている。

「良くこんな状況で落ち着いていられるな!」

「こんな状況だからこそ落ち着かなくちゃいけないでしょう?」

 冷静に言い返されたのが鼻に着いた様で、男はテーブルを思いっきり叩いた。私の隣の友人が酷く怯えて体をすくませた。私に突っかかって来るのは構わないが、友人を怖がらせるのはいただけない。

「あなたが荒々しくしているとこの場の雰囲気が悪くなるんですよ。助かるものも助かりません。大人しく坐っていてください」

「き、き、貴様は」

 回らない呂律と紅潮した顔が痛々しい。惨めにしか見えない。惨めな豚面が私へと向かってくる。面倒だと思いつつ、私が応戦しようとすると、横合いから現れた影が男を殴り倒した。長身の美青年はつまらなそうな顔をして男を見下している。

「大人しくしてろよ、あんた」

 男には聞こえていない。のびてしまっている。

 青年は顔を上げると、私に向かって言った。

「大丈夫ですか?」

 大丈夫も何も、私は何もされていない。

「それもそうですね」

「むしろ助けなんていらなかったから」

「ですが、心配でしたので」

 青年はきざな笑いを浮かべてから、

「さてと」

と呟いて、

 なんか違う。


 目を覚ますと大きな洋風のレストランに居た。人影が六、私と友人を入れて八。皆、化け物の様な容姿をしている。

「私達、ここに居れば助かるよね」

 隣の友人が震えながらそう聞いて来た。私が頷きかねていると、

「助かるに決まっているだろう!」

神経質そうな豚面が苛立たしげに答えた。だが、

 轟音が起こる、階下からだ。

「また爆発か?」

 豚面が不安げにそう尋ねてきた。誰も分かる訳が無い。

「ガスは空気より重いから上に来ないんだよな? だから大丈夫だよな? な?」

 豚面がそう尋ねてきた。豚面がそう言うと現実がその反対になりそうな気がして皆不安になる。友人も顔を青ざめさせて私にしがみついてきた。

 励ます為にその手を握って、なんとなしに外を見る。紫色のガスが立ち上っていた。

 毒ガスが上へやって来ている。それに気が付いて、思わず総毛立った。一拍置いて何とか心を落ち着ける。大丈夫だ。ここの扉は全部閉まっている。外からガスが漏れてくる事は無い。

「ガスだ! 毒ガスが上って来ている」

 豚面が騒ぎ始めた。

 これでは場の混乱に拍車がかかる。思わず舌打ちをすると、他にも何人かが同じ様に苦々しい顔をしていた。皆気が付いていたが騒ぎになる事を恐れていたのだ。それを豚面が踏みにじった。

「まずいぞ! とにかく逃げねばならん!」

 豚面が急に出口へと向けて走り出した。見ればもう出口の向こうには毒ガスが浸り始めている。扉を開ければどうなるか。

「おい、あの馬鹿を止めろ」

 誰かが叫んだ。だが豚面は逃げ足だけは俊敏で、誰も追い縋る事が出来ずに、扉は開かれた。豚面は何処かへと走り去っていく。代わりに毒ガスが滑る様に這い寄ってくる。

 豚面を捕まえようと追いかけていた男の足元を毒ガスが浸した。男は狂った様に足を跳ね上げながら、踊る様にして血を吐いて毒ガスの海に倒れた。二人三人と毒ガスの海に倒れていく。

 逃げ場はない。私と友人は窓際まで追い詰められ、そこへ毒ガスがやって来る。

 と、その時、外にヘリコプターがやって来た。救助のヘリはビルに横づけになって、乗組員がこちらに向けて何か叫んでいる。何と言っているかは分からないが、飛び移れと言う様な事を言っているのだろう。

 私は窓ガラスを素手で叩き割る。だがヘリまでは距離が離れている。飛び乗るにしても風に揺られていて着地点が定まらない。

「大丈夫。私に任せて」

 友人が触手を伸ばして言った。それがヘリに巻き付き、友人は私に手を伸ばして、私はその手を取って、

 アホらし。


 目を覚ますと、巨大な中華レストランに居た。赤色を基調にした店内の真ん中、大きな円卓に私と友人とその他に六人、合計八人が不安そうに座っている。誰もが黙っている。目の前には冷めた料理が並んでいる。誰も手を付けない。

 沈黙に我慢しきれなくなって、私は口を開いた。

「つまり、この中にあの毒ガスを撒いた犯人が居る訳ですよね」

 皆が、一様に怯えた顔をしてお互いの顔を盗み見あった。

 そのうちの一人が恐る恐る言った。

「どうせすぐに救助が来る。今、下手に犯人捜しをして、疑心暗鬼になっても仕方が無いだろう。犯人がすぐに分かるのならともかく」

「犯人、分かりました」

 私が間髪入れずに言い重ねる。

「誰なんだ?」

「どうして分かったの?」

「簡単ですよ。あの警備員の方が残したダイイングメッセージを解いたんです」

 私は自信を持ってダイイングメッセージの説明を始める。

 あれは

 あれは……どうしよう。どんなのにしよう。何だか眠くて頭が働かない。眠い。


「どうでした?」

「駄目だ。錆びついていて、開かない。そっちはどうだ?」

「こっちも駄目です。下はもう毒ガスで降りられない」

「そんな」

「救助が来るでしょうからそれを待つしかないですね」

 ここは巨大な中華レストラン。大きな円卓に座って、皆疲れた顔でうなだれた。

「とにかくテレビで外の様子を見てみましょう」

 皆が同意して、テレビが付けられた。画面に大きなビルが映る。その半分を毒ガスが覆っている。リポーターが馬鹿笑いをしている。

「見てください、皆さん。下に溜まっていた毒ガスが上に向かっていきます。ビルの最上階にはまだ取り残された方々がいらっしゃいますのに。ご家族の方々につきましてはご愁傷様でございます。皆さんで屋上に残る方々のご冥福をお祈りいたしましょう!」

 誰かが立ち上る毒ガスを見て悲鳴を上げた。毒ガスが迫っているなら逃げなくてはならない。だが何処へ? 屋上への扉は錆びついていて使えない。下は毒ガスで満ちている。後はこのレストランに立て籠もって毒ガスをやり過ごすしかない。扉を閉めて、隙間を埋めれば大丈夫なはずだ。だが何故だろう。一抹の不安が私の中にこびりついている。

「大丈夫。私が何とかするから」

 友人の心強い言葉に励まされて、私は大きく頷いた。

 周囲の論調もこの中華レストランに立て籠もろうという方向だ。早速隙間にシーツを詰める事にした。

 しばらくシーツを詰める作業に没頭して静かな時が流れていたが、突然怒声が響いた。

「お前が犯人なんだろう!」

 その大声に驚いて慌てて振り返ると、友人が周りから責められていた。

「そんな訳無いでしょう。私がそんな事したって何の意味も」

「うるさい! お前しかいないだろう!」

 一人が石を握りしめると、他の者達も石を握りしめ。今にも投げようとしている。

 大変だ。助けなくちゃいけない。私は友人を庇って前に出た。躊躇なく石が飛んできて私の頭に当たる。酷い衝撃に世界が揺れて、私は気を失った。

「何だ、そいつも仲間か」

「二人とも殺しちまえ」

 友人はにじり寄る人々を一睨みすると、気絶した私を抱えて店の外へと飛び出した。

 暗い倉庫の中で友人が心配そうに私の事を覗き込んでいる。私が気を取り戻すと、友人は安堵して扉を指差した。

「みんな私達の事を探してる。しばらくここに隠れてよう」

「うん、でも毒ガスが」

「何とかできればいいんだけど。まあ、任せてよ。絶対に助けてあげるから」

「うん」

 確かに扉の向こうから私達を探す声が聞こえてくる。皆、手に手に武器を持って恐ろしい形相で私達の事を探している。これでは容易に外に出られそうにない。

「毒ガスだ!」

「もうここまで上がって来た!」

 外が俄かに慌ただしくなった。

「どうしよう、毒ガスが来ちゃったって」

「むしろ好都合。混乱に乗じて外に出られる」

 友人がそっと外を覗いた。辺りには誰も居ない。毒ガスもまだここまではやって来ていない。

「行こう」

「うん」

 二人で外に飛び出して、階段を上った。

「何処に行くの?」

「とにかく屋上へ」

 その時、爆音と衝撃が世界を揺らした。爆発だ。階下でまた爆発があったのだ。酷い衝撃で建物に亀裂が走った。

「まずい! 床が崩れる!」

 何処かから聞こえてくる声に促されて足元を見ると確かにひび割れて今にも崩れそうになっていた。

「どうしよう!」

「いいから急ぐ」

 二人で廊下を走り抜け、階段を上る。階段の先に屋上への扉が見える。だがそこで廊下が崩れた。私の足元にぽっかりと穴が開く。

「馬鹿!」

 友人の怒鳴り声が聞こえる。ゆっくりと少しずつ私の体は穴の中へと落ちて行って────途中で触手が引っかかって止まった。

「危なかった」

「ほら、手」

 友人から差し出された手に捕まって、引き上げられて、廊下を走り抜け、階段を駆け上る。再び屋上への階段が目に入る。もう少しだ。けれど、確か扉は錆びついていたのではなかったか。

 疑問に思ったが、先に扉の前に辿り着いた友人が扉を力任せにこじ開けた。

「行くよ!」

 友人と共に屋上へ出ると、ヘリコプターが止まっていた。あれに乗れば助かる。だが毒ガスは迫っているし、建物も崩れそうだ。油断は出来ない。

 足元がみしりと鳴った。大きなヒビが足元に走っていた。

 まずい。そう思って、何とかヘリへと近付こうとするが、急げば急ぐほど、踏みしむ足の衝撃が足元を壊していく。

 みしりみしりと鳴り響く音に、焦りが心を満たした時、遂に崩れた。今度は友人の足元が。友人は触手を持っていない。引っかかる事も出来ずに落ちて行く。

 私が駆け寄ると、幸い友人は一階分下の鉄骨に掴まっていた。完全に落ちた訳ではないが、自力で上がるのは難しそうだ。それに今にも建物が崩れそうである。

「今助けるから!」

「私の事は良いから! あんただけヘリに乗りな! もう行っちゃうよ」

 確かに背後のヘリは既に飛び立とうとしている。だが友人を見捨てられない。

「嫌! 今度こそ助けてあげるから!」

 飛び立つヘリにも構わず、私は触手を穴の縁に掛けて体を支えてぶら下がり、別の触手を友人へと伸ばした。届きそうだがつかめない。更に体を近付けようと身をよじると頭上の穴の縁がぴしりと鳴った。これ以上大きく動けば崩れ落ちる。これ以上は伸ばせない。

 すると友人が鉄骨に片手でぶら下がり、もう片方の手で私の触手を捕まえようとした。だが空を切る。

 何度か繰り返して、友人はようやく私の触手を掴んだ。ところがぬめった表面に手を滑らせた。慌てて私はそれを掴む。更に触手を何本も友人へと伸ばして少しずつ引き上げながら、友人の体中に触手をからめていく。同時に穴の縁に掛けた触手に少しずつ力を加えて、穴の上へと上がった。

 何とか二人で穴を抜け出すと、ヘリはもう飛び立って、何処かへ行こうとしていた。私と友人が慌てて立ち上がりヘリを追う。だがヘリはその高度を少しずつ上げて手を伸ばしても届かない。

 私はまた触手を伸ばしてヘリの足、ランディングスキッドに絡みつけた。見る間にヘリの速度が鈍る。その機会を逃さずに、私は友人へと触手を伸ばして絡め捕り、二人でヘリにぶら下がった。ヘリは少しずつビルを離れ、やがて完全に毒ガスの届かない場所へと上り切った。

 ヘリの中で、友人が彼氏と仲睦まじくしている。私はそれを見て微笑み、安堵する。助けられた。私はただ助けられるだけじゃない。ちゃんと友人を助ける事が出来た。それだけで十分だった。後は何もいらない。ただ満足だ。何だか眠くなったので、私は目を閉じた。


 目が覚めると、部屋には朝日が薄らと差しこみ明るくなっていた。見ればテレビがついている。どうやら昨日つけっぱなしで寝たらしい。

 起き上がろうとして、下半身の触手の感触が気になった。いつもならこの感触と今迄の人生に落ち込む所だが、今日は違う。すぐそばに友人が寝ている。これほど心強い事は無かった。自分の触手など些細な事のように思えてくる。

 つきっぱなしのテレビではニュースがやっていた。

 おどっどととと。おどっどととと。昨日のリポーターが愉快な拍子で踊っている。多分寝ずにリポートをして狂ったのだろう。右上に犯人逮捕の文字があった。捕まったのか。あまり感慨は湧かなかった。

 おどっどととと。リポーターの背後で警察に引きつられられる人影が見えた。顔は隠れて見えない。だが服の異様な盛り上がりからその者が不具者だと知れる。おどっどととと。

 解説が入る。何でも最上階に取り残された内の一人が犯人だったそうだ。おどっどととと。カメラが寄る。犯人が何かを叫んでいる。おどっどととと。リポーターの拍子で聞き取り辛いが、確かに何かを叫んでいる。そうして懐から瓶を出した。おどっどととと。辺りが騒然とする。警察が犯人を羽交い絞めにする。おどっどととと。だが瓶は投げられ近くの見物客にぶつかった。途端に紫色のガスが発生し、何人もの人が血を吐いて、おどっどととと、倒れ始めた。画面が暗転し、すぐにスタジオに切り替わる。

 起き抜けのぼんやりとした頭は興味を失って洗面所へと私の体を導いた。そういえば、夢を見た気がする。何だったか思い出せないが、楽しい夢だった気がする。足の先が冷たい。フローリングよりはやはり畳の方が良い。

 洗面所に着いて顔を洗って、ふと香水が気になった。読めない外国語が書いてある何だか可愛らしい小瓶。無性にそれを付けたくなって、私は瓶を手に取り蓋をとろうとして、余りの固さに驚いた。タオルを手に取って、瓶に被せて捻ってみるが、どうしても開かない。長く放置しすぎた所為かどうやっても瓶は開かなかった。

「何してんの?」

 驚いて振り返ると友人が眠そうにあくびをしていた。

「いや、その」

 香水を付けようとしていたと言うのは恥ずかしくて口ごもり、私は香水を後ろ手に隠す。だが友人は目敏く察して、にやりと笑った。

「あー、つけようとしてたんだー」

「何? 文句ある?」

「無いよー」

 にやにやと笑っているのが腹立たしい。だが自分でも滑稽な事は分かっているので言い返せない。

「早くつければ?」

「瓶が固くて開かないの」

 私が小瓶を友人へ突き出すと、友人はそれを手に取って、

「どれどれ」

無造作に捻って蓋を開けた。

「馬鹿力」

「開けたげたのに」

 小瓶を受け取って、塗ろうと思って、でも友人に開けてもらったのだと意識すると、何となくつける気がしなくなって、そのまま蓋を閉めて洗面台に置いた。

「つけないの?」

「うん、今日は止めとく」

「今度別のオーデコロン買ってあげようか?」

「いいよ」

 これ以上迷惑をかけたくなかった。

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