落ちた万年筆の代わりに(ラブコメ)
「arcadia」にも掲載させていただいております。
最近の私は授業中、斜め前を見る事にしている。というより勝手に目がいってしまう。今もそうだ。授業などそっちのけで見つめる先にはある男子の後姿がある。黒く短い髪。少し日に焼けた健康的なうなじ。身長は特別高い訳じゃない。私と同じ位。体格も普通。だけれど体は引き締まっている。顔は後ろから見ているので今は見えないけれど、整っていてカッコ良い。特に目が鋭いのが良い。ちょっと怖いと思う時もあるけれど、そこが良い。真剣な表情をしている時は格別だ。真面目で頭も良く──前学期の期末テストで一番だったみたい──運動部には入ってないけれど運動も得意みたいで、体育の時間はいつも活躍している。秀麗眉目、才色兼備、質実剛健とお馴染みの四文字熟語が並ぶ。お母さんに言わせると中学生はかくあるべし、らしい。その感覚は何となく分かる。世界中の男子が全て彼の様になったら素晴らしい世界になると思う。まあ、それでも私は彼を選ぶけれど。
そんな訳でとても素敵な人で、入学以来ずっと気になって居た相手で、この前の席替えで近くになったのを幸いに授業中ずっと見ている様になった。授業はどうしたと言われるかもしれないが、受けていられるかと答えたい。気になる相手が近くに居るのに授業に集中できるだろうか。いや、出来ない。
とにもかくにも私は彼を観察している訳だけれど、これがとても楽しい。次々と新しい発見がある上に、既に発見した事も全く飽きる事無く新鮮に感じられる。これが恋の力だとポーズを決めたい気分だ。きっとポーズを決めれば背後が輝くか爆発するに違いない。とてもカラフルに。
私は自分のノートに視線を落とした、水野美子と書かれている。我ながら良い名前だと思う。誤解の無い様に言っておくと、私の名前は後藤美子という。この後藤というのはどうにも良くない。何となく田舎臭く、汗臭い。その点水野という名前は清々しい。水野美子ともなれば、何となく深い森の中にひっそりと広がる湖の様な感じた。水野が何処から来たのかと言えば、私の斜め前に座る彼の名前が水野洋人というからだ。誰でもやるでしょ、こういうの。水野洋人と水野美子、良い感じだ。
悦に入りながら斜め前を見ると、洋人君は万年筆で一生懸命ノートに書きつけていた。洋人君は真面目なのでちゃんと授業を受けている。誰しもちょっと位ボーっとしたりする事があるのに、洋人君はそんな事無くて、私が見た時はいつも──つまりいつでも、真面目に授業を受けている。特にこの国語の授業なんてプリントを見ておけばテストは何とかなるから、ほとんどが真面目に受けていないのに、洋人君は真剣だ。そこがカッコ良い。流石だ。
それに万年筆というのも真面目そうな感じだ。まあ、洋人君以外の男子が万年筆など使っていたところで、何カッコつけてんだという話になるけれど、その点洋人君は絵になる。ドラマのワンシーンを切り抜いた様なカッコよさ。流石である。
お昼休みの楽しさを心待ちにして先生の声は耳を素通りしていく。そんな静けさ。太陽が真上にある所為で教室は薄らと陰っている。そんな寂しさ。お終いの鐘ですぐにでも消えてしまうそんな静寂の中で、洋人君は真剣に万年筆でノートをとっている、私は真剣に洋人君の事を観察している。二人は同じ場所に居る。繋がっている。
「は? 告白する?」
向かいの友達が箸を止めて驚いた顔で私を見た。他の友達もみんな驚いて私を見ている。そんなに不思議か?
「無理でしょ、普通に。だって美子、まだ話した事も無いでしょ?」
「いや、私は今日確信した。行ける」
「何を根拠に?」
私としてはとても自信があるのだけれど、みんな分かってくれないみたいだ。
「そもそも席が近くなった時点で運命だったんだよ」
「運命ならせめて隣に」
「名前も、水野美子って良いでしょ?」
「分からんけど」
それからお弁当を食べている間、いかに可能性があるか力説したのだが、みんな分かってくれなかった。でも大丈夫。必ず上手くいく。そんな気がしてならなかった。
そしてそれを証明する様に早速チャンスが訪れた。
掃除の時間は班ごとに分かれて各掃除場を掃除する。班は席順で決められていて私は洋人君と一緒の班、理科室の掃除を受け持っている。班の人数は六人。けれど今、理科室には私と洋人君しかいない。一人は病気で休み。二人は呼び出し。一人は私の友達で気を使って何処かに行った。
そんな訳で今は二人だけ。間違いなくチャンスだった。告白するなら今しかない。
「あれ? 塵取り何処?」
洋人君が掃除用具入れの中を覗きながら言った。私は傍に置いていた塵取りを持ち上げた。
「こっちにあるよ」
「じゃあ、ここに集めたゴミ取って」
私はいそいそと洋人君に近付いてゴミを集めてゴミ箱に捨てた。もう掃除は終わりだ。折角の二人っきりだというのに、今の今迄全く喋れなかったけれど、何とか告白しなくては。
そう思うのだがどう告白して良いか分からない。恥ずかしながら白状すると私は今迄告白をした事が無い。告白をされた事も無い。つまりどうしていいのか分からない。私の持つ知識によると告白というのは、誰かに振られた時だとか、試合に負けた時だとか、肉親が無くなった時だとか、告白する方かされる方のどちらかが悲しくて泣いている時にすると成功するみたいなのだけれど、残念ながら悲しい事などまるでない。嘘泣きの技術も持っていない。つまりどうしていいのか分からない。
他にも告白の状況は思いつくのだけれど、そういうのは大抵長く一緒に居て打ち解けた末の事で、やはり今の私達にはそぐわない。
どうしたら良いのか分からないなりに、とにかく今しかないチャンスを物にしなければと、一先ず私は話しかける事にした。再び白状すると席替えから一週間、まともに話すのはこれが初めてになる。
そんな訳で特に話題が見当たらなかった私は万年筆について尋ねる事にした。一歩間違えれば授業中いつも見ている事がばれてしまうが、大丈夫、必ず上手くいく、そんな気がしてならないから。
「ねえ、いつも万年筆使ってるよね」
「ああ、悪いか?」
「別に悪くないけど」
何だか刺々しい。それに顔もそっぽを向いている。なんだか不穏な空気。けど、大丈夫。うん、多分。
「ただカッコ良いなって思って。私も昔万年筆使わせてもらった事あるけどうまく使えなかったし。慣れがいるんでしょ? もしかして昔から使ってるの?」
「使ってる……けど、何でそんな事聞くんだよ」
何故か怒り気味だ。何故かは分からない。
「何でって、聞きたいから」
「関係ないだろ? 何で聞くんだよ」
そりゃあ、私は万年筆とはまるで関係ない。けれど洋人君とは話したいのだ。
「だって洋人君と話したいし」
洋人君がそっぽを向いて黙り込んでしまった。更に怒ってしまった様だ。自分の気持ちを正直に伝えれば上手くいくと思ったのに、残念ながら現実は漫画の様に上手くいかないらしい。
そもそもどうしてこんなに怒るのだろう。そんなに怒らせる様な事を言った覚えはないのだけれど。万年筆が悪いのだろうか。万年筆を話題に出すと不機嫌になるというのも分からないけれど。もしかしたら万年筆に特別な意味があるのかもしれない。そうだ、洋人君にとって万年筆は誰かとの繋がりなのかもしれない。人との繋がりに口を出されるのは嫌な気持ちになる事が多い……気がする。となると万年筆で誰と繋がっているのだろう。まさか彼女なんて事は……まさか、彼女のプレゼントか? そう考えると授業中にいつも使っているのにも納得がいく。でも彼女が居る素振りは見えなかったのに。そんな噂聞いた事も無い。学外の人なのだろうか。
私が混乱していると、しばらくして洋人君がこっちを見てくれた。
「話すにしても他の話題があるだろ」
そう言われても万年筆の事が気になるのだからしょうがない。
「でも気になるの。他に使っている人なんていないのに」
「まあ確かに珍しいかもしれないけど」
「もしかして大事な人から貰ったの?」
彼女か? 彼女なのか? そう聞きたいけれど、勿論聞ける訳が無い。
洋人君は虚空を見上げて溜息を吐いて──私は嫌われたんじゃないかと不安になった──やがて静かな声音で言った。
「あまり人に話したくないんだけど」
そう言われると流石に追及できない。やっぱり彼女なのだろうか。周りに内緒にしていたのなら噂が出回らないのも頷ける。
追及できないけど知りたいなぁと思っていると、私の願いが通じたのか洋人君は先を続けてくれた。
「あの万年筆さ──」
覚悟を決めた。洋人君に彼女が居る事に対して。その彼女から洋人君を取り戻す為に自分を磨き上げる事を思って。かかってこいという格闘家さながらの気迫で私は洋人君の言葉を受け止めようとした。
「父さんの形見なんだ」
受け止めようとして、肩透かしを食らって、突然やって来たトラックに吹き飛ばされた様な衝撃を受けた。
私が何も言えずにいる間にも洋人君の話は続く。
「父さん、良く万年筆を使えると格好良いぞなんて言って俺に万年筆を使わせてさ。いつか良い奴を買ってやるなんて言ってて、俺も喜んでて」
「その……そのプレゼントがその万年筆?」
「そう。この万年筆を買った帰りに事故に遭って死んじゃったんだ。だからこれが父さんの形見で、それで何となく使ってた方が浮かばれるんじゃないかと思って」
「大事な物なんだ」
「ああ、父さんの形見だし、それに万年筆は使っている内に馴染むんだ。だから俺に馴染んだ万年筆は本当に世界でたった一つの物で」
重かった。想像のはるか上を越えた重さだった。上手く頭が働かない。私は洋人君の瞳を見つめながら、どうしてこの事を話してくれたんだろうと訝しんだ。自分で聞いておいて何だけど、ほとんど話した事も無い私に話す事じゃないと思う。それなのにどうして話してくれたんだろう。
そんな事を考えていると、やっぱり洋人君も言った事を後悔した様で、眼を逸らして俯いた。
「悪い。こんな事話しても困るだけだよな」
「う、ううん」
私は否定したがその後が続かなかった。何と言って良いのか分からない。ただ洋人君が話してくれたのだから、何とか私はそれを受け止めたかった。けれど何と言って良いのか分からない。一つ間違えれば、怒らせて二度と喋ってくれなくなる可能性もある。
ここは自分の気持ちを正直に伝えるべきだ。さっき失敗したけれど、今度はきっと上手くいく。
「あのね、もしも、もしも私だったら、やっぱり使ってくれたら嬉しいと思う。それが自分の好きな、大切な人が使ってくれるなら尚更嬉しいと思う。だからね、洋人君のお父さんもきっと喜んでくれていると思う」
そりゃそうだ。喜んでくれているに違いない。喜ばないはずが無い。もしも私だったら喜んで踊り狂っている。
さあどうだ。これが私の感じた素直な感想だ。出来れば怒らないでください。と祈っていると、
「ああ、ありがとう」
洋人君は素っ気ない返事をしてくれた。やっぱりというか、何というか、部外者の私が言ったところで心には響かなかったみたいだ。とはいえ、怒られなかっただけ良かったのかもしれない。やっぱりこの話題は重すぎる。
チャイムが鳴った。掃除の時間は終わりだ。残念ながら告白は出来なかった。
洋人君が持っていた箒を用具入れに仕舞った。更に私に手を差し出して来た。それが箒と塵取りを差し出すように言っている仕種だと気付いて、私は箒と塵取りを渡した。洋人君はそれを手に取って、掃除用具入れに仕舞ってくれた。やっぱり怒っていない様だと安堵する。っていうか、優しい。カッコ良い。
掃除用具を片付け終わって理科室を出た。私は洋人君の隣を歩く。何となく恋人になった気がした。見ろ、愚民共。今私は洋人君の隣を歩いているのだぞ。という高揚した気分になった。しかし辺りには誰も居らず、万雷の拍手はやって来ない。それが少し残念に──。
ん? と天啓を受けた。今もまだ二人きり、継続してる。そうチャンスは終わっていない。そう気が付いた私は何だか一気に緊張した。どうにかして、告白まで持って行けないだろうか。そう燃え上がったのだが、
「さっきの話なんだけど」
洋人君に話題を戻されて一気に沈下した。流石に形見の話の後に告白をするのはハードルが高い。
「うん」
「恥ずかしいから、誰にもばらさないでくれ。誰にも話した事無かったんだ」
「絶対誰にも話さない!」
私と洋人君だけの秘密。その蠱惑的な感覚が私の気分を、話題の重さを跳ね除けて、浮き上がらせた。私が力強く答えると、洋人君は笑った。その笑顔に溶かされて、私は崩れ落ちそうになった。鼻血が出そうだ。
「ありがとう」
そう言って、洋人君は廊下の先に居た友人のところへ行ってしまった。私はトイレに駆け込んで鼻血が出ていないか確認した。幸い出ていない。いきなりあれは反則だ。廊下から聞こえてくる足音や話し声が盛大な拍手の音に聞こえてきた。
こうして私は洋人君と二人だけの秘密を持った。そりゃあ、傍から見たら何て事の無い秘密なのかもしれないけれど、私にとっては嬉しかった。
秘密を交わした後、午後の休み時間にこんな事があった。洋人君は先生が出て行ってからもまだ何かノートに取っていて、私はそれを眺めていた。そうしてようやく終えたのか、顔を上げるとふと後ろを向いて、私と目が合った。そうして微笑んだ。
私にはその笑顔の意味が分からなかった。どうして微笑んでくれたのか分からなかったけれど、分からないなりに私も微笑んで、二人はほんの一時だけ笑顔で繋がった。それはとても──
「幸せだったんですけど!」
「うぜえ」
帰り道、友達と帰りながら私は今日の事を話していた。勿論秘密の事は内緒で。
「つーか、何? 結局告白は出来なかったの?」
「うん! それはもうばっちりと!」
「どっちだよ」
「出来なかった!」
「何で嬉しそうなんだよ」
「だってそれ以上に大切な物を手に入れたんだもん」
「うぜえ」
「死んでよ、美子。頼むから」
みんなの視線が楽しい。はっはっは、崇め奉れと言いたくなる悪役な気分。今まさに世界はバラ色に染まっている。多分、瞳の中に沢山の星が書き込まれているに違いない。
「てかさ、別に付き合い始めた訳じゃないんでしょ? 浮かれすぎじゃない?」
「だよねー、てかあの洋人君だよ? 普通に彼女いるんじゃない?」
「そんな事無いよ! だって、私と洋人君は運命の絆で結ばれてるんだから!」
「はあ。何であの硬派な洋人君がこんなアホに靡いたんだろ」
「女の子とはほとんど話さない感じだったのになぁ」
「へっへっへ、まあ、あたしの可愛さ故に」
「うぜえ」
あからさまな嫉妬をぶつけてくる友達に優越感を覚えつつ私は、ショッピングモールへ向かった。向かう途中にふと思い立つ。もしかしたら洋人君が使っているのと同じ万年筆があるかもしれない。買える様なら買って、お揃いにするのも悪くない。
「なに想像してんの?」
「にやにやして気味悪いんだけど」
「んー、何でもない」
文具店を探して歩いていると、洋人君が歩いているのが見えた。洋人君も買い物に来てるんだ。ちょっと意外な気がした。何となく洋人君は普通の人が歩く所は歩かない気がしていたから。
「行ってきな」
「え?」
「あそこに噂の彼が居るじゃん。あたし達の事は気にせず行ってきなよ」
「うん! ありがとう」
「やれたら感想聞かせてね」
「絶対に嫌!」
そうしている内にも洋人君はお店の中へ入って行った。それは文具店だった。もしやと思う。私は何となく気が咎めて、気付かれない様に洋人君の後ろについて歩いた。洋人君は店内を歩き回って、やがて立ち止まった。私も立ち止まる。洋人君が何かを一心に見つめている。その視線を追うと、案の定、洋人君の使っている万年筆があった。値札を見て、驚いた。
「高っ」
まさか万年筆に六桁後半の数字が付いているとは思わなかった。お小遣いの何年分か分からない。流石に買える額ではなかった。
と、私の声に気付いて、洋人君が振り向いた。
「お前」
「見かけたからついてきちゃった」
洋人君が溜息を吐いた。
「まあ良いけど」
「万年筆って高いんだね。びっくりしちゃった」
「これは本当に良い物だから」
「私も使ってみようかなぁなんて思ってたんだけど、これじゃあ無理そうだね」
「もっと安いのもある」
「へえ、どういうのが良いの? 出来れば見繕ってもらいたいんだけど」
「用途によるんだろうけど。本格的に使うのか?」
「分かんない!」
流石に洋人君の様にいつでも使うのは大変な気がする。
「ファッションで持つなら見た目で選べばいいんじゃねえの?」
「見た目かぁ」
私は適当に辺りをうろついて品定めしていった。何となく重厚というか、質素でいて高そうなデザインが多い気がする。良く分からないけど、そんな感じがする。でも私には合わなそうだ。可愛らしいデザインを探してみると、今度は妙に安っぽい。百均で売ってそうだ。これでは万年筆通の洋人君をがっかりさせてしまう気がする。
迷っていると、その中に一つ良いのを見つけた。水色を基調にした万年筆で、何となく丸みを帯びていて可愛らしい。けれど決して安物といった感じではない。これは良いのではないかと思った。
「それが良いのか?」
気が付くと後ろに洋人君が立っていた。
「うん、何か可愛い」
「良いんじゃないか?」
心の中で拳を握る。正解だったみたいだ。
「字幅も細いみたいだし。買うの?」
値札を見る。そして諦めた。さっきの六桁に比べれば、二つ少ないが、それでも五桁に届きそうな値段は買える物じゃない。
「きょ、今日は止めとく」
見栄でお金が無いからとは言わなかったが、きっと気付かれているだろうなと思った。思った通り、洋人君は容赦なく言った。
「まあ、ちょっと高いからなぁ」
「う、うん。だからお金貯めてから買う事にするよ」
こうして私は『学内でただ二人の万年筆愛用者』の称号を諦める事にした。今回は。待ってろよ万年筆という決意を残して、私は洋人君と帰路についた。ちなみに、帰り道、ちょっとは話せたけど、特にこれといった進展はなかった。あ、でも、洋人君の家の方角が分かったのは嬉しかった。
それから幸せな日々が続いた。眼が合えば笑い合う関係。話す事も多くなった。まあ、元々がゼロだったから増えたのは当たり前なのだけれど、他の女子に比べて一歩先んじていると思う。一緒に下校する事も──もう少しで出来そうな雰囲気だ。もうちょっとだと思う。この前はショッピングモールから一緒に帰ったのだし。
そんな訳でとても順風満帆だった。
「まあ、仲良くはやれてんじゃん?」
「正直こうなるとは予想外だった」
「どうせ振られると思ってたのに」
何だか酷い事を言われている気もするが、今の私にはそんな攻撃効く訳が無い。最近は他のクラスの人からも羨望を受ける事がある。私としてはとても鼻高々だ。これも全部万年筆のお蔭。万年筆の秘密が私と洋人君を繋いでくれている。感謝してもしきれない。
早く万年筆買いたいなぁなんて考えていた時、事件は起きた。
「ふざけんなよ、てめえ!」
突然教室が騒然となった。
見ると、洋人君がいつも一緒に居る友達と口論をしていた。いや、口論というよりは、友達の方が一方的に怒鳴っている様だった。
「ふざけちゃいない。全く知らない」
そう洋人君は冷静に答えているのだが、
「見たって奴が居るんだよ!」
友達は収まらない様で、いきり立っている。
教室中の誰もが固唾をのんで見守っていた。誰もが手出しできない様だった。私もまた怖くて動けない。
しばらく口論が続いていたが、やがて友達は業を煮やしたのか掴みかかろうとした。だがその手を洋人君があっさりと跳ね除ける。それが引き金となって友達の怒りは爆発した。
「ふざけんじゃねえよ! 大体何だよ、これは!」
そう言って、喧嘩とは関係の無さそうな洋人君の万年筆を掴み揚げた。
「あ」
私は思わず声に出していた。洋人君も同じ様に声を出して立ち上がった。
それは大事な大事な万年筆。怒った友達はそれをどうするというのだろう。
教室中の人々が一歩も動けずにいた。私も洋人君のピンチだというのに、体が動かなかった。もしかしたら友達が万年筆を床にでも叩きつけて壊してしまうかもしれない。それなのに私は動けなかった。
幾ら頭にきていると言っても、洋人君の親の形見を壊したりはしないだろう。一瞬そう思って、でもすぐに思い出す。あれは誰にも内緒の話だった。つまり洋人君の友達にとってあればただの高い万年筆でしかないのだ。もしかしたら値段の事すら知らずに、気取りの為の安っぽいアイテムだとでも思っているのかもしれない。
その時私の中で秘密をばらせという声が湧いた。そう、知らないのであれば教えれば良い。この場で万年筆が洋人君にとっていかに大事な物であるかを伝えれば良い。そうすればきっとあの万年筆に傷を付けようとはしないだろう。けれど一方で胸の内に新たな声が湧く。あれは二人の秘密なのだ。秘密を教えてはならない。それにもしも秘密をばらして秘密でなくなったら、私と洋人君の絆が無くなってしまう。
そうして私がまごついている間にも事態は動き、逆上した洋人君の友達は万年筆を外に向かって投げ捨てた。万年筆はその重みの割にはあっさりと教室の外へ飛び出て、そのまま下に落ちて消えた。本当にあっさりと万年筆は消えてしまった。
消えてから私は恐る恐る洋人君の顔を見た。大事な万年筆を捨てられた洋人君がどんな顔をしているのか。何だか見るのが怖い。だが見なくてはならない。だから恐る恐る顔を見てみると、窓の外を見つめる洋人君の顔はとても悲しそうな顔をしていて──当たり前だ捨てられた物の重さを考えれば──投げ捨てた友達もすぐにその表情に気付いた様ではっとして気まずそうな顔をして、教室の何処からか息を呑む音が聞こえて、そうしてしんとした教室の中で、私は何だかやるせなくなって、居ても立っても居られなくなって、だから私は教室の外へと飛び出した。
心の中にまだ間に合うかもしれないという思いがあった。そうまだ間に合うかもしれない。今から走って階段を降りて、外に飛び出せばまだ間に合うかもしれない。万年筆を受け止められるかもしれない。だから走って、階段を三段飛ばしに駆け下りて、前に立つ生徒を弾き飛ばす勢いで駆けて、上履きのまま玄関の外に飛び出して、そして空を見上げた。
当たり前だけど空の何処を探しても万年筆は落ちてこなかった。代わりに私の教室のベランダから複数の顔が覗いている。私はその視線を追って辺りを探して、生垣の中にそれを見つけた。
見つけた途端悲しくなった。どうしてこうなったのか。万年筆は二つに割れていた。思わず拾い上げてくっ付けようとした。当たり前だけどくっ付く訳が無かった。
「父さん」
振り返ると、無表情の洋人君が立っていた。何となく目の端が煌めいた気がするけれど、それは多分気の所為だと思う。
洋人君は私に手を差し出した。私がその手の上に折れた万年筆を乗せると、洋人君は握りしめて消沈した様子で校内へと戻っていった。私はその後に続いて何とか励まそうと言葉を探し続け、結局教室に辿り着いても尚、馬鹿な私には励ます言葉が浮かばなかった。
洋人君はあっさりと友達を許した。必死な様子で謝る友達を洋人君は笑って許した。許したのだが、きっと友達は許されたと思っていない。傍から見ても許した様には見えなかった。落ち込みながら、あまりにも沈んだ声で、儚げな笑顔と共に、絞り出す様に発した「別に気にしなくて良いよ。そんな大した物じゃないし」という言葉は単なる諦めの言葉でしかなくて、多分全てがどうでも良くなったのだと思う。
声のかけづらい雰囲気があって、当事者以外は誰も近付く事が出来ずに遠くから見守っている。当事者である洋人君は落ち込んで座っていて、当事者である友達は必死に謝り続けている。だから教室の中には延々と謝罪の言葉が響き続けている。私はというといたたまれなくて仕方が無かった。
チャイムが鳴って授業が始まった。教室は波が退く様に、沈んだ雰囲気を残しながらも、いつもの授業風景へと早変わりした。そんな中で私はいつもと同じ様に洋人君を見て、その落ち込んだ様子にとても胸が痛くなった。
何となく気乗りがしなくて、友達の誘いを断って、私は一人で学校を出た。何だか考える事が億劫で、ぼんやりとしながら歩いていると、いつのまにかショッピングモールにやって来ていた。ここには洋人君の万年筆がある……そう思っている間にも、私の足は文具店に向かう。
文具店の中には、当たり前だけれども、前に来た時と同じ様に沢山の事務用品が在って、私は歩きながらふと、これらの商品は未だに何の思い出も無い真っ新な状態なのだなと思って、何だか悲しくなった。今私を取り囲む文房具達は世界に幾らだってあるけれども、私の筆箱の中に入っている文房具はどれもこれもこの世に一つしか無くて、洋人君の万年筆もあれだけで、ここにあの万年筆を求めに来たところで、外見ばかりが同じだけの全く別の物しか売っていない。
無意識の内にここまでやって来たけれど、無意識なりの自分の考えがぼんやりと分かって、その無意味さが浮き彫りになって、何だか嫌になる。洋人君だって分かっているはずだ。ここに来たって意味が無く、ここに売っている万年筆を買ったってしょうがない。普通に考えたら洋人君がここに来ているはずが無い。ここに来たって形見の万年筆は手に入らないんだから。それどころか、下手に外見だけ同じ物があるだけ満たされない心が強くなる。だからむしろ来ないはずだ。居ないはずだ。居て欲しくない。
万年筆のコーナーで悲しげに立ち尽くす洋人君を想像して、そんな嫌な想像を振り払いながら私は万年筆のコーナーまでたどり着いて、そこに洋人君を見つけて何だか泣きたくなった。
万年筆の前で立ち尽くしている洋人君が何を考えているのかは分からない。真っ青な顔色の無表情で万年筆を見つめ続けている。
私は遠くからしばらくその様子を眺めて、眺めている内にぼーっとしてきて、それから急に正気付いてはっと思考が蘇った。
何か声を掛けなくちゃ。
はっきり言って、とても声を掛け辛い。何て言って良いのか分からない。でもこういう時に無視をしては駄目だ。私が洋人君の話を聞いてあげればその分、洋人君の沈んだ心が軽くなるはずだ。だから声を掛けなくちゃいけない。ここで立ち止まっていてもしょうがない。何だか緊張するけれど、ここは何も考えず当たって砕けるまでだ。
「洋人君」
私が呼ぶと、洋人君はゆっくりと振り向いた。
何となく、無理をしてでも笑ってくれる気がしていたのだけれど、洋人君の表情は相変わらず無表情のまま。苦しそうな表情でも悲しそうな表情でもないのに何だかとても儚げで、消えてしまいそうというよりは、今にも死んでしまいそうだった。
「ああ、お前か」
何も考えずに来た弊害が早速現れた。何を喋ろう。次に出す言葉が思い浮かばない。また前と同じ様に万年筆の話? それは幾らなんでも酷い。慰める? 洋人君の落ち込み様を見ると、私が何かを言っても逆効果にしかならない気がした。では全然別の話? それも白々しい。
何て言おう。どうしても洋人君に掛ける言葉が思い浮かばない。洋人君は無表情で静止している。何かを喋り出す気配は無い。私から何か言わなくちゃ。そう思うのだが、言葉が出ない。思い浮かんではいる。けれどその思い浮かんだ言葉は想像の中で片っ端から撃沈して、結局口の端には上らない。
しばらくして洋人君は私から眼を逸らした。
「悪い。一人にしてくれ」
そう言って、私の横を通り過ぎて帰っていった。
私は一人取り残されて立ち尽くし、そうして死にたくなった。たった今、洋人君と見つめ合っていた時の事を思い出してみる。普段であったらとても幸せな事のはずなのに、今さっきの時間はなんて辛かったのだろう。
洋人君の色の抜けた顔が思い出される。でも悲しそうではなかった。どこまでも無表情だった。そこで私はようやく気が付いた。ああ、そっか。洋人君は悲しんでいた訳じゃないんだ。だから悲しい顔も辛い顔もしていなかったんだ。洋人君は怒っていたんだ。だからさっき何も話してくれなかったんだ。洋人君は私の事を怒っているんだ。だからさっき笑ってくれなかったんだ。
私ははっきりと気が付いた。そっか、万年筆が壊れたのは私の所為なんだ。
今日もまた私はいつもの通り、洋人君の事を見つめ続けた。けれど洋人君はやっぱり無表情で、こちらに笑いかけてはくれなかった。振り向いてすらくれなかった。やっぱり怒っているんだ。
私が壊したから。私がその万年筆は形見だと言っていれば万年筆が壊れる事は無かった。私は洋人君との繋がりが壊れそうな気がして、それが嫌で、我が儘でもって、洋人君の万年筆を壊してしまった。だから怒っているんだ。
私の所為だ。もしかしたら嫌われてしまったのかもしれない。それは嫌だ。許しもらいたい。でもどうすれば良い? 万年筆は買えない。高すぎるし、それに私が買ったところで意味が無い。だってあれば洋人君のお父さんが買った物だから意味がある。私が買ったところでそれはただの高い万年筆でしかない。それなら何か他の代わりになる物を用意すれば。けれどそれだって、やっぱりお父さんの形見に代わる物じゃない。ならどうすれば……。何か代わりに、壊れてしまった形見の万年筆の代わりになるもの……壊れてしまった形見の……。
ああ、その手があった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。お昼休みが始まる。丁度良い。
私は急いで屋上へと向かった。
お昼休み、皆がお昼ご飯を食べているいつもの光景で、二つだけ違う所があった。一つは洋人の周りに誰も居ない事。腫物を扱う様に皆が避けていた。もう一つは美子とその友達が居ない事。これは何故だか分からない。クラスの皆は最近洋人と美子の仲が良かったし、昨日の事で落ち込んで何処かに行ったのだろうと考えていた。
そんな訳でいつもより沈んだ昼食が続いていたが、そこに一人の闖入者が現れた。美子の友達の一人だった。美子の友達は真っ直ぐに洋人の所まで来て、そっと耳元に口を寄せた。
「ちょっと来て」
洋人は意味が分からず、固まる。突然何の用だろうと。その様子に焦れて、美子の友達は囁き声のまま怒鳴りつける。
「良いから、さっさときな。あんたの所為で美子が死にそうなんだよ」
「何?」
流石に立ち上がって、それでも訳が分からずにいる洋人を、美子の友達は引っ張って教室の外へと連れ出した。
「ちょっと待て。何であいつが死にそうなんだ」
「知らないよ、そんなの! 美子があんたの為に天国のお父さんにお願いしに行くって屋上に行ったんだ」
「何だよそれ。まさか」
その後は言葉にならなかった。焦った様子で二人は歩く。屋上の鍵は開いていて、扉の向こうでは他の美子の友達が美子を取り囲んでいた。
「連れてきた!」
「待ってた! でもそんな心配なかったみたい!」
「むしろこいつの頭を心配した方が良い感じ!」
美子は膝を突いて、祈る様にして天を仰いでいる。その肩を友達が叩いた。
「洋人君が来てるよ」
「え?」
振り返って、洋人の顔を確認した美子は慌てた様子でまた天に祈り始めた。洋人は訳が分からずに美子に近付いた。
「俺の為って……何してるの?」
「これは……その」
美子が何だか気まずそうに洋人を見て、それから周囲に居る友達を眺めまわしてから、また祈りの姿勢を、天国ではなく友達へと向けた。
「ちょっとごめん、みんな。洋人君と二人にさせて」
「初めからそのつもりだったけど」
友達が屋上から去っていく。二人っきりなった美子は頭を撫でつけてからゆっくりと言った。
「ごめんね、万年筆」
「万年筆の事なら別にお前は」
「だってあの時あの万年筆が洋人君のお父さんの形見だって言えばきっと捨てられる事はなかったのに」
「それはお前の責任じゃないだろ。それより何してんだ?」
そう言って、洋人は膝を突く美子を改めて見た。よくよく見ても何をしているのか本当に分からない。
「あ、これはね、万年筆の代わりにって思って」
「まさか自殺でもする気じゃ」
「そ、そんな事する訳ないでしょ! そうじゃなくて……あのね、本当なら万年筆を洋人君に返してあげたいけど、高くて買えないし、お父さんから貰う物じゃなくちゃ意味が無いでしょ?」
「……まあな」
「だからね、万年筆は無理でもその代わりの物を、洋人君のお父さんからプレゼントしてあげられればって思って」
「は? だから俺の父さんはもう」
「だから、天国に居る洋人君のお父さんに、私を洋人君にプレゼントしてくださいってお願いしてたの!」
「いや、意味が分からない」
言っている事は分かるけど、何でそんな結論に至って実行しようとしたのか。心の底から洋人には分からなかった。
洋人の疑問を受けて、美子から
「え? 何で?」
更に純粋な疑問が発せられた。それに洋人は面食らった。
「冗談でもふざけてる訳もからかってる訳でも無いのか? 本気でやってんの?」
「勿論! 待ってて、もうちょっとでオーケーがもらえる気がするから」
そう言って、また美子は祈り始めた。
「あの世の父さんにお願いして別の何かを形見にっていうのは分かった。納得できないけど、分かった。でも何で自分を差し出そうとしてるんだよ。お前の友達も自殺でもするんじゃないかって勘違いしてただろ」
「だってさ、他の物じゃまた壊れちゃうかもしれないでしょ? その点私は丈夫だし! まだ風邪ひいた事も無いし! そんな訳で私が洋人君の大切なものになって、ずっと傍に居てあげるか!」
そう笑顔で言い切った美子を見つめて、見つめて、しばらく呆けた様に洋人は美子を見つめ続けて、屋上の時間がぴたりと止まった。
しばらく二人は見つめ合い続けて、止まった時の中で二人はそれぞれの思考を巡らせながら、どちらも何も言わずに、相手の事を見つめ続けて──。
やがて洋人が笑い出した。腹を抱えて笑いながら、美子の頭に手を置いて顔を覗き込む。
「分かった。お前馬鹿だろ」
「ば、馬鹿じゃないよ!」
「いや、ぜってー馬鹿だよ」
そう言って益々笑う。美子は初めこそ怒っていたが、洋人の笑いが心の底からの嬉しそうな笑いだったので、満足して笑った。
やがて少しだけ笑いを鎮めてから洋人が言った。
「何か清々しい」
「そう?」
「ここまで馬鹿だと」
「もう!」
「でもさ」
そこで不意に洋人は真剣な表情になった。その急変に驚いて、美子の顔もまた引き締まる。
「それで、本当に良いのか? 俺の物になるなんて祈ってて」
洋人の問いに、美子は何だそんな事かと胸を張って答えた。
「だって洋人君とずっと一緒に居たいし!」
言い切る美子に、洋人はたじろいだ。
「良く恥ずかしくないな、そんな事言って」
「え? あ、うん、でも」
美子の顔が赤くなる。良く見ると、洋人の顔も赤くなっていた。
「聞こえた」
洋人が言った。
「何が?」
美子が聞いた。
「父さんの声、聞こえたよ」
「ホントに? 何て言ってた?」
「えっと……」
言葉が途切れた。
「だから……お前をくれるってさ」
「ホントに? 洋人君は受け取ってくれるの?」
美子の嬉しそうな表情に、洋人は一瞬戸惑って、それからはっきりと宣言した。
「受け取る」
洋人の決意を聞いて、美子の顔がぱっと明るく弾けた。
「やった!」
美子が叫んで飛び跳ね始めた。それを洋人は呆れた顔で見つめた。
「お前、ホントよく恥ずかしくないな」
「だって嬉しいんだもん」
「まあ、とにかく、そういう訳だから」
「うん!」
「一緒に居てくれると嬉しい」
「勿論! 浮気なんて絶対にしないよ!」
美子がまた元気に言った。けれど洋人から反応が無かった。
美子が洋人を見ると、洋人は何故か落ち込んだ顔をしていた。美子は不安になる。やっぱり私くらいじゃ万年筆に吊り合わなかったのだろうかと。
「どうしたの、洋人君」
「いや、昨日の喧嘩がさ、何か俺があいつの彼女と浮気してるって勘違いされた所為で」
そう言いながら、洋人は屋上と階段を繋ぐ扉へと歩き出した。
「浮気?」
「勿論してない。何だか一緒に居た所を見たって話なんだけど。でもそれって──お前と店で万年筆を見てた時あるだろ? 丁度あの時らしいんだよ。ありえないだろ? 俺はお前と居たんだし」
「私とその彼女を見間違えたとか?」
扉を開けると誰も居ない。美子の友達は美子が跳ねだしたのを見て、空気を読んで既に教室に戻っている。
「全く似てない。遠目に見たって、あいつの彼女は長い茶髪だからお前の短い黒とじゃ見間違える訳ないし。そもそも見られた場所が全然違うし」
「なら洋人君と誰かを見間違えたんじゃないの?」
「ああ、見たのはあいつの彼女の友達だって言うし、俺と誰かを見間違えたと思うんだけど、あいつ信用してくれなくてさ」
「そっか」
落ち込む洋人を慰めたくて、美子は何か言おうと思ったが、やっぱり何も言えなかった。全然支えになれていない。私って全然万年筆と吊り合ってないなぁと美子は落胆した。洋人は洋人で伴侶となった相手に男らしくもない愚痴をこぼしている自分が恥ずかしくなって、黙り込んだ。二人して無言で階段を降りる。階段を降りて、教室へと戻る。その途中に、万年筆を投げた友達が立ち塞がっていて、
「洋人!」
そう叫んだ。何だか気勢が荒い。今にも殴りかかって来そうだ。荒い息を吐きながら厳しい表情の友達を前に、美子と洋人は立ち止まった。
まさか喧嘩? 美子が不安な面持ちで洋人を見ると、洋人は緊張した表情で友達を見ていた。
美子は、どうなるんだろうどうなるんだろうと混乱し、何も怒りませんようにと神様に祈り始め、最終的に殴り合いになったら洋人に加勢しようと決めた。洋人は何とかして誤解を解けないかと考えに考えて、とにかく謝ってみようかと思い、もしも喧嘩になったらその時は美子を守らなければと決意した。
友達は──大きく息を吸って、
「すまん!」
そうして物凄い勢いで頭を下げた。
「え?」
洋人と美子の口から同時に間の抜けた声が出た。
「悪かった。何か全部勘違いだったみたいで。本当にすまん!」
洋人はしばらく驚いていたが、やがて笑顔になった。
「誤解が解けたなら良いって」
「いや、本当にすまん。聞いたらあの万年筆無茶苦茶高い物なんだろ? 一生かかっても弁償するから!」
「いや、だから本当に良いよ」
「でも」
「もう代わりは貰ったから。な?」
そう言って、洋人は美子を見た。美子の心臓が大きく跳ねて、一気に体が熱くなって、誇らしい気持ちになった。
「だから問題無し」
洋人が友達の頭を叩いた。今度は友達が呆ける番だった。
「あんま気にするなって」
洋人がすれ違い、その後に美子が続く。
カッコ良い。美子は心の中で洋人を褒め称え、更に叫び声を聞いて集まって来た群衆に向かって、これが私の彼氏だぞと声には出さず盛大に自慢した。声に出さなかったので誰にもその自慢は聞こえなかったが、美子は何となく皆の羨望が自分に向けられている気がした。実際聡い者は二人の関係を見て取って歯噛みした。
かくして残念ながら万年筆は元に戻らなかったけれど、それなりに収まる所に収まって、事態は収束した。
美子はあの後、美子の友達に囲まれて、嫉妬と怒りと諦めと無茶振りと、後ほんの僅かの祝福に晒されたが、無敵となった美子はそれらの些細な攻撃を全て受け流した。
美子と洋人との関係は、少なくとも学校の中での接し方に大した変化は起きなかった。相も変わらず美子は授業中洋人を観察し、洋人はとりあえず購買で買ったボールペンで授業を受け、休み時間中はほんの少し話し、やっぱり下校は別々。
そうして付き合い始めてから初めての休日が来て、彼氏らしく、彼女らしく、二人はそんな事を思いながら、初めてのデートに挑んだ。
待ち合わせの時刻のずっと前、美子が待ち合わせ場所に行くと既に洋人が待っていた。
「ごめん。お待たせ」
美子が駆け寄ると、
「俺も来たばっか」
そう言って、洋人は笑顔で迎えた。
とりあえず他愛ない話をしてから、美子が聞いた。
「それで、何処に行くの?」
急く美子を洋人が制した。
「その前にちょっと良いか」
「何?」
「これ」
そう言って、洋人は包装されたプレゼントを取り出した。
「私に?」
「勿論」
「中身は?」
「開けてみろよ」
美子は出来るだけ丁寧に包み紙のテープをはがすが、途中で包み紙が引っ張られて少し破けた。慌てだす美子を見て、洋人が笑う。
ようやく包み紙を取り終え、中の箱を開けると、中から美子が欲しいと願っていた水色の万年筆が出てきた。
「これ」
「欲しがってただろ? 気に入ってくれると良いんだけど」
「勿論気に入るよ! でもどうして?」
「そりゃあ、素晴らしい物を貰ったんだからそのお返しに。釣り合ってないのは分かってるけどさ」
洋人が笑った。美子も笑って、そして首を振る。
「吊り合って無い事なんてないよ。むしろ私の方が安物だもん」
洋人は美子の言葉を否定しようとしたが、美子の笑みがそれを制した。
「でもね、私は」
はっきりと宣言する。
「すぐに洋人君に馴染むから。馴染んであの万年筆と吊り合う彼女になっちゃうから」
満面の笑みではっきりと。
「期待しててね」