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触手さんさく よかんの夜道(私小説? 風ファンタジー)

 卵のパックを取ろうと伸ばした私の手がふと止まった。何の気なしの行動で自分でさえその行動の意味が分からなかった。止まった腕を動かして卵を手に取って、ようやくその理由が見えた。どうやらいつもとの違いに戸惑った様だ。

 卵はいつもよりもずしりと重く、良く見るまでも無く粒が大きかった。実家近くのこのスーパーはどうやら気前がいいらしい。粒は大きく数も同じなのに、自分のマンションの近くに立つスーパー達よりも余程安かった。

 プラスチック容器に収まる卵を見ていると、不吉な予感がした。安さの所為だろうか。外見は変わらないのにいつも買っている卵よりも不潔で粗悪な気がした。黄身の表面にびっしりと血管が詰まっている気がした。大きすぎる所為か、すぐに割れそうな脆さを感じた。

 卵一パックだけを買って店を出ると、雨が止んでいた。曇り空で星はほとんど見えないが、月だけが大きく照っていた。満月だった。明るい夜だ。

 聞いた話を思い出した。満月の夜は明るいから、夜行性でない動物が這い回る。それを狙って夜行性の動物がいつもより活発に動く。それを聞いた時、人の作った街並みは絶えず明るいのだから、常にそういった獣が獲物を探して歩き回っているのではないかと思った。馬鹿げた考えだと思ったが、獣でなく犯罪者に置き換えればその通りな気もした。

 何処かで犬の遠吠えが鳴った。それに合わせて、別の犬達が幾度か吠えた。ついで悲鳴も聞こえた。この辺りはうるさい。自分が今住んでいる町よりも幾分都会だからそういう物なのかもしれない。一人暮らしを始めて早数年、地元だったこの町が見知らぬ町になりかけていた。何だか色々とこの辺りの事を忘れはじめている。多分もう少ししたら写真の中の故郷になるのだろう。親が居なくなったらそれは色褪せるに違いない。

 道の向こうからタンクトップを着た男性が歩いてきた。下はショートパンツで露出が多い。私はというとまだ残暑の季節だというのに、いつもの通りのロングスカートで上は七分丈のTシャツを着ている。手首まで隠れていないのが私の精一杯の露出だ。これが限界だった。自分の体を見せるのが怖い。そんな異常な自分が嫌だった。あの人は私よりも少しだけ若いから体を見せていられるんだと言い訳している自分が居た。

 男性はすれ違う時に私のスカートを見た気がした。そして顔を顰めた気がした。自意識過剰だろうか。すれ違ってからどきどきと心臓が強く脈打ち始めた。自分の体を見下ろして何度も確認する。何処からも触手は出ていない。きっと私の勘違いだ。あの人がスカートの中を見透かして、中に詰まった触手を見たなんて。超能力者じゃないんだし。

 でももしかしたら、なんて馬鹿な事を考えつつ、歩いていると道の向こうから女の子が走って来た。遠目に見ても目立つブロンドが日本人で無い事を主張している。近付くにつれて、その幾何学的な美しい顔が良く見える様になった。自分等とはまるで違う。それどころかそこらの人間とまるで違う。次元の違う美しさだった。人を見れば羨望を憶え、自分もあんなだったらと憧れてやまない私でさえ、その女の子に憧れを感じる事無くただ見惚れる事しか出来なかった。羨ましさなど感じる余地が無い位、私とその女の子は隔たっていた。

「助けて下さい!」

 そう言っていた。唐突な言葉に私は最初その意味が良く呑み込めなかった。縁の無い言葉であったし、異国の少女が流暢な日本語を喋っている事も奇異と言えば奇異で、何だかずれた印象のある言葉を中々受け付けられなかった。

 しばらくしてようやく意味が呑み込めてきた私は後ろを振り向いた。女の子の知り合いが私の後ろに居るのかと考えて。だが居ない。とすると、私に助けを求めているのだろうか。そんな訳ないと思いつつ、振り向いていた体を戻すと、女の子はすぐ近くにまで寄って来ていて、私に向かって懇願する様な表情を見せていた。

 女の子は私の前に立つと一瞬前までの懇願する表情から、唐突に疑わしげな表情に変わった。もしかして私の事を気味が悪いと思っているのかな。そりゃあ、こんなに綺麗な子だもんな。周りに居る人も綺麗な人ばかりなのだろう。私みたいな醜いのが居るなんて信じられないのかもしれない。そんな諦めの気持ちで少女の視線を受けていると、女の子はまた表情を変じて、今度は不安そうな怯える様な表情になって、一度背後に視線をくれてから私の事を見上げてきた。思わず心臓が高鳴った。

「助けて下さい」

 女の子がそう言った。私の胸よりも一段低い所から見上げてくる眼には確かな恐怖が染みついている。しかし私が夜道を見渡しても女の子に危害を加えそうなものは無い。綺麗な子だし変質者か何かに出会ったのかなと思うのだが、変質者の影も形も見当たらない。

 女の子は私の反応が無いのに焦れたのか、苛立たしげな表情になって何度か背後を振り返った。だが私がそちらを見つめてもなにも居ない。そういえば先程悲鳴があった。あれを発したのが目の前の女の子なのだろうか。すると直前に犬の吠え声が上がっていたし、犬にでも追いかけられたのかもしれない。けれど犬の姿だって見えない。女の子はどうやら心の内の不安に追われている様だった。

 そこで、なにも居ないのだから安心する様に言おうと思った。が口ごもった。あまり人と喋り慣れていないのと、目の前の女の子がどれほど日本語を理解出来るのか分からないのとで、咄嗟に何と言って良いのか分からなかった。女の子の発音は綺麗なので日本語が達者なのかもしれない。もしかしたら難しい言葉が分からない位かも。それなら平易な表現で言えば。という希望はもしかしたら日本語はほとんど分からないかもしれないという不安ですぐに塗り潰される。何て言ったって外国人なのだし。もしも何か言って、分かって貰えないとすればとても恥ずかしい。そうして英語で言い直す様な事になったら最悪だ。私は英語が喋れない。

 どうしようかと悩んでいると、女の子は涙の浮かんだ目で一度私を睨みつけると、また背後を気にしてから、そのまま私の横をすり抜けて何処かへと駆けていった。女の子を引き留めようとスカートの内から触手が漏れた。それを私は必死で抑えつけた。これでは私が変質者になってしまう。ようやく気を静めるのに成功した時には少女は大分離れて、もうぼんやりとしか見えず、靴音だけが聞こえてくる。離れていく靴音を聞きながら、女の子を失望させてしまった事に罪悪感を覚えた。だがそれ以上に少女に何か語りかけてミスをしていたであろう未来や女の子に触手を伸ばして悲鳴を上げられていたであろう未来を避けられた事に安堵していた。そうしてほっとした心地でまた帰り道を歩き始めた。

 女の子の靴音が消え、私の足音だけになってしばらくすると、私の足音に加えてまた別の靴音が混じり始めた。ようく先を見ると、またブロンドの人影が駆けてきた。先程の女の子よりも髪が短い。近寄るにつれそれが少年だという事が分かった。先程の女の子よりも少しだけ歳が高い様に思う。少年もまた幾何学的な美しい顔をしていた。先程の女の子とは似ていないので兄妹ではないだろう。けれど同じ様な美しさと雰囲気を持っていて、やはり私は羨ましがる感情すら湧かず、ただ見惚れた。

 少年は私の前に立つとあからさま嫌悪の表情で見つめてきた。侮蔑には慣れていたが、それが目の前の美しい少年から発せられると胸に響いた。心臓が痛くなった。

 少年は一度溜息を吐いてから、如何にも仕方なさそうに、あからさまに嫌々そうに、私へ尋ねてきた。

「この辺りに女の子供は来なかったか?」

 今しがたの子の事だろうか。向こうへ行ったと言おうとしたが、声が詰まって出なかった。だが私の仕種で察した様で、少年は私には一瞥もくれずに女の子の行った方へと駆けていった。

 女の子も少年も消えた夜道を歩きながら、あの二人は何だったのだろうと考えた。顔が似ていなかったから兄妹ではないと思う。もしかしたら女の子が怯えていたのはあの少年だったのだろうか。それにしては綺麗だったし。まあ、どうせ恋人かなにかだろうなと、結論付けて、自分とは違いすぎる世界があるのだなとぼんやりと考えながら、私は曲がり角を曲がった。

 大地が揺れた。続いて轟音が響いて来た。地震と雷が同時に起きたのかと思って避難しようと辺りを見回すと、遠くの空が赤く輝いた。続いてまた揺れと轟音が届いた。火事、ではなく爆発だろうか。何処かの工場で爆発があったのかもしれない。この辺りに工場があった覚えはないが、新しく建っていたのだろうか。

 また爆発が起こるだろうかと待ち構えていたが、それからはしんと静まり返って、もう爆発は響いてこなかった。何処かで犬の遠吠えと悲鳴が起こった。犬の吠え声が連鎖した。だが爆発はもう起こらなかった。

 それでも私は待って──何を待っているのかは分からない。爆発かもしれないし、あるいは別の何かかもしれない──ぼんやりと空を見上げていると、月の輪郭を見ている内に唐突に寒気を覚えた。それは先程の爆発の所為なのか、あるいはその後の遠吠えと悲鳴の所為なのか、それとも冷たい照明に照らされた氷の様な静かで明るい夜の所為なのか、分からないがとにかく怖くなった。

 怖くなった私は少し急ごうと心に決めて、安物のサンダルで地面を強く踏もうとした。その時、風が吹いた。風は私を突き抜けて、スカートをはためかせて何処かへと消えた。呼応する様に背後で声が上がった。

「げっ」

 そんな短い、引き潰した様な声が聞こえて振り返ると、スーツを着た男性が私の足元を見て竦んでいた。すぐに悟る。私のスカートの中に詰まった粘液に塗れた触手を見たのだろう。男の恐怖に歪んだ表情を見て、私は悲しくなった。

 男はしばらく呆けていたが、急にはっとした様子で私と顔を合わせ、顔を歪めて踵を返し去っていった。

 ふと去り際に男の手に握られた瓶に意識がいった。中は蠢いていて虫か何かが入っている様だった。もしかしたらあの男は変質者で私に虫をかけようとしたのかもしれない。ところが虫以上に気味の悪い私を見て逃げ出したに違いない。ざまあみろ。そんな高圧的な悲しみが私をほんの僅かの間苛んだ。

 慣れた事なので気を取り直して、更に帰り道を進む。気が付くと些か足が速くなっていた。気が付くと少し遠回りして明るい道を選んでいた。

 飲み屋の並ぶ道に差し掛かり、そこに懐かしい顔を見つけた。中学校の時の同級生だった。無口で目立たずあまり他者と交流をしなかった私なので、友達というものは居なかったが、入り口に立つ二人は知人の中でも用があれば話してくれた方だった。二人は携帯で何処かに連絡を取っている様だった。

 普段の私なら絶対に話しかけなかったであろうが、今は何だか人恋しくて光に誘われる羽虫の様に同級生へと引き寄せられていった。

 同級生は私に気が付くと、ぎょっとした表情をして、続けてぎこちない笑顔を向けてきた。しまったと思った。改めて自分の姿を考えてみれば、ほんの少しの買い物と油断して、化粧もせず服装も貧相で、自分で見ても酷い恰好だった。まして自分の顔は人より醜い。幾らなんでも多少の化粧はするべきだったと反省しつつ、今更どうしようもないので、私は精一杯の愛想を浮かべて二人に声を掛けた。

「こ、こんばんは」

 裏返った声に二人はぎこちない顔を更に強張らせて返答を返してきた。

「こんばんは、えっと久しぶりだね」

「本当に久しぶりだね。今何やってるの?」

「えっとお母さんに頼まれて卵を買いに」

 言ってから、そういう事を聞かれたんじゃない事に気が付いた。失敗したと気を沈ませていると、二人は急に朗らかな顔になって、

「そうなんだ」

「ごめんね、急ぎみたいなのに引き留めちゃって」

 声を掛けたのは私だ。何だか気を遣わせているみたいで恥ずかしくなった。とはいえ、私の馬鹿みたいな受け答えが結果的に場を和ませてくれた事に感謝しつつ、私は少しだけ心を弾ませた。

「ううん。二人は何しているの?」

 二人は顔を見合わせてから笑った。

「えっと、何だか久しぶりに会ったから、食事でもって」

「う、うん、そうそう! あの、良かったら一緒に飲む?」

 そう私を誘ってくれた。こんな事は初めてだったので、とても嬉しかった。

 ふいに私を誘ってくれた方がよろめいた。

「大丈夫?」

 私は如何にも気遣わしげにそう言ったが、内心は誘ってくれた事が嬉しくて嬉しくて仕方が無く、もしかしたら体調が悪いのかもしれない旧友を前にして踊り出したい気分になっていた。

「うん、大丈夫」

 そう言って笑いかけられて、私は更に嬉しくなる。出来ればもっと一緒に居たい。

 だが母親にお使いを頼まれている。もしも私がここで引き留められたら、母は一人で夕飯を摂る事になる。それを想像すると何だか悲しい様な、申し訳ない様な気持ちになった。それに身なりにもほとんど気を使っていない。それに何より、今の様なほんの少しの会話であれば良いが、長く話せば多分何処かでぼろが出て、二人をとても嫌な気にさせてしまうに違いない。

 そんな言い訳を頭の中で並べ立てた私は、出来るだけ不快にさせないように精一杯の笑顔を浮かべた。

「ごめんなさい。ちょっと用事があって」

 大した用事も無かったがそう言った。二人は気遣ってくれて、残念そうな声音で笑顔をくれた。

「そっか、残念だね。また今度何か機会があったらね」

「うん、そういえば、クラス会とかあるのかな?」

「え? いや、私は分からないけど」

「うん、私も良く分からないけど」

「そっか、もしあるなら私も参加するから、その時はよろしくね」

「うん、分かった」

「その時はね。それじゃあ、またね」

 二人の笑顔に見送られて私は意気揚々とその場を後にした。かつての友人との再会は私の心を弾ませ、何だか世界全てを相手取って戦いたくなる様なそんな強気な心にさせてくれた。もう変質者も何も怖くなくなっていた。

 私が蛮勇でもって電灯と満月の照らす仄明るい道に踏み込むと、一人の男が私の横をすり抜けていった。それもまたかつてのクラスメイトだった。多分、今しがたの飲み屋に行ったのだろう。さては遅刻でもしたか。確かあいつは中学校の時もずぼらな奴だった。遠目に見ていても馬鹿に見えたものだ。

 私はほっと安堵する。女性だけならまだしも、そこに男性まで加わると完全に私の限界値を突き抜けていた。多分、あそこに残っていたら酷い醜態をさらしたに違いない。

 道の向こうにひょこひょこと奇妙におどけた調子で歩く人影が居た。良く見ると、タンクトップにショートパンツの男だった。店を出てすぐのところで会った男だ。一体どうしたんだろうと思っていると、男はひょこひょことした調子で歩き続け、すれ違いざまに急にこちらに向きを変えて近寄って来た。まさかストーカーで私の事を付けて来たのかと、自分の容姿を棚に上げて、私は危惧した。武器は無いが、とりあえず今持っているバッグで殴りつけようと心に決めて、心持ち取っ手を掴む力を強くして身構えていると、男はいやに茫洋とした表情で、虚ろな目をして迫って来た。

 さっき見た様子と比べると如何にも尋常でなかった。薬でもやっているのなら怖いし、病気だとすれば放っておけない。どうしたものかと悩んで、私はとりあえず声を掛けた。

「あの、大丈夫ですか?」

 男はゆらりゆらりと振り子の様に揺れながら止まる事無く私の元へと近寄ってくる。

「あの」

 怖くなってそれ以上は言葉が続かなかった。私が後ずさると、男はその分だけ迫って来て、私が立っていた場所に立った。

 そこで男が立ち止まり俯いた。何だろうと思っていると、突然男が鼻を鳴らし始めた。それが臭いを嗅いでいるのだと分かった時、私の背に怖気が走った。気味が悪い。逃げ出したい。だが後ろは壁で逃げられない。何とか刺激しない様にと壁に服を擦り付けながら、私は横にじりじりと移動する。

 男はしばらく同じ調子で鼻を鳴らしていたが、私が完全に男の圏内から抜け出して今まさに駆け足で逃げようとした時に、男は急に興味を無くしたみたいに私がずり動いた方向とは反対に向かって、またひょこひょこと歩き始めた。呆然と見送っていると、角を曲がって消えた。

 何だったのか分からない。もしかして酔っ払いだったのかもしれない。考えてみれば、今男が曲がっていったのは先程私が通った飲み屋のある道だ。ふと私も鼻を鳴らしてみた。男から漂うはずの酒気は感じられなかった。

 何となく釈然としない気持ちを抱きながらまた帰路を歩きはじめると、今度は女性が二人駆けてきた。一人は頭に大きなリボンを付けて、常人が着るには余りにもファンシーな、衣装とでも言った方が良い様な服を着ていた。手には奇妙な形状の、子供の時に良く見た類のステッキを持っていた。髪の色は抜け落ちた様な金髪なのに顔は日本人顔で、何処か不思議というか、見ていると痛々しくなる様な空気を纏った女の子だった。もう片方は見慣れない高校の制服を着ていて、如何にも純朴そうな眼鏡を掛けた同年代の女の子で、走り慣れていないのか苦しそうに表情を歪めている。

 そういえば、近くに高校が立ったという話を聞いた気がする。制服を着ているのはそこの生徒だろうか。もう片方は何だか良く分からないけれど、最近はああいうのが流行っているのかもしれない。確かに私も子供の時にああいうのに憧れたけれど。アニメの中で魔法を使って人助けをしていた少女を思い出して、何となく私は恥ずかしくなった。

 二人は私などにはまるで気を払わずに、横を通り、駆け去っていった。

 ふと背後から

「危なかったね」

という声が聞こえた。もしかしたら補導でもされそうになったのかもしれない。

 澄ませた耳をそのままに歩いていると、祭囃子が聞こえてきた。お祭りやってるのか。行きには気付かなかったけれど。多分公園だろうと見当づけて行ってみると、案の定祭りが行われていた。赤い提灯が並び、屋台が威勢よく煙を上げ、浴衣を着た人々が押し合い、熱した空気が夜空に放たれている。やけに浴衣を着ている人が多い。どころか珍しい事に皆浴衣を着ている。今迄浴衣を着た人とは全く出会わなかったので奇妙な気がした。そうえいば、先程出会った二人の女の子はこの祭りに居たのかもしれない。それでもあの恰好はどうかと思うけれど。

 立ち寄って綿菓子を買った。アニメの柄がプリントされた袋が少し恥ずかしい。袋は直ぐに捨てて、綿菓子に口を付けた。綿は柔らかく肌を刺して、すぐにべたついた。食べ終えて改めて祭りを見ますと、中央で盆踊りをやっていた。沢山の人が参加していて、何重にもなった巨大な輪を作って、踊りあっていた。見ている間にも周りの人ごみからどんどんと人が加わって更に大きな円が作られている。何だか熱狂的だなと思った。私には合わないなとも思った。

 それから人ごみを縫ってぶらついていたが、段々と一人で回っている事が悲しくなってきた。それに久しぶりに大量の人に巻き込まれた所為で、息苦しくなってきた。ついでにスカートの下の触手が人に当たるので、申し訳ないのと恥ずかしいのと、ばれたら嫌だなという気持ちが湧き起こった。

 そろそろ出ようと、出口へ向かおうとした。だが向かえなかった。進もうとしても人ごみに阻まれて逆に中央へと押し返されて、盆踊りの輪へと近付いてしまう。何度か遠慮がちに謝りながら人の合間を縫おうとしたが一向に出口へは近付けなかった。段々と苛立ってきて、私はついに強硬手段に出た。むりやり人を押し退け押し退け、時にはこっそりと触手で人を掻き分けながら突き進んでいった。汗で体中が濡れに濡れて蒸れ切った頃にようやっと外に出られた。普段は不快な汗が心地良く、何だか清々しい気分だった。

 さて帰ろうと祭りを後にしようとした時に、ぽんという何かがはじける様な軽い音がした。その後、辺りが色とりどりに光って、空からぱらぱらという破裂音が聞こえた。振り返ると、また同じ音がして、花火が上がり、同じ音がして、花火が開いた。結構大きくて立派な花火だった。ただの市民祭りの様だけれど、あんな花火を上げるなんて豪勢だな。少し前の爆発の正体が分かった気がした。すっきりした気持ちで私は公園から離れ、対照的に寂しくて暗くて静かな夜道に戻った。

 また何処からか犬の遠吠えが聞こえて来て、悲鳴と吠え声の連鎖が起こった。今日は不思議な夜だなと思って、空を見上げると、雲は大分晴れて、満月とその周りの夥しい星々が夜の天幕を彩っていた。ふとこの前プラネタリウムを見た時の事を思い出して、秋の四辺形を探した。思い起こせば小学校の時に母親と今は亡き父親に連れ出されて、望遠鏡で星を見た。生きている上で必要のない思い出かもしれないけれど、今星座を探す事は出来る。久しぶりに父親の事を思い出しながら、空を見上げていると、突然幾つかの星が黒く消えた。

 驚いていると、更にまた消えた。それは何かが空をかすめたからの様だった。それが何かは一瞬の事で分からなかった。何となく人影だった様な気がするが、空の高い所に人が横切れるわけもなく、鳥にしては大きい気がするし、飛行機にしては音がしなかった。一体今の影は何だったのか。結局分からず終いで、もやもやとした気持ちが残った。

 背後から複数の足音が聞こえてきた。振り返ると、黒いスーツに黒いサングラスをかけた男達が無表情で走っていた。一瞬前に未確認飛行物体らしきものを見たからか、メンインブラックを思い出した。私を消しに来たのかと思った。

 だが男達は私などには毛ほどの興味も示さずに横を通り過ぎた。一人の男が大きな麻袋を肩に乗せていた。まるで人を入れた様な形状をしていた。まさか人攫い? 一瞬前の都市伝説的な印象は消えて、もっと現実的な暴力団関係者なのではないかと疑った。

 確証を持てないまま、男達は駆け去っていった。そういえば、さっきのタンクトップの男、何だか虚ろだったけれど、やはり薬でもやっていて、それで暴力団と悶着を起こしたのかもしれない。そう考えると恐ろしくなった。これ以上夜道を歩いていたくない。

 家はすぐそこだ。玄関の灯りが煌々と照っていた。何処からか地鳴りのような低い唸り声が聞こえてきた。お経を大音量にした様な抑揚のない声音だった。怖くなって、私は家の中に駆け込んだ。

「ただいま!」

 そう叫んだが、返事が返ってこない。普通なら玄関を開けた音を聞いて、台所から顔を覗かせるのに。訝しんでいると、

「お帰りなさい」

ようやく返答が聞こえた。けれども何だか声が低い。一瞬、母親の声ではないかと思った。まさか長年会わなかったから声すら忘れたのだろうか。ほんの一時間前家を出る時にも聞いたばかりなのに。

「お母さん! 卵買って来たよ!」

 そう叫ぶと、

「そう」

という短い答えが返ってくる。何だか変だった。もっと明るく返事をしてくれると思ったのに。まさか体調が悪いのだろうか。

「風邪でもひいたの?」

「そんな事無いけど。何で?」

 抑揚のない声で否定された。それなら良いけど。

 もしかして何か怒らせる事でもしてしまったのか。全く身に覚えが無いけれども、間の抜けた私の事、うっかり何をやったか分からない。

 とりあえず卵を無事買って来た事を伝えて怒りを和らげようと、袋の中から卵を取り出して、愕然とした。

 全部割れていた。ひとつ残らず底が割れて、白身と黄身が混じり合ってぐちゃぐちゃになっていた。やっぱり脆かったのだ。嫌な予感はしていた。よくよく見ると、少し血が混じっている。

 溜息を吐いて、脱ぎかけていた靴を履き直した。とにかくやってしまったからには、また買って来なくてはならない。でも今からまたスーパーへ行くのは面倒だ。母親は安いからスーパーでと言っていたが、もうこの際もっと近くにあるコンビニで買ってこよう。私がお金を出せば文句はないはずだ。

「ごめん、お母さん! 私もちょっともう一回外に出てくる!」

 私が言うと、

「うん、わかった」

抑揚のない間延びした言葉が返ってくる。やっぱり体調が悪いのかもしれない。

 早く帰って来た方が良いだろう。

 玄関の取っ手に手を掛けると、外から犬の吠え声と悲鳴とお経と爆発音と足音と騒ぎ声と祭囃子が微かに聞こえてくる。何だか今日は騒がしいなぁと思いつつ、私は取っ手を捻って勢いよく玄関を開けて飛び出した。

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