紛い物マンション(ホラー)
鐘には霊的な力がある。魔を払い、魔を呼ぶ。
シンデレラの話は誰もが知っているはずだ。時を告げる鐘によって魔法が解ける場面は特に印象深い。時を告げる鐘は境界を区切る。彼方と此方を区切る。怪異とは彼岸がこちらと混じり合っている状態である。境によってあちらとこちらが分かれれば怪異は消える。
ここにマンションがある。このマンションは紛い物を生み出す。例えば何も無い所に階段が現れる。例えばエレベーターの扉が壁に消える。例えば親しい者の死体が現れる。例えば誰でも無い誰かの生前の姿が現れる。そこに人が居れば紛い物に騙される。
マンションの中には時を告げる鐘が鳴る。かつての家主が自分の都合で備えた三時の鐘。家主が見ていたドラマは終わり、家主もまた消えた。それでも鐘の音は規則正しく鳴り響いている。
時を告げる鐘が鳴れば魔法は解ける。マンションが生み出す紛い物も三時の鐘が鳴れば消えてしまう。階段も壁も死体も人も全て消える。
主婦が二人喋りながら階段を上っている。いつもの光景、いつもの行動。当たり前でありきたりで、退屈で単調で、注意も何も払わずに、いつもより長い階段を上っている。外から見れば良く分かる。賑わう通りで誰かが空を見上げてぽつり。人が空を飛んでいる。
二人の主婦は更に階段を上り、愚痴と笑いを繰り返しながら、今日の晩御飯を頭の片隅で考えている。下に居る人々は空を見上げ、好奇と驚嘆を喚きながら、誰もが眼を逸らす事が出来ない。空を歩く二人の人間がいつ落ちるのかと期待して。
鐘が鳴る。りらんりらんと鐘が鳴り、魔法は解けて、階段が消える。二人の主婦は下に落ちて、閑散とした誰も居ない道路に落ちる。夕方になり仕事帰りの夫が妻を見つけて泣き叫ぶ。
ある時は階段が消える。ある時は人が消える。ある時は死体が消える。ある時は家族が消える。ある時は友人が消える。ある時は恋人が消える。ある時は日記が消える。ある時はギターが消える。ある時はテレビが消える。ある時は財布が消える。ある時は成功が消える。ある時は恋慕が消える。ある時は悩みが消える。ある時は恐れが消える。
鐘が鳴ると紛い物は全て消える。その時初めて気が付く事が出来る。それが紛い物であった事に。それまでは誰も気が付けない。消える寸前までは本物と何も変わらないから。
マンションの入り口に見知った背中が見える。学校の制服を着ている。同じ制服を着た少女がその背を見て微かに声を出す。帰り道の途中に逸れたと思ったらこんな所に。少女はその背を追ってマンションへと向かう。地元で有名な幽霊マンション。夜中妙に騒がしく、不良の溜まり場と言われている。そんな所へ幼馴染が入って行く。見過ごしてはおけない。
夕暮れに陰るマンションの中へ幼馴染は消えていく。少女もまたその背を追って薄暗いコンクリートの屋内へと足を踏み入れる。
「ちょっとあんた何しようとしてんの?」
少女の声に幼馴染が振り返る。
「あ? なんでお前が居るんだよ」
「こっちの台詞。なんで幽霊マンションに入ってんの?」
「別に俺の勝手だろ」
幼馴染は少女に背を向けて階段を上る。少女はむっとして小走りに追い縋る。階段の途中で天井から埃が落ちてくる。壁はひび割れている。空気が黴臭い。暗く足取りがおぼつかない。少女が危なっかしく上っている内に幼馴染は既に見えなくなっている。慌てて少女は一段飛ばしに階段を上る。
少女が上り切ると廊下から足音が聞こえてくる。廊下に出ると幼馴染が居る。
「危ないから帰ろうよ」
「うるせえなぁ。お前には関係ないだろ」
「関係あるよ! だって……幼馴染じゃん!」
「関係ない!」
「ある!」
ずらりと並んだ同じ形のドア。幼馴染と言い合いをしながら少女はドアを一つ一つ観察する。表札は全て外されている。それぞれのドアに違いがあるとすれば錆具合だけ。ドアに向けていた目を反対に移すと夕日に照る街並みがある。遠くにビルが見える。夕日に照らされ赤白い。公園に人影が見える。良く見えないが子供だと分かる。動きで分かる。公園を出て別れ別れに家へと向かう。懐かしい光景に寂しくなる。
「つーかさ、何で付いてくんの?」
「心配だから。危ないし早く帰ろ」
「知るかよ」
「あのねえ、心配してやってんの」
「そっちの勝手だろ」
「あんた何しに来たの?」
「さあ」
「はぁ?」
「分かんねえよ。何となく来てみただけ」
幼馴染が一際錆びれたドアを開けた。鍵は掛かっていない。蝶番の軋む音。ドアが開くと芳香剤の香りがする。ジャスミンのどぎつい香り。
「あんたここが幽霊マンションだって知ってんの?」
「知ってるって」
「じゃあ、噂は聞いてる?」
「それは知らないけど」
「じゃあ、聞かせてあげる」
幼馴染が土足で上がる。少女も続く。寂れた玄関には革靴が片方だけ放り出されている。靴棚の上に写真立てが載っている。家族の写真だが埃に煤けている。ジャスミンの香りが鼻につく。
「このマンションはね、思い出を見せてくれるんだって」
「何それ」
「昔見た事とか人とかが出るんだって。勿論死んじゃった人にも会えるの。だから幽霊マンション」
「じゃあ、俺の母さんにも会える訳か」
「あ、ごめん」
少女は不用意な発言に口を噤む。幼馴染はさして気にした様子も無く居間に入る。怒っていないだろうかと窺いつつ、少女は後に続く。部屋に入ると強烈な芳香剤の香りに目が眩む。幾つもの匂いが混ざり合い異臭になっている。少女は息を小さくして居間の中央に立つ幼馴染へと近付く。何も無い居間に幼馴染が立っている。居間には扉が二つある。玄関に続く扉と台所へ続く扉。台所が見える。流し台だけが置かれている。生活の匂いは無い。
幼馴染が天井を見ている。じっとして動かない。少女が傍に寄った事にも頓着しない。少女が幼馴染を睨みつける様に見つめる。幼馴染は茫洋とした様子で天井を見つめている。いつもの騒がしい様子とはまるで違う。幼馴染が何を考えているのか。少女には分からない。生まれた時からの付き合いでこんな事は初めてだと不安に思う。
「てかさ、噂も知らないなら、あんた何でここに来たの?」
沈黙にたまりかねて少女が尋ねる。幼馴染はやはりじっとしたまま。しばらくしてぽつりと声が漏れた。
「だから何となく」
「だから意味分かんない。もう暗くなるよ? 帰ろうよ」
たった一つの窓には真っ白のカーテンが掛かっている。カーテンの向こうから夕日が薄く染み通ってくる。フローリングに影が落ちている。少女は影を目で追って不思議に思う。自分の影が長く伸びて、壁まで届き、天井に届いている。隣に幼馴染の影が立っている。天井から壁に、床を通って足元まで。長く伸びている。
とんと音がする。足元を鼠の家族が走りぬける。少女は驚いて飛び退る。温かい感触を感じる。少女は幼馴染に抱き着いた事に気が付いて顔を上げる。
幼馴染は相変わらず天井を見つめている。少女が抱きついた事を意にも介さない。苛立ちを感じて少女は抱きしめる力を更に強く。
りらんりらん、音がする。
固い感触を抱きしめて、少女は違和感に惑う。体が傾ぐ。倒れて辺りにマネキンの体が散らばる。部屋を見回しても幼馴染は居ない。何が起こったのか分からない。呆けて座ったまま、ぼんやりとガラス窓の向こうの太陽を見える。白い光球がじわりと肌を熱する。
ようやく少女は気が付く。始めから一人なのだと。幼馴染など居ないのだと。自分は今たった一人で幽霊マンションに居るのだと。
思わず身を震わせる。慌てて立ち上がる。埃臭さに鼻が痛む。玄関へと向かう。マネキンの腕に躓く。床に倒れる。埃にまみれる。台所が見える。モザイクが掛かっている。黒いモザイクが移ろい、辺りをぼやかす。流し台はモザイクに隠れている。
身を起こす。玄関へと向かう。足元を鼠の家族が通る。驚いて腰を抜かす。嫌になる。泣きたくなる。自分はひとりなのだと実感する。早く帰りたい。そう願う。
涙をこぼしながら廊下に出る。外は明るい。公園が見える。子供達が遊んでいる。すぐそばの日常。だが何となく遠い。焦りが募る。足が速まる。
階段に辿り着く。ふと人の背が見える。二人の女性が階段を上っている。このマンションに人が居るはずない。恐ろしくなって目を背け、音を立てぬ様に階段を降りる。振り返り振り返り恐る恐る。人影は追って来ない。踊り場を過ぎると向こうに外の世界が見える。四角く切り取られた白い世界が待っている。
少女の足が速まる。早足から駆け足へ。階段を一段飛ばしに降りていく。脇目も振らずに埃も気にせず、響く靴音もスピーカーのノイズ音も気にせずに外へと走る。その途中。
りらんりらん、鐘が鳴る。
静寂に満ちたマンションの一階。埃が積もっている。最後の住人が出て行ってからマンションに人が入った試しは無い。入り口から照る陽光が誰も居ない一階を薄らと照らしている。奥の暗闇から鼠が出てくる。鐘の音で家族を失った鼠は寂しさを紛らわせる為に光溢れる外へと向かう。その足が止まる。ぱっと再び暗がりに隠れる。
入り口に人影が立つ。少年の後に少女が続く。暗がりに潜む鼠は傍らに家族の気配を感じる。