件(800字連作ホラー)
「件」
空に月。夜の闇。私は空の下に居る。
大地に草。荒れ野原。私は草の上を駆け。
背には牙。あやかしの牙。私の後ろに迫っている。
子の幻影。咽び泣く。背後のあやかしにぴたりと嵌る。
泣く我が子。泣く我が子。私の意識は過去の夏へ。
駅のホーム。背後の悪意。我が子は汚れた砂利の上へ。
集う人ごみ。散らばる我が子。二目と見られぬ夏の陽炎。
戻り戻って息急く体。あやかしを背後に逃げる私。
踏みしむ草花。被さる暗闇。今夜私はここで死ぬ。
お前は死ぬ。お前は死ぬ。件の言葉が闇に滲む。
唇ひび割れ。舌は途切れ。告げる言葉は必ず真実。
抗い走る。拒み逃げる。あやかしの牙をただ恐れ。
逸る心。霞む意識。意志に反して足取り重く。
躓く私。腿が上がらず。背後に居るのは私の子供。
あやかしの牙。我が子の八重歯。どうして私を傷つけよう。
大口を開けて。愛しき笑顔。ねだる囁きが背後に聞こえ。
転ぶ私。体は起こせず。ならば我が子を一目見んと。
振り向き笑う。腕を伸ばして。迫る我が子を迎えようと。
胸の鼓動は早く忙しく。愛おしさに震えている。
風が吹く。荒れ野原。振り向く先には何も居らず。
我が子が居ない。信じられぬ。されど幻燈は事実を明かし。
虚しき虚空。我が子はいずこ。巡る視界は荒れ野原。
月は朗々。大地は光り。遥か向こうに枯れ木が一つ。
夜は寂々。何処までも静か。風が吹いても枯草揺れぬ。
世界に一人。私だけ。子もあやかしも幻に消え。
恐れも消え。愛しさも消え。そう、これは真夏の夜の夢。
茹だる暑さが体を締め付け。不快な心が悪夢を見せる。
気が付けば帰り道。枯草踏み締め家に向かう。
背後に寒気。思わず振り向き。何も居らず苦笑する。
取り巻く闇。誰も居らず。夜気がしみ込み背筋が震え。
思い出す。件のお告げ。逃れ得ない私の運命。
お前は死ぬ。今日ここで。恐怖に急かされ私は駆ける。
「駅の日常」
雑踏。汗に濡れた他人の衣服。電車の到着まで後少し。
男は駅の人ごみに流されながら、いつも通りの飽いた日常にうんざりしていた。
つまらない。何か面白い事は。痛い。
足を踏まれて呻きを上げた。踏んだ相手はこちらの事など気付かずに、人の群れに同化している。
痛い。曇りだ。良い香り。
ふと焼きたてのパンの匂いが漂ってきた。階段を降る。パンの匂いは何処かへ消えた。
遊園地の広告。混雑したホーム。今日は飲み会だ。
電車はまだやって来ていない。ぎゅうぎゅうに押し詰められながらも群衆には余裕がある。電車がやって来るとこうはいかない。雪崩れて落ちてしまう様な恐怖を男は良く感じる。
何処か空いている所へ。少しでも空いている所へ。押すな。
危うく線路へ押し出されそうになって、男は慌てて押し返した。押し返された方は酷く迷惑そうな顔を男へと向けてきた。
先に押してきた癖に。俺の事を殺そうとした癖に。もし落ちたら完全犯罪になるんじゃないか。
昨日読んだ推理小説を思い出して、男はおかしくなった。小説の中の犯人はあれだけ苦心していたのに、現実では何と呆気無く人を殺して逃げおおせられるのだろう。男はそんな事を思って少し笑った。
例えばこう少しよろけた振りをして。横には地味な服を着たおばさん。驚いた声。
悲鳴が聞こえた。ざわめきが増した。女が悲鳴を上げながら屈みこんだ。
耳の奥で暴れる声。飛び降りようとする女。それを押さえつける群衆。
強烈な警笛が世界の音をねじ伏せた。男は思わず身をすくませた。目の前の押さえつけられた女が横を見て、目を見開いた。金切り声が聞こえた。男も女の視線を追うと、電車がやって来ていた。
金切り声は電車のブレーキ音か。良かった。人の悲鳴じゃない。
男が安堵している間にも電車は減速しながらホームに沿い、それに合わせて男と群衆の顔が動き、
何故か停車した電車の壁に額を擦り、下の線路見る女。周りから聞こえる吐瀉の音。浮かぶ笑顔。
「枯野」
ここは枯野。荒れた野原。男は立ち止まって下を見た。
女の衣服。地味な色合い。落し物。
浮かぶ疑問。答えは無く。心に掛かるも男は先へ。
男の衣服。安物のスーツ。俺の服と同じ奴。
またも服。今度は男の。大きく広げて敷かれている。
女の衣服。腕。赤い血。
服と共に誰かの右腕。衣服の袖から覗いている。
男物のスーツ。腕。赤い血。
服と共に誰かの両腕。スーツの袖から覗いている。
女の衣服。赤く染まっている。腕と脚。
女の次には男の物が。腕に加えて脚も転がり。
男のスーツ。両腕と両足。体の部分がぽっかりと。
服は交互に。体は徐々に。規則正しく立ち現れ。
男女。腰胸。一人の体になるのだろうか。
男の死体。抉れた顔。残り一つで人の体。
女の死体。傷一つ無い。まるで生きているかの様で。
男は進む。更に先へ。死体の次を期待して。
男のスーツ。何も無い。枯草の上にスーツだけ。
男のスーツ。何も無い。枯野の上にスーツだけ。