鍵括弧の手記(手記)
「庭には一本の梅が立っている。それほど立派な木ではない。かといって、貧相と言ってしまう程でもない。妻と二人で縁側に座り、細やかな花見を行ったものである。寒いし、咲いている木は一つきり、安酒に晩飯の残り物。それでも細やかな幸せとして、毎年一回は花見をした。だが今年は出来そうにない。
梅は咲いてる? と後ろから妻の尋ねる声が聞こえた。妻は部屋で寝ている。妻の居る部屋からでは梅は見えない。梅は縁側に出なければ見えない位置にある。だから毎年お花見をする時には、冬の寒さを二人で愚痴り合った。今日は寒い。部屋から見られれば良いのに。お花見は取り止めようか。こんな事ならいっそ無ければ。冗談交じりにそんな事を言い合うのが花見の開幕だった。
まだ咲いてないよと私が答えると、妻はそうと言って黙った。残念そうな響きがする。だが咲いていたところで花見など出来ないのだから、咲かない方が良い。私はそう思う。部屋に聞き耳を立てるとすーすーといった細い擦過音が聞こえてくる。どうやら寝た様だ。私が体を捻って部屋を覗き込むと、案の定、妻は顔を向こうへと向けていた。こちらを見ていないのは眠った合図だ。妻が倒れてからはそういう風に決まっていた。腰を上げて冷えた体をさすりながら、妻が横になる部屋へと足を踏み入れて、妻を起こさぬ様、慎重に文机の前に座って、机の上に広げられた書きかけの手記に手を置いた。ペンを握り、さて何を書こうかと沈思する。書くのは妻が寝入った時だけ、妻に見せた事は無いし、存在だって知らないはずだ。妻には内緒の、死にゆく妻を思って書く、私の、妄想だ。
「ペンを紙に押し付け、さて何を書こうかと考えた。考えてから、とりあえず書いてみようとここまで書いて、やはり前述の梅に就いて書こうと思い立つ。
君は花が好きだった。アパートに住んでいた時は一戸建てを買ったら庭でガーデニングをするんだなんて言っていたね。その夢は叶って君は早速庭いじりに精を出して、あんまりにも張り切るものだから、庭一面を花畑にするつもりなのかって危惧していたよ。何とか必死に懇願して花壇の中だけにしてもらった時にはほっとしたものだ。それも今はもう見る影も無くなって、荒れ果ててしまったけれど。
君には悪いけど花なんてまるで興味が無かったから、花壇一面に咲き乱れた花を背にして、ほら綺麗だねなんて笑って言われても、君の笑顔に見惚れるばかりで、感想なんて特に思いつかないから、笑顔が綺麗だねとか何とか臭い事を言う事しか出来なくて。君はそれが気に入らないみたいで、また冗談をって否定するものだから、本心から言ったこっちとしては悔しくて、冗談じゃないよ本当だよって訴えてみるんだけど、君はまるで王様みたいに訴えには耳も課さずに冗談って決めつけて、ちゃんと花を見ようよ、綺麗に咲いたんだからっていうから、まじまじと花壇を見てみてもやっぱりそれは単なる花の羅列でしかなくて、結局また君の事を褒めて、もういいなんて呆れてるんだか喜んでるんだか分からない顔をされて。
この家に初めてやって来た時、満開の梅の木を見た途端、君は今まで見せた事の無い荒々しい動きで梅の木に駆け寄って、それから周りを回っていつまでも飽きずに眺めているものだから、花なんか興味なくて寒風に身を震わせるこっちとしては早く家の中に入りたくて、寒いからそろそろ上がろうって声を掛けると、君はとても晴れやかな笑顔を向けて、そうだね毎年お花見が出来そうだね、なんて頓珍漢な事を答えるものだから、付き合っていられなくなって家の中に入って荷物を解いていると、一時間位して君がようやく入って来たと思ったら、いつの間に居なくなってたの? なんて今更な事を言ってたね。呆れて物も言えなかったよ。ついでに次の日に熱を出して寝込んでしまうんだから尚更だ。その事を君に言うとまるで憶えていないから、更にもう一つ呆れてしまう。
でもなんだかんだで毎年花見をして、こっちがもっぱら花より団子、そっちは団子より花で釣り合いが取れていたと言えば取れていたのかな。毎年欠かさずやって来てたけど、今年はどうやら出来そうもないね。君が床に伏している内に梅はきっと花を散らすだろう。君が立ち上がれない内に枯れきった庭の花壇みたいに殺風景になるんだろう。花に興味が無いなんて散々言ってきたのに、いざ無くなると寂しいだなんて自分ながら勝手だと思うよ。でも寂しいんだ。
「君が元気に
いややめよう。いつも君の病気が治ったらって事ばかり書いているから今日は趣向を変えて君がもし本当に死んでしまったらに就いて書こう。君の病気が治って、今日のところを読んで、こんなに心配したんだなんて自慢出来る様に。
もしも君が死んでしまったら。臥せったばかりの頃、君はしきりに私が死んだら君の好きな様に生きてなんて何処かで聞いた言葉を呟いていたけど、今はもうそんな事言わなくなったね。勿論、病が長くなって疲れている事は分かるけど、初めに存在していた沢山の事、君が病に臥せった頃、その前のこの家で生活していた頃、その前のこの家に来た頃、その前の結婚した頃、その前の出会った頃、君と暮らす中で作り上げていった沢山の事がどんどんと衰えて消えていってしまう事は悲しいよ。君はこの部屋しか見ていないから分からないかもしれないけれど、今家はどんどん陰っている。二人の心もきっとそう。君が死んだって不倫する気なんてないから安心して欲しいけど、でもそういった死んでしまった後の事を笑って言えない今は少し苦痛だ。君が死ぬ事なんて信じられないはずなのに、二人とも何処かで君が死んでしまうと思っている。
もう一度言うけど、君が死んだ後にも今まで通り君一筋で生きるよ。そこは安心して欲しい。はっきりと誤解が無き様にもう一度、未来永劫君以外の人と生きていくつもりはない。君の病気が治って折角二人で仲良くこの手記を読んでいて、それがこのページに及んだ時に、死んだ後の事を考えてたなんて不倫しようとしてたんだろうなんて、変な誤解を生まない様にはっきりと言っておくよ。そんな些細な誤解で死別なんて事になって君が犯罪者兼独り身になったら申し訳ないからね。勿論やましい気持ちが在る訳じゃないよ。
もしも君が死んでしまったら、多分今まで通りに暮らしていくだろうね。本当は海千山千を越えて君を生き返す方法を探したいけど、きっと死ぬのは辛いだろうからそれは止めておくよ。君にもう一度死んでほしくは無いし、君だって苦しいのが二度もあるなんて嫌でしょ? どうせいずれあの世で出会うのだろうから、その時にまた会おう。君と離れるのは辛いけど、また会えると分かっていたらどんな苦痛だって耐えられる。君はきっと私が居ない間どうだったって聞くだろうから、こっちは楽しかったよって笑って答えるんだ。君は不満そうにするだろうけど、そのすぐ後に、君の拗ねた様な顔が懐かしくて泣いてしまうかも知れない。君は強いからきっとそれを見たら苦笑してさっぱりした様子で泣く程の事じゃないのになんて言うんだろうね。それで君の楽しげな口調が懐かしくて更に泣いてしまうんだ。
「私はペンを下ろして書くのを止めた。それ以上耐えられなくなって、私は俯いた。酷く生々しくて、それが悲しくて、静寂がはっきりと私に孤独という言葉を突き付けていて。夕暮れ時の黒い粒子が辺りを漂って物は影に影は闇に変わって、私もまた闇に溶けている。この部屋には私一人しか居ないのだ。片割れは何処にも居ない。
「影絵になっているはずの梅を見ようと、大儀そうに布団から這い出て、病身を押してずるりずるりと芋虫の様に這って縁側へと出た。外の庭は荒れ果てていて、花壇なんて勿論無い。梅の木も当然そこには無かった。ただぼうぼうと名も知らぬ雑草が一面に生えていて、まるで廃墟の様だ。
何度か咳き込んで布団へ這って戻ろうとして、面倒になって病気の真似事を止めて立ち上がって布団へと戻った。ねえと少し大きな声で誰かに向かって呼び掛けると、しんと静まった部屋の中に空々しく響くだけで、誰もやって来ない。夫なんて当然居ない。「君」はただの妄想だ。私はただの一人。手記は私の妄想なのだから。
「廃墟となった部屋を見回してから、ポールペンを取りだした。この手記を読んでいると自分が何者なのか分からなくなりそうだ。懐中電灯でノートを照らして、私は手記の続きを書こうとしたが、ノートはもう一ページも残っていない。ふと最初に戻って、始めから見返してみると終わりの無い鍵括弧が延々と並び奇妙な物語が綴られている。ずらりと並んだ妄想の羅列に、恐怖だか感動だか分からない、奇妙な感情を覚えた。ふと気になって外の庭をもう一度見てみたが、やはり梅の木など立っていなかった。勿論私の夫も私の妻も影も形も無い。今この部屋で確かな物は、懐中電灯とその灯りに照らされた私の影、そして今最後へと向かって綴られるこの手記だけだ。君は居ない。ノートももう終わる。私は鍵括弧を閉ざす事で、この不恰好な物語を終える事にする。
」