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「帳簿しか書けない役立たずは出ていけ」と追放された伯爵令嬢、辺境商会を黒字にしたら実家が破産寸前だそうです

作者: 抑止旗ベル
掲載日:2026/09/11


「帳簿しか書けない役立たずは、出ていけ!」


 夕食後、父は私にそう告げた。


 妹の婚約を祝う花が、まだ食堂を華やかに飾っていた。その前で、父も兄も、決定は覆らないという顔をしている。


「エミリアの婚約には相応の支度金が必要だ。領地の収入も思わしくない。何の取り柄もない娘まで養い続ける余裕はない」


 私は二十歳。


 伯爵令嬢でありながら婚約者もおらず、華やかな社交も、刺繍も、楽器も得意ではない。


 妹のエミリアは違った。愛らしく、歌が上手で、社交界でもいつも人に囲まれている。


 比べられることには慣れていた。


 けれど、生まれ育った家まで失うとは思わなかった。


「いつまでに出ていけばよろしいでしょうか」

「明朝だ」


 たった一晩。


 胸の奥が冷たくなったけれど、私は頭を下げた。


「承知しました」


 自室へ戻り、必要な服を旅行鞄へ詰める。


 机には領地の収支報告、使用人の給与台帳、翌月分の食料と薪の発注一覧が置かれていた。


 給与額は勤務日数と昇給分まで反映してある。三社から取った小麦粉の見積書には、最も安い商人の名前を記しておいた。領地から届いた報告書も、数字の合わない二村に確認を求める手紙を添えてある。


 家を出るのだから、これ以上は触れてはいけないだろう。


 父たちは、これを仕事だとは考えていなかった。


 私も同じだった。


 数字を書き、合わないところを直し、見積もりを前年と比べる。幼い頃から続けてきた、家族のための雑用にすぎない。


 最後に机の鍵を戻したとき、ようやく不安が押し寄せた。


 これから、どうやって生きていけばいいのだろう。


 けれど、役立たずだと言われた家に縋っても仕方がない。


 翌朝、見送りに来たのは年老いた侍女のマーサだけだった。


「お嬢様。どうか、お元気で」

「ありがとう。皆にも伝えて。今月のお給金は二十五日。金額は台帳にまとめてあります」

「最後まで、そのことを……」

「皆が困ってはいけないもの」


 私はうまく笑えないまま、王都を離れる乗合馬車へ乗った。


 行き先は北西の辺境都市ノルデン。


 そこを選んだ理由は、手持ちの金貨で運賃を払えたからだった。


 ◇


 十日後。


 ノルデンに着いた私の財布には、銀貨が五枚しか残っていなかった。


 宿に泊まれるのは、あと三日。


 私は商業区を歩き、求人の張り紙を探した。


 食堂の給仕は経験者のみ。縫製工房は実技試験あり。薬草店では専門知識が必要。


 その中で、古びた一枚が目に留まった。


『帳簿係募集。読み書きと簡単な計算ができる者。住み込み可』


 簡単な計算なら、私にもできる。


 そう思って訪れたのが、ハーグレン商会だった。


 三階建ての建物の前には何台もの荷車が並び、麦袋や毛織物を抱えた人々が忙しく出入りしている。


 古びた求人票から想像したより、ずっと大きな商会だった。


 受付で事情を話すと、奥の事務室へ通された。


 待っていたのは、二十代半ばほどの男性だった。焦げ茶色の髪に灰色の瞳。上等だが動きやすそうな服を着ている。


「商会長のカイル・ハーグレンだ。伯爵令嬢が、辺境商会の帳簿係を希望する理由を聞いても?」

「実家を出ることになりました。働かなければ、あと三日で宿代も払えません」

「ずいぶん正直だな」

「話を飾っても、手持ちの銀貨は増えませんので」


 カイル様が、ほんの少し口元を緩めた。


「計算はできるか?」

「家の帳簿をつけておりました」

「では、これを。右端に商品の利益を書いてくれ。制限時間は十五分だ」


 渡されたのは毛織物の取引記録だった。


 仕入れ価格、輸送費、保管料、販売価格。それが商品ごとに並んでいる。


 私は羽根ペンを借り、六分ほどで最後まで計算した。


 ただし、一か所だけ空欄にした。


「終わりました」

「もうか?」


 カイル様は壁の時計を見てから、紙へ視線を落とした。


「ここが空いている」

「計算できません」

「なぜ?」

「毛織物は三十六反運び込まれたとあります。販売記録は二十九反、現在の在庫は六反です。一反足りません。紛失なのか、在庫の記録漏れなのかで利益が変わります」


 カイル様の指が止まった。


 私の顔と、帳簿とを交互に見る。


「少し待っていてくれ」


 彼が呼び鈴を鳴らすと、帳簿係の職員が三人入ってきた。


「昨日確認させた毛織物の帳簿だ。在庫をもう一度調べろ」

「ですが、三人で照合済みです」

「一反足りないそうだ」

「そんなはずは……」


 三人は半信半疑のまま倉庫へ向かった。


 しばらくして、主任らしい年配の男性が青ざめて戻ってくる。


「商会長。六反と記載されていましたが、実際の在庫は七反でした。一反分、倉庫台帳への記入が漏れています」

「では、彼女の指摘どおりか」

「はい」


 事務室が静まり返った。


 主任帳簿係が、私の答案を手に取る。


「ほかの計算も……全部合っています。商会長、この帳簿は昨日、我々三人が午後いっぱい使って確認したものです」

「ああ」

「それを、六分で?」


 三人の視線が集まり、私は居心地が悪くなった。


「最初の数から、売れた数と残った数を引いただけですが」

「我々三人とも、それを見落としたから驚いているんです」


 主任が絞り出すように言った。


 私は何か失礼なことをしたのかと思ったが、カイル様は椅子の背にもたれ、短く息を吐いた。


「採用する。住み込みの部屋も用意しよう」

「本当ですか?」

「ああ。最初は見習い帳簿係だ。ただし、清書だけでなく照合作業にも入ってもらう」

「私でよろしいのでしょうか」

「三人が半日かけても見つけられなかった誤りを、君は六分で見つけた」


 彼は答案を机へ置いた。


「君の仕事を、簡単な雑用とは呼ばないほうがいい」

「ですが、数を比べただけです」

「それを正確にできる人間を、商会は金を払って雇うんだ」


 仕事を褒められたことなど、一度もなかった。


 返事ができずにいると、カイル様は正式な雇用契約書を差し出した。


「ようこそ、ハーグレン商会へ」


 ◇


 同じ頃、アルヴェル伯爵家では、使用人の給与台帳を前に兄が眉をひそめていた。


「今月は、いくら支払えばいい?」


 執事が机の引き出しを調べる。


「最新の一覧が見当たりません」

「前年と同じで構わないだろう」

「今年は昇給した者が五名、退職した者が三名おります」

「では、誰かに計算させろ」

「これまではリゼットお嬢様が、勤務日数まで確認しておられました」

「姉上が?」


 兄は意外そうな顔をしたものの、すぐに手を振った。


「帳簿へ数字を書くだけだ。半日もあれば終わる」


 だが、三人の使用人が一日かけても金額は合わなかった。


 給金日に足りなかった金貨十一枚は、屋敷の予備費から支払われた。


 父は「初めてだから仕方がない」と言った。


 まだ誰も、それを問題だとは思わなかった。


 ◇


 商会で働き始めた翌日、私は前日の売上と入金額を照らし合わせるよう命じられた。


 先輩帳簿係のニナさんが、計算済みの紙を渡してくれる。


「ここまで終わっているから、あなたは清書をお願い。合計は金貨百二十八枚ね」

「はい」


 私は数字を書き写し、五枚目の伝票で手を止めた。


「ニナさん。合計は金貨百三十七枚ではないでしょうか」

「え?」

「干し肉二十樽を、一樽あたり銀貨九枚で販売しています。売上は金貨十八枚ですが、帳簿には金貨九枚とあります」

「そんな……昨夜、三回計算したのよ」


 ニナさんは伝票を取り上げ、急いで算盤を弾いた。


 手が途中で止まる。


「本当だ。でも、販売数のほうが間違っているかもしれないわ」

「仕入れは四十五樽、先週までの販売は二十一樽、昨日が二十樽なら、倉庫には四樽残るはずです。倉庫台帳も四樽ですから、販売数は合っていると思います」

「仕入れ数まで覚えているの?」

「昨日、一覧を確認しましたので」


 ニナさんは私を見つめたあと、売り場の責任者を呼んだ。


 金庫、売上伝票、倉庫の三か所が調べられた。


 代金は正しく金貨十八枚受け取っていた。間違っていたのは帳簿だけだった。


「金貨九枚の記載漏れです!」


 報告を聞いた職員たちが、次々に手を止める。


 金貨九枚は職員二人分の月給に近い。


「どうして五枚目で分かったの?」


 ニナさんが聞いた。


「数字の並びに違和感がありましたから」

「昨日見ただけの仕入れ数と在庫数を覚えていて?」

「帳簿を確認するなら、必要な数字ではありませんか?」


 ニナさんは近くの同僚と顔を見合わせた。


「必要だけど、普通は全部を頭に残せないのよ」


 その日の午後、私は再び商会長室へ呼ばれた。


「見習い初日に、金貨九枚を守ったそうだな」

「帳簿へ書き忘れていただけです。お金自体は金庫にありました」

「君が気づかなければ、帳簿に存在しない金貨になる。横領されても、年度末まで分からなかっただろう」

「そこまで大きなことなのでしょうか」

「大きい」


 カイル様は、はっきりと言った。


「昨日の倉庫一覧には三百種類以上の商品があった。その数字と今日の伝票を結びつけたんだろう?」

「はい」

「うちの熟練帳簿係でも、一覧を見ずにはできない」

「では、これは私の得意なことなのでしょうか」

「今まで気づいていなかったのか?」


 私が頷くと、カイル様は額を押さえた。


「明日から清書だけでなく、ニナと一緒に全取引の照合をしてほしい」

「見習いの私がですか?」

「君だから任せる」


 その言葉を聞いた夜、私はなかなか眠れなかった。


 明日、自分を待っている仕事がある。


 それが、朝を待ち遠しいと思えるほど嬉しかった。


 ◇


 アルヴェル伯爵家では、食料商人が小麦粉の値上げを申し出ていた。


「天候不順でございます。今年はどこも、この価格です」


 父は差し出された契約書へ署名した。


 ところが翌日、執事が青い顔で報告する。


「近隣の商人二社へ確認したところ、以前とほぼ同じ価格で納められるそうです」

「なぜ先に調べなかった?」

「例年は、三社の見積書が旦那様の机に置かれておりました」

「誰が用意していた?」

「リゼットお嬢様です」


 父の顔が不機嫌に歪んだ。


「暇な娘に見積書を読ませていただけだ。次から別の者にやらせろ」


 しかし、執事には屋敷全体の管理がある。


 侍女たちは妹の婚礼支度に追われ、領地の使用人は王都の相場を知らない。


 結局、伯爵家は一年分の小麦粉を以前より三割高い価格で契約した。


 その損失は、リゼット一人を一年養う費用を超えていた。


 けれど父は、それも一度きりの失敗だと思っていた。


 ◇


 私が商会で働き始めて三週間後、倉庫に大きな問題が起きた。


 南支店から、染色用の赤い実が八十袋も返品されてきたのだ。


 本店には、すでに百二十袋が残っている。


 湿気に弱い商品なので、このままでは倉庫を圧迫するうえ、春までに傷む可能性があった。


「半額にして売るしかありません」


 営業責任者が言った。


「南で売れなかった商品です。ほかへ運んでも、輸送費が増えるだけでしょう」

「半額なら損失はいくらだ?」

「八十袋で金貨九十六枚です」


 会議室の空気が重くなる。


 私は部屋の隅で、各支店の報告書を見比べていた。


 見習いの私に発言権はない。


 それでも、どうしても数字が合わなかった。


「あの……赤い実は、本当に売れていないのでしょうか」


 営業責任者が怪訝な顔をした。


「八十袋も戻ってきたんだ。売れていないだろう」

「南支店では、そうです。でも北支店では先月だけで七十六袋、西支店では四十二袋売れています」

「何?」


 数人が一斉に報告書をめくった。


「北では染色工房が増えています。西支店からは、次の入荷前に在庫が尽きるという報告も届いていました」

「つまり、売れないのではなく……」

「売れない場所へ集まりすぎています」


 私は支店別の在庫表を並べた。


「南支店には月平均販売数の六倍が送られています。前年の割合で配分したためです。今年は南部で青染めが流行し、北部では新しい染色工房が三軒増えています」

「南から北へ八十袋を送るのか?」

「いいえ。全量では北で余ります。六十袋を北へ、二十袋を西へ送るのがよいと思います」

「新人の予測だけで八十袋を動かすわけにはいかん」


 営業責任者の反対はもっともだった。


 カイル様は私を見た。


「検証する方法は?」

「各支店へ、本日中に買い取り希望数を照会してください。それから、明後日の北行きの荷車には積載量の余裕があるはずです」

「なぜ知っている?」

「毛織物百五十反を積む予定ですが、先月の同じ便は二百十反を運んでいますから」


 配送責任者が勢いよく立ち上がり、予定表を確認した。


「本当だ。荷車二台に、八十袋を積める空きがあります」


 会議室が静かになる。


 カイル様はすぐに指示を出した。


「北と西へ照会しろ。返答が来るまで、値下げは保留だ」


 その日の夕方、両支店から回答が届いた。


 北支店は六十袋すべてを希望。西支店も、二十袋なら一か月以内に販売できるという。


 営業責任者は回答書を二度読み、ゆっくり私へ向き直った。


「北の需要増加は知っていた。南の流行も聞いていた。だが、同じ商品について考えたことがなかった」

「支店別の報告書になっていましたから、気づきにくかったのだと思います」

「私はこの仕事を十五年している」


 彼は苦笑した。


「それでも見落としたことを、入って三週間の君が見つけたんだ。気づきにくかったでは済まないな」


 赤い実は、北へ届いて十日で四十八袋が売れた。西へ送った二十袋も、染色組合がまとめて買い取った。


 値下げは一度もしなかった。


 その後、私は各支店の販売数を月ごとに並べ、配分を見直した。


 冬用の厚い靴は北へ。


 香草と薄手の布は南へ。


 西方の鉱山都市には、工具と保存食を多めに。


 翌月、倉庫の保管費は前年より二割減り、欠品による販売機会の損失も半分以下になった。


 結果が会議で報告されると、職員たちの会話が止まった。


「保管費、二割減……?」


 倉庫長が書類を顔の近くまで持ち上げる。


「これまで五年、一割減らすことすらできなかったぞ」

「北支店からも、リゼットさんに次の配分を決めてほしいと指名が来ています」

「支店から見習いを指名?」


 カイル様は報告書を閉じた。


「今日で見習いを外す。リゼットには、正式に在庫管理補佐を任せる」

「もう、よろしいのですか?」

「結果を出した人間を、いつまでも見習いの給金で働かせるほうがおかしい」


 差し出された新しい契約書には、以前の倍近い給金が記されていた。


「多すぎるのでは……」

「少なすぎるとは言っても、多すぎるとは言わなくていい」


 カイル様は、わずかに笑った。


「君が防いだ損失だけで、この給金を十年払える」

「十年……」

「君の仕事には、それだけの価値がある」


 署名する手が、ほんの少し震えた。


 実家では当たり前だった雑用が、ここでは成果として数えられ、給金という形で返ってくる。


 私は初めて、自分の仕事の値段を知った。


 ◇


 その頃、アルヴェル伯爵家には税の督促状が届いていた。


 兄が支払日を一か月間違えていたのだ。


「なぜ、誰も教えなかった!」

「昨年までは、期限の十日前と三日前に、リゼットお嬢様から確認がございました」

「では、今年から誰かが確認しろ!」

「その『誰か』を決めていただけますか」


 執事の問いに、兄は答えられなかった。


 領地から届いた収支報告も、村ごとに書式が違い、穀物と現金の税収が混在している。確認には何日もかかった。


「なぜ今まで問題なく回っていた?」


 父が苛立った声を上げる。


 マーサが静かに答えた。


「リゼットお嬢様が、旦那様へお見せする前に、すべて直しておられたからでございます」

「誰に頼まれて?」

「誰にも。皆が困らないように、と」


 食堂に沈黙が落ちた。


 しかし父は、まだ認めなかった。


「慣れれば誰にでもできる」


 その言葉とは反対に、帳簿の不一致は月ごとに増えていった。


 ◇


 冬を前に、ハーグレン商会の存続に関わる問題が起きた。


 北部三都市の不作で、小麦の価格が急騰したのだ。


 商会は秋のうちに、南部のローデ商会から小麦五千袋を仕入れる契約を結んでいた。


 ところが相手は、不作を理由に一袋あたり銀貨八枚の値上げを要求してきた。


「追加で金貨四千枚です」


 経理長の声がかすれる。


「支払えば、冬の運転資金が尽きます。しかし拒否すれば小麦が届かず、違約金まで請求される」

「先方の計算に誤りは?」

「仕入れ担当三人と経理二人で、朝から調べています」


 机には大量の契約書と相場表が積まれていた。


 五人が半日かけても、値上げを拒む根拠を見つけられなかったという。


 私は契約書、南部の収穫報告、過去三年の価格表を順に並べた。


 小麦の相場は確かに上がっている。


 けれど、袋代まで同じ割合で値上がりしている。


 しかも、五千袋すべてが上等小麦の価格で計算されていた。


「カイル様。この請求額は、契約内容と一致していません」

「どこがだ?」


 室内の五人が、一斉にこちらを見た。


「契約した五千袋のうち、上等小麦は二千袋。残り三千袋は中等小麦です。ですが請求書では、五千袋すべてが上等小麦として計算されています」

「まさか」


 経理長が請求書を取り上げ、算盤を弾く。


 仕入れ担当者たちも契約書へ集まった。


 玉を弾く音だけが続く。


 やがて、経理長の手が止まった。


「一致します……リゼットさんの言うとおりです」

「袋代も二重に入っています」

「こちらは?」


 さらに計算が始まる。


「本当だ。一袋につき銀貨一枚、多い」


 五人が、請求書と私の顔を交互に見た。


「我々が半日調べた書類だぞ」

「数字そのものは正しく計算されていましたから。契約した品種と比べなければ、誤りに見えません」

「君は、いつ気づいた?」

「先ほど、品種別の価格を並べたときです」

「先ほどって……まだ四半刻も経っていないぞ」


 仕入れ責任者が椅子へ座り直した。


 カイル様だけが、驚きを押し込めるように書面を見つめていた。


「先方が訂正を拒んだ場合は?」

「中等小麦三千袋の代わりに、大麦を仕入れます」

「大麦?」

「南西部は今年、大麦が豊作です。先月、西支店へ農業組合から売り込みがありました」

「その書類まで覚えているのか」

「在庫相談の資料にありましたから」


 私は昨年冬の販売記録を開いた。


「昨年、小麦が不足した月には、大麦粉が通常の三倍売れています。パン屋には小麦と混ぜる割合を伝え、食堂には粥や煮込み用として卸します。豆と塩漬け肉を組み合わせれば、安価な冬越し商品にもできます」

「費用は?」

「大麦三千袋と豆千袋を仕入れても、ローデ商会の要求を受けるより金貨千六百枚ほど抑えられます」


 再び、経理長が計算した。


「輸送費を入れても……合っています」

「新しい仕入れ先と、すぐ契約できるのか?」

「農業組合は買い手を探しています。こちらに不利な条件を受け入れる必要はありません」


 カイル様はしばらく黙っていた。


 そして、机の上の書類を一つにまとめた。


「ローデ商会との交渉に行く。リゼット、同行してくれ」

「私がですか?」

「五人が半日かけても見つけられなかった突破口を、君が見つけた。交渉の場にも君の数字が必要だ」


 五人の専門家が、反対せずに頷いた。


「分かりました。この仕事なら、私がお役に立てます」


 初めて、自分からそう言えた。


 ◇


 ローデ商会との交渉は、ノルデンの商業組合会館で行われた。


「価格の引き上げは南部全体の相場によるものです」


 先方の代表は穏やかに笑った。


「受け入れられないなら契約を取り消すしかありません。もちろん、違約金はいただきますが」

「一つ、確認させてください」


 私は計算表を差し出した。


「値上げ後の金額では、中等小麦三千袋も上等小麦として計算されています」

「輸送や保管の都合を含めた価格です」

「それでしたら、袋代が二重に加算されている理由をご説明ください」


 代表の笑顔が固まった。


「細かな諸経費でしょう」

「内訳のない経費を、契約後に加えられる条項はございません」


 契約書の該当箇所を示す。


 代表は私を値踏みするように見た。


「若いお嬢さんには、南部の事情がお分かりにならないのでは?」

「南部の今年の小麦収穫量は、前年より一割弱の減少です。ですが、貴商会の要求額は三割以上の値上げ。輸送費を加えても説明できません」

「拒否すれば、小麦を用意できなくなりますよ」


 そこでカイル様が、大麦の見積書を机へ置いた。


「契約どおり上等小麦二千袋だけを引き取る。中等小麦は商業組合に仲裁を求め、代わりに南西部から大麦を仕入れる」

「小麦なしで冬を越せると?」

「そのための商品計画も、すでに完成している」


 彼は、私が作った販売計画を先方へ見せた。


 代表の顔から、余裕が消えた。


 二時間後。


 値上げは一袋あたり銀貨三枚で決着し、追加の袋代も撤回された。


 会館を出た途端、膝から力が抜けそうになった。


「緊張しました……」

「そうは見えなかった」

「膝はずっと震えていました」

「それでも引かなかっただろう」

「数字が間違っていないことは分かっていましたから」


 カイル様が声を上げて笑った。


 初めて見る笑い方だった。


 帰りの馬車で、彼は改めて私へ向き直った。


「今日、君が守った金額は金貨二千五百枚を超える」

「そんなに……」

「それだけではない。代替案があったから、こちらは対等に交渉できた」


 彼は深く頭を下げた。


「商会を救ってくれた。ありがとう」


 商会長が、一職員の私へ頭を下げている。


 驚いて止めようとしたが、彼はすぐには顔を上げなかった。


「商会を代表して伝えている。君の功績を曖昧にするつもりはない」


 胸の奥に、温かなものが広がった。


 美しいとも、優雅だとも言われていない。


 私が見つけ、考え、伝えた仕事を、そのまま認めてもらえた。


 それが何より嬉しかった。


 大麦と豆を組み合わせた冬越し商品は、予想以上に売れた。


 北部の食料店から追加注文が相次ぎ、ハーグレン商会は危機を逃れただけでなく、冬期としては創業以来最高の利益を上げた。


 従業員には特別手当が支給された。


「これ、リゼットさんのおかげですよ」

「北支店から、次の仕入れ計画も見てほしいそうです」

「西の農業組合も、今後はリゼットさんを通して取引したいと」


 職員たちが私の机へ報告書を運んでくる。


 以前は会議室の隅に座っていた私の前で、営業責任者や倉庫長が判断を待っていた。


 数字を見ること。


 違いを見つけること。


 余っている品を、必要な場所へ届けること。


 それが、私の仕事だ。


 私には、この仕事ができる。


 ◇


 同じ冬、アルヴェル伯爵家の帳簿では、領地の税収が実際より金貨六百枚多く記載されていた。


 父は領地管理人の横領を疑った。


 だが調べた結果、穀物で納められた分と、現金へ換算した分を二重に数えていたと判明した。


「五人が確認したのではなかったのか!」

「村ごとに記載方法が違います。誰も全体を照合しておりませんでした」

「以前はどうしていた?」

「リゼットお嬢様が、二十四村の報告書を統一しておられました」


 税の延滞金。


 相場より三割高い修繕費。


 必要数の倍を注文した婚礼用食器。


 返済期限を確認しないまま借りた、妹の支度金。


 一つ一つは、伯爵家を潰すほどの損ではない。


 だが、小さな損が半年間積み重なり、使用人の給金にも困る穴となった。


「これまで、なぜ何も問題が起きなかった?」


 疲れ切った父に、執事が答えた。


「起きていなかったのではございません」

「何?」

「リゼットお嬢様が、旦那様へ報告する前に直しておられたのです。見積もりを比べ、支払期限を整理し、領地の数字を確かめて。旦那様方が問題をご覧にならずに済んでいただけでございます」

「帳簿を書いていただけでは……」

「いいえ。お嬢様が、伯爵家の支出と収入を管理しておられました」


 父も兄も、返す言葉を失った。


 そこへ債権者から返済を求める書状が届いた。


 王都の銀行へ追加融資を申し込んだが、収支の合わない帳簿を理由に拒絶された。


 屋敷の使用人も七人が辞職を申し出た。給金の遅れる家では働けないという。


 父はその夜、初めて口にした。


「リゼットを追い出したことが、間違いだったのか」


 兄は答えられなかった。


 彼が資金を借りられる相手を探し、北部で急成長している商会へ行き着いた。


 ハーグレン商会。


 財務状況の悪い領地にも、厳格な再建計画を条件に融資することがあるという。


 父と兄は辺境都市ノルデンへ向かった。


 そこに私がいるとは知らずに。


 ◇


「アルヴェル伯爵家から、融資の相談が来ている」


 カイル様からそう聞かされたとき、私の指が止まった。


「私の実家です」

「ああ。過去の帳簿に、君の署名があった」


 渡された書類へ目を通す。


 半年離れただけで、数字はひどく乱れていた。


 それでも、立て直せないほどではない。農地と税収は残っている。不要な支出を止め、返済時期を調整すれば、三年ほどで安定するだろう。


「君は、この案件から外れてもいい」


 カイル様が言った。


「無理に家族と会う必要はない」

「いいえ。以前の帳簿を最も理解しているのは私です」

「つらくないか?」

「少し怖いです。でも、仕事としてなら向き合えます」

「分かった。ただし、融資の最終判断は俺と経理長が行う。君一人に家族の命運を背負わせるつもりはない」


 その配慮が嬉しかった。


「ありがとうございます」


 面会の日。


 会議室へ入ってきた父と兄は、私を見るなり足を止めた。


 私は商会の制服を着て、二人の部下と融資資料を用意していた。


「リゼット……?」

「お久しぶりでございます」

「なぜ、お前がここにいる」

「こちらで働いております」

「帳簿係としてか?」

「現在は、財務管理室の主任です」


 兄が聞き間違いを疑うように、私と部下を見比べた。


「主任?」

「今回の再建計画を作ったのも、リゼット主任です」


 カイル様が告げる。


「彼女は当商会の在庫と収支を管理し、先日の小麦取引では金貨二千五百枚以上の損失を防ぎました。北と西の支店からも、直接指名されている重要な職員です」


 父の目が見開かれた。


「リゼットが……金貨二千五百枚を?」

「はい。彼女がいなければ、当商会は冬を越せなかった可能性すらあります」


 会議室が静まり返る。


 父がかつて「帳簿しか書けない」と捨てた娘を、商会長が「いなければ困る」と断言している。


 兄は私の前に並んだ資料を見た。


「部下までいるのか」

「はい。五名おります」


 父と兄は、すぐには席へ座れなかった。


 私は実家の帳簿を開いた。


「アルヴェル領には返済能力があります。ただし、現在の支出を続けるなら融資はできません」


 条件を一つずつ読み上げる。


「婚礼費用の追加支出を停止すること。余分に購入した食器と新しい馬車を売却すること。お父様とお兄様の裁量費を三年間半減すること。二十四村の収支報告を統一し、毎月商会の監査を受けること。返済が滞った場合は、東の森林から得られる収入を担保として商会へ渡すこと」

「当主の支出にまで条件をつけるのか」


 兄が顔をしかめた。


「商会のお金です。私情で条件を緩めることはできません」

「お前の実家だぞ」

「だからこそ、公平に審査しました」


 兄はなおも何か言おうとしたが、父が片手で制した。


「この計画も、お前が作ったのか」

「はい」

「家の帳簿も……以前はすべてお前が?」

「必要な確認をしていただけです」

「それを、我々は雑用だと思っていた」


 父は組んだ両手へ視線を落とした。


「お前が問題を直していたから、我々には何も起きていないように見えていた。お前を追い出したあと、半年で金貨千枚を超える損が出た」

「……そうですか」

「リゼット。家へ戻ってこい」


 父が顔を上げた。


 命令する口調だったが、その声には以前の力がなかった。


「お前の執務室を用意する。今度は相応の給金も払う。だから伯爵家を立て直してくれ」


 父が必要としているのは、娘としての私ではない。


 帳簿を直し、支払いを管理し、家を立て直す働き手だ。


 けれど、そのことに怒りは湧かなかった。


 私にはもう、自分で選べる場所がある。


「申し訳ありません。戻るつもりはございません」

「なぜだ。ここでしている仕事を、家ですればいい。お前はアルヴェル家の娘だろう」

「ええ。ですから、領民や使用人が困らないよう、再建できる計画を作りました」


 私は父をまっすぐ見た。


「でも、以前の私は、家族だから無給で働いておりました。今の私は、ハーグレン商会の財務管理室主任です」

「家族より、商会を選ぶというのか」

「私が必要とされている場所を選びます」


 父が息を呑んだ。


「こちらでは私の仕事に、きちんとお給金をいただけますので」


 誰も何も言わなかった。


 罵りたいとは思わない。


 謝罪を強いるつもりもない。


 ただ、戻る理由が一つもなかった。


 やがて父が、深く頭を下げた。


「……我々が、間違っていた」


 追い出された夜にも、家で働いていた十八年間にも、父が私へ頭を下げたことはなかった。


「お前が守っていたものを、失ってから初めて知った。すまなかった」


 謝罪を受けても、過去は変わらない。


 だから私は、融資の担当者として答えた。


「条件を守っていただければ、領地は立て直せます」

「分かった。すべて受け入れよう」


 契約は成立した。


 ただし、以前の生活へ戻れるわけではない。


 婚礼の規模は縮小され、豪華な食器と馬車は売却。父と兄は毎月の収支を商会へ報告し、支出には経理長の承認が必要となった。


 伯爵家は今後三年間、私が作った計画の下で借金を返していく。


 父と兄が退室する間際、兄が振り返った。


「お前が家で何をしていたのか、知らなかった」

「私も、価値のある仕事だとは知りませんでした」

「俺たちが、そう思わせていたんだな」


 兄は目を伏せ、そのまま扉の向こうへ消えた。


 扉が閉じても、悲しくはなかった。


 私はもう、自分を役立たずだと思っていた頃へ戻らなくていいのだ。


 ◇


 融資契約から一週間後、私は商会長室へ呼ばれた。


 机には、新しい組織表が置かれている。


『財務管理室長 リゼット・アルヴェル』


「室長……私がですか?」

「商会全体の在庫と収支を結びつけて判断できる人間は、君しかいない。部下は五人。各支店へ必要な資料を提出させる権限も与える」

「そこまで任せていただけるのですか」

「赤い実の損失を防ぎ、保管費を二割削減し、小麦取引では商会を救った。さらに、破綻寸前の領地を三年で再建できる計画まで作った」


 カイル様は、一つずつ私の成果を数えた。


「これで任せなければ、俺は君の父親と同じくらい見る目がないことになる」

「それは……困りますね」

「ああ。商会長として大問題だ」


 二人で顔を見合わせ、笑った。


 以前の私なら、きっと「私などには荷が重い」と断っていただろう。


 けれど今は、任される仕事の意味も、自分が積み上げてきた成果も知っている。


「お引き受けします。この仕事なら、必ずお役に立ちます」

「頼りにしている」


 カイル様は微笑むと、組織表から手を離した。


「ここからは、商会長としてではなく、一人の男として聞いてほしい」

「はい」

「君が実家へ戻らないと言ったとき、安心した」

「担当者が減らずに済んだからですか?」

「それもある」

「それも?」

「君を失いたくないと思った」


 仕事を評価されたときとは違う速さで、胸が鳴った。


「ただ、昇進と同時に言えば、立場を利用して返事を求めたように聞こえる。だから今すぐ求婚するつもりはない」

「今すぐは?」

「まずは、仕事の外で君と過ごす許可がほしい」


 いつも迷いなく判断する人が、私の返事を待って緊張している。


 そのことが、少しだけ嬉しかった。


「それは、交際の申し込みでしょうか」

「ああ。雇用主と部下としてではなく、対等な二人として、君のことをもっと知りたい」

「でしたら、お受けします」


 カイル様の灰色の目が見開かれる。


「私も、仕事ではないカイル様のことを、もっと知りたいです」

「……ありがとう」


 彼は商会を救ったときよりも、ずっと安堵した顔で笑った。


 窓の外では、冬の雪が解け始めていた。


 商会の門から、何台もの荷車が出ていく。


 荷台には小麦と大麦、それから春に向けた新しい商品の箱が積まれている。


「室長、次の仕入れ計画を見ていただけますか?」


 扉の向こうから、部下の声がした。


「はい。今行きます」


 私は新しい帳簿を抱えて立ち上がる。


 まだ何も書かれていない、白い最初のページ。


 これから利益も損失も、成功も失敗も記されていくのだろう。


 それでも数字を確かめ、原因を探し、皆と相談しながら、よりよい答えを見つけていきたい。


 私の力は、派手な魔法ではない。


 剣を振るうことも、社交界の中心で輝くこともできない。


 けれど、数字を見れば、どこで誰が困っているのか分かる。


 余った品を必要な場所へ送り、不当な損失を防ぎ、人々の暮らしと仕事を支えられる。


 それは、誰にでもできる雑用ではなかった。


 私自身の、価値ある仕事だった。


「リゼット」


 部屋を出る直前、カイル様に呼び止められた。


「今夜、仕事が終わったら食事へ行かないか」

「帳簿の相談ですか?」

「できれば、今日は帳簿以外の話がしたい」

「では、定時までに仕事を終わらせませんと」

「室長命令で残業を禁じよう」

「商会長に、その権限はございません。残業が必要かどうかを判断するのは、財務管理室長ですので」

「もう俺より強いな」


 彼が楽しそうに笑う。


 私も笑いながら、扉を開いた。


 役立たずと呼ばれ、居場所を失った私は、もういない。


 ここには、私の仕事を必要としてくれる人たちがいる。


 そして、仕事以外の私も知りたいと言ってくれる人がいる。


 帳簿を書くことしかできないのではない。


 私は帳簿を書くことで、商会を、人々を、そして自分自身の未来を支えられる。


 春の光の中、新しい帳簿の最初のページを開く。


 そこへ私は、自分の手で最初の数字を書き込んだ。




最後までご覧いただきありがとうございました!


「帳簿しか書けない役立たず」


の次は――


「検品しかできない役立たず」


婚約破棄された令嬢を拾った辺境都市

→彼女のおかげで救われる。


彼女を捨てた元婚約者の工房

→ …………。


もう、再検査してあげません。


▼次の「お仕事×逆転×ざまあ」短編はこちら

https://ncode.syosetu.com/n8889ms/

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― 新着の感想 ―
読んで疑問だったのが、兄は誰に対しての兄なんでしょうか? リゼットお嬢様に対して「姉上が?」ってセリフが出てきて「?」ってなりました
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