第9話 全部、あなたたちのおかげでした
「僕は、間違っていたのか」
ヴィクトルの声が、男爵家の門前に落ちた。
婚約破棄が成立した翌日の朝。予告もなく現れた元婚約者は、馬の手綱を握ったまま、地面を見つめていた。
金髪が秋風に乱れている。フロックコートの襟が曲がっている。社交界で「非の打ち所のない紳士」と呼ばれた男が、身だしなみを崩してここに来た。それだけで、この人の中で何かが崩れたのだと分かる。
「……リーゼロッテ」
「グリューネ嬢、とお呼びください」
「僕は——」
ヴィクトルが顔を上げた。碧い目が揺れている。あの日、付箋で矛盾を指摘した時の揺れとは違う。もっと深いところが揺れていた。
「僕は、お前のためを——いや」
言いかけて、止めた。「お前のために」。その言葉が、母の口癖と同じだと、やっと気づいたのだ。
「間違っていました」
私は答えた。迷わなかった。
「あなたのなさったことは、間違いです。弁解の余地はありません」
ヴィクトルの肩が落ちた。予想通りの反応。でも、ここで終わりじゃない。
「でも——それを教え直すのは、私の役目じゃありません」
目を見た。まっすぐに。
「あなたを壊したのはあなたのお母様です。あなたを直せるのは、あなた自身だけです」
沈黙。
秋風が落ち葉を巻き上げた。ヴィクトルは何も言わず、馬の手綱を引いて去っていった。その背中が小さくなるまで、私は見送った。
同情は、しない。でも——彼もまた、壊れた構造の被害者だった。クラウスなら「構造の問題だ」と言うだろう。問題を生んだのは構造であって、個人ではない。
でも、構造のせいだからといって、被害が消えるわけじゃない。
私は門を閉じた。
◇
午後。男爵家の広間で、事業の報告会を開いた。
出席者はソフィア、クラウス、父、そして領民の代表三名。小さなテーブルに、ソフィアの帳簿が開いてある。
「グリューネ便利商会の二ヶ月間の事業報告です。総売上、金貨五千二百枚。借金全額を返済し、領地の運営費を確保して、なお余剰があります」
声が震えそうになるのを堪えた。数字を読み上げる。前世の営業報告会と同じだ。違うのは、この数字が全部、自分の——いや、みんなの力で稼いだものだということ。
「ここまでこられたのは——」
言いかけた時だった。
「お嬢様」
ソフィアが手を挙げた。
「実は……一つ、ご報告があります」
ソフィアが帳簿の隣に、もう一冊のノートを置いた。見覚えのない装丁。
「お嬢様が数字を苦手にしていらっしゃるの、知っていましたから。売上の予測と、季節ごとの需要変動と、仕入れの最適タイミングを——」
分析レポートだった。ソフィアが独自に作った、商会の経営分析ノート。
「……いつの間に」
「お嬢様がクラウスさんの工房にいらっしゃる間に」
ソフィアが少しだけ笑った。照れと、誇りが混じった笑顔。
「お嬢様が数字苦手なの、知ってましたから」
胸が詰まった。
次に口を開いたのは、領民の代表——農家のおばさんだった。あの、最初に種芋を渡した日にくしゃっと笑ってくれた人。
「お嬢様。これ、受け取ってくだせぇ」
テーブルの上に、一枚の紙が置かれた。
署名だった。男爵領の領民たちの、署名。
「お嬢様に感謝を返したいって、みんなで集めたんです。あの黄色い紙で虫が減って、筆記具のおかげで子どもたちが字を覚えて。——お嬢様が来てから、うちの領地は変わりました」
二百を超える名前が、紙の上にぎっしり並んでいた。
「リーゼロッテ嬢」
今度は父だった。椅子から立ち上がって、私を見つめている。痩せた顔。白髪混じりの金髪。でも、いつもの疲れた顔ではなかった。
「あの時——お前に『もう一年我慢してくれ』と言ったのは——」
声が震えている。
「本当は、あの翌日から、私なりに動いていた。旧友のライデン伯に頭を下げて、侯爵家と交渉するための後ろ盾を頼んだ。直接戦うには力が足りないから、せめて味方を——」
不器用な人だ。行動が遅くて、口下手で、何一つ間に合わなかった。でも、何もしていなかったわけじゃなかった。
「お前に言わなかったのは——失敗した時に、お前を余計に落胆させたくなかったからだ」
不器用な父の、不器用な愛だった。
私は——言葉が出なかった。
クラウスを見た。彼は作業台の端に腰をかけて、腕を組んでいた。いつもの無表情。でも私は知っている。この人は、ここにいる誰より多く——
「クラウスさんにも、聞きたいことがあります」
声が震えた。構わない。
「私が召喚したアイテム。壊れて修理をお願いしたものだけじゃなく——壊れていないのに、いつの間にか使い心地が良くなっていたもの。何個、ありますか」
クラウスの表情が、ほんの一瞬だけ——固まった。
「……数えてない」
「嘘でしょう。あなた、数字に几帳面じゃないですか」
「……十七」
十七。
「ボールペンの重心調整。付箋の粘着力最適化。ホワイトボードのマーカー受けの角度修正。シャープペンシルの芯送り改良。梱包テープの——」
「もういいです」
泣きそうだった。いや、もう泣いている。
「全部——あなたが、直してくれてたの?」
「壊れてなくても、改善の余地はあった。それだけだ」
それだけ、じゃない。
この人は、私が気づかないところで、ずっと私の道具を——私の武器を——前より良くしてくれていた。
前世では。
前世では、誰も助けてくれなかった。一人で全部背負って、一人で全部抱えて、最後に一人で倒れた。
今世では——。
「全部」
声が掠れた。涙が頬を伝った。前世ではこんなに泣いたことがない。嘘だ。推しのフィギュアが配送中に壊れた時は泣いた。でも、あの時とは涙の温度が全然違う。
「全部、あなたたちの——おかげで——」
最後まで言えなかった。ソフィアが泣きながらハンカチを差し出してくれた。農家のおばさんがもらい泣きしていた。父が天井を見上げて瞬きを繰り返していた。
クラウスだけが無表情で——でも、握りしめた工具の持ち手が、白くなっていた。
◇
報告会の後。一人になって、窓辺に立った。
右手のひらを見る。感謝ポイントが、温かく光っている。
このポイントは、私が誰かに感謝された証だった。でも本当は——私が誰かに感謝する番だった。
前世の私は、助けを求めることが下手だった。自分でやったほうが早い。人に頼るのは甘え。そう思って、一人で全部抱えて、一人で壊れた。
今世の私は——たまたま、頼れる人に出会えた。それだけの違い。
でも「たまたま」じゃない。種芋を配ったのも、付箋を分けたのも、クラウスに修理を頼んだのも——全部、自分から手を伸ばした結果だ。
手を伸ばせば、誰かが伸ばし返してくれる。前世ではそれを知らなかった。
「私は、私の場所を作ります」
窓の外に向かって、呟いた。誰にも聞こえない声で。
侯爵家に依存しない。誰かの婚約者としてではなく。一人の人間として。
冬の風が窓を鳴らした。冷たいけれど、清々しかった。




