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モラハラ婚約者を正論と現代グッズで撃退する転生令嬢  作者: 秋月 もみじ


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第9話 全部、あなたたちのおかげでした


「僕は、間違っていたのか」


ヴィクトルの声が、男爵家の門前に落ちた。


婚約破棄が成立した翌日の朝。予告もなく現れた元婚約者は、馬の手綱を握ったまま、地面を見つめていた。


金髪が秋風に乱れている。フロックコートの襟が曲がっている。社交界で「非の打ち所のない紳士」と呼ばれた男が、身だしなみを崩してここに来た。それだけで、この人の中で何かが崩れたのだと分かる。


「……リーゼロッテ」

「グリューネ嬢、とお呼びください」

「僕は——」


ヴィクトルが顔を上げた。碧い目が揺れている。あの日、付箋で矛盾を指摘した時の揺れとは違う。もっと深いところが揺れていた。


「僕は、お前のためを——いや」


言いかけて、止めた。「お前のために」。その言葉が、母の口癖と同じだと、やっと気づいたのだ。


「間違っていました」


私は答えた。迷わなかった。


「あなたのなさったことは、間違いです。弁解の余地はありません」


ヴィクトルの肩が落ちた。予想通りの反応。でも、ここで終わりじゃない。


「でも——それを教え直すのは、私の役目じゃありません」


目を見た。まっすぐに。


「あなたを壊したのはあなたのお母様です。あなたを直せるのは、あなた自身だけです」


沈黙。


秋風が落ち葉を巻き上げた。ヴィクトルは何も言わず、馬の手綱を引いて去っていった。その背中が小さくなるまで、私は見送った。


同情は、しない。でも——彼もまた、壊れた構造の被害者だった。クラウスなら「構造の問題だ」と言うだろう。問題を生んだのは構造であって、個人ではない。


でも、構造のせいだからといって、被害が消えるわけじゃない。


私は門を閉じた。



午後。男爵家の広間で、事業の報告会を開いた。


出席者はソフィア、クラウス、父、そして領民の代表三名。小さなテーブルに、ソフィアの帳簿が開いてある。


「グリューネ便利商会の二ヶ月間の事業報告です。総売上、金貨五千二百枚。借金全額を返済し、領地の運営費を確保して、なお余剰があります」


声が震えそうになるのを堪えた。数字を読み上げる。前世の営業報告会と同じだ。違うのは、この数字が全部、自分の——いや、みんなの力で稼いだものだということ。


「ここまでこられたのは——」


言いかけた時だった。


「お嬢様」


ソフィアが手を挙げた。


「実は……一つ、ご報告があります」


ソフィアが帳簿の隣に、もう一冊のノートを置いた。見覚えのない装丁。


「お嬢様が数字を苦手にしていらっしゃるの、知っていましたから。売上の予測と、季節ごとの需要変動と、仕入れの最適タイミングを——」


分析レポートだった。ソフィアが独自に作った、商会の経営分析ノート。


「……いつの間に」

「お嬢様がクラウスさんの工房にいらっしゃる間に」


ソフィアが少しだけ笑った。照れと、誇りが混じった笑顔。


「お嬢様が数字苦手なの、知ってましたから」


胸が詰まった。


次に口を開いたのは、領民の代表——農家のおばさんだった。あの、最初に種芋を渡した日にくしゃっと笑ってくれた人。


「お嬢様。これ、受け取ってくだせぇ」


テーブルの上に、一枚の紙が置かれた。


署名だった。男爵領の領民たちの、署名。


「お嬢様に感謝を返したいって、みんなで集めたんです。あの黄色い紙で虫が減って、筆記具のおかげで子どもたちが字を覚えて。——お嬢様が来てから、うちの領地は変わりました」


二百を超える名前が、紙の上にぎっしり並んでいた。


「リーゼロッテ嬢」


今度は父だった。椅子から立ち上がって、私を見つめている。痩せた顔。白髪混じりの金髪。でも、いつもの疲れた顔ではなかった。


「あの時——お前に『もう一年我慢してくれ』と言ったのは——」


声が震えている。


「本当は、あの翌日から、私なりに動いていた。旧友のライデン伯に頭を下げて、侯爵家と交渉するための後ろ盾を頼んだ。直接戦うには力が足りないから、せめて味方を——」


不器用な人だ。行動が遅くて、口下手で、何一つ間に合わなかった。でも、何もしていなかったわけじゃなかった。


「お前に言わなかったのは——失敗した時に、お前を余計に落胆させたくなかったからだ」


不器用な父の、不器用な愛だった。


私は——言葉が出なかった。


クラウスを見た。彼は作業台の端に腰をかけて、腕を組んでいた。いつもの無表情。でも私は知っている。この人は、ここにいる誰より多く——


「クラウスさんにも、聞きたいことがあります」


声が震えた。構わない。


「私が召喚したアイテム。壊れて修理をお願いしたものだけじゃなく——壊れていないのに、いつの間にか使い心地が良くなっていたもの。何個、ありますか」


クラウスの表情が、ほんの一瞬だけ——固まった。


「……数えてない」

「嘘でしょう。あなた、数字に几帳面じゃないですか」

「……十七」


十七。


「ボールペンの重心調整。付箋の粘着力最適化。ホワイトボードのマーカー受けの角度修正。シャープペンシルの芯送り改良。梱包テープの——」

「もういいです」


泣きそうだった。いや、もう泣いている。


「全部——あなたが、直してくれてたの?」

「壊れてなくても、改善の余地はあった。それだけだ」


それだけ、じゃない。


この人は、私が気づかないところで、ずっと私の道具を——私の武器を——前より良くしてくれていた。


前世では。


前世では、誰も助けてくれなかった。一人で全部背負って、一人で全部抱えて、最後に一人で倒れた。


今世では——。


「全部」


声が掠れた。涙が頬を伝った。前世ではこんなに泣いたことがない。嘘だ。推しのフィギュアが配送中に壊れた時は泣いた。でも、あの時とは涙の温度が全然違う。


「全部、あなたたちの——おかげで——」


最後まで言えなかった。ソフィアが泣きながらハンカチを差し出してくれた。農家のおばさんがもらい泣きしていた。父が天井を見上げて瞬きを繰り返していた。


クラウスだけが無表情で——でも、握りしめた工具の持ち手が、白くなっていた。



報告会の後。一人になって、窓辺に立った。


右手のひらを見る。感謝ポイントが、温かく光っている。


このポイントは、私が誰かに感謝された証だった。でも本当は——私が誰かに感謝する番だった。


前世の私は、助けを求めることが下手だった。自分でやったほうが早い。人に頼るのは甘え。そう思って、一人で全部抱えて、一人で壊れた。


今世の私は——たまたま、頼れる人に出会えた。それだけの違い。


でも「たまたま」じゃない。種芋を配ったのも、付箋を分けたのも、クラウスに修理を頼んだのも——全部、自分から手を伸ばした結果だ。


手を伸ばせば、誰かが伸ばし返してくれる。前世ではそれを知らなかった。


「私は、私の場所を作ります」


窓の外に向かって、呟いた。誰にも聞こえない声で。


侯爵家に依存しない。誰かの婚約者としてではなく。一人の人間として。


冬の風が窓を鳴らした。冷たいけれど、清々しかった。

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