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モラハラ婚約者を正論と現代グッズで撃退する転生令嬢  作者: 秋月 もみじ


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第8話 侯爵夫人の口癖


侯爵夫人が微笑んだ。つまり、戦争が始まった。


エルヴィラの妨害は、前世の部長の嫌がらせよりずっと洗練されていた。


まず、王都の商会に「グリューネ便利商会の商品は、侯爵家の技術を盗用したものではないか」という噂を流した。証拠はない。でも噂だけで十分だ。貴族社会では噂=事実。前世のSNS炎上と同じ構造。


次に、男爵領への物資流通を間接的に絞った。侯爵家は街道の通行管理権を持っている。通行税を上げるだけで、商品の輸送コストが跳ね上がる。


「お嬢様、今月の利益が先月の半分に……」


ソフィアが帳簿を見ながら唇を噛んでいた。


予想はしていた。エルヴィラが黙っているはずがないと。でも、こんなに早く、こんなに正確に急所を突いてくるとは。


あの人は、二十年かけて侯爵家の内外を掌握してきた。私の二ヶ月の事業なんて、踏み潰すのは指先一つだ。


「——でもね」


私は椅子から立ち上がった。


「あの人は一つだけ見落としている」



王宮の婚姻調停局。二度目の訪問。


前回とは違う。今回は、手ぶらじゃない。


調停官フリードリヒの前に、三つの資料を並べた。


一つ目。ボイスレコーダーの書き起こし。感謝ポイントで召喚したボイスレコーダー——二百ポイントかかった、最大の投資——で録音した、エルヴィラの「教育」の全記録。


「あなたのためを思っているのよ」

「頑張っているのに結果が出ないのは、才能がないということよ?」

「努力が足りないんじゃなくて、あなた自身が足りないの」


文字にすると、より残酷さが際立つ。前世でパワハラの証拠を会社に提出した人の気持ちが、今ならわかる。あの時は他人事だと思っていた。まさか異世界で自分がやることになるとは。


ちなみにボイスレコーダーの操作は前世の癖で完璧だった。営業時代、大事な商談は必ず録音していた。上司にも言わずに。あれがなかったら、いくつかの案件は嘘の報告書で潰されていただろう。記録は武器になる。前世で一番役に立った教訓だ。


二つ目。ヴィクトルの発言記録。ソフィアが初日から日付入りで記録してくれた、全ての「教育」発言。矛盾の一覧表つき。あの付箋の壁を、清書した資料。


三つ目。グリューネ便利商会の事業実績。領民の生活改善データ。売上推移。雇用創出数。男爵領の税収変化。


「リーゼロッテ嬢、これは……」


フリードリヒ調停官が白い眉を上げた。


「侯爵家は婚約者を精神的に支配していました。一方で、この婚約者は男爵領の経済を自力で立て直しています」


私は背筋を伸ばした。プレゼンの姿勢。前世で何百回とやった。


「精神的虐待の証拠。事業による経済的自立の証拠。そして——婚約契約書第二十三条に基づき、貸付金の全額返済を完了しました」


三つ目の資料の最後のページ。返済完了証明書。金貨五千枚。事業の利益と、領民からの出資と、父が密かに他の貴族から借りた分を合わせて——ぎりぎり間に合った。


フリードリヒが長い間、資料を読んでいた。ペンが動く。書類にサインをする音。


「——婚約破棄を認めます。精神的虐待の認定に基づき、違約金は免除。借金は既に全額返済済みにつき、侯爵家の拘束力は消滅します」


ソフィアが隣で泣いていた。声を殺して。


私は泣かなかった。泣くのは、全部終わってからにする。



侯爵家の客間。最後の訪問。


ヴィクトルが椅子に座っていた。いつもの涼しい顔ではなかった。表情が——混乱、だった。怒りでもなく、悲しみでもなく、自分の中の何かが崩れたことに気づいた人間の顔。


「リーゼロッテ」

「リーゼロッテ・フォン・グリューネです。もう、呼び捨てにされる理由はありませんわ」


離縁状——正式には婚約解消通知書——をテーブルの上に置いた。銀のインクが午後の光を反射する。


「……君は、最初から——」

「最初からではありません。途中から、です。あなたが私を教育するたびに、私は学びましたから」


ヴィクトルの手が、無意識に銀の茶匙に伸びた。いつもの癖。でも、その指先が微かに震えているのが見えた。


「一つだけ、お伝えしておきます」


私はヴィクトルの目を見た。碧い目。完璧に整った顔。社交界では「非の打ち所のない紳士」。でも私には、もう怖くない。


「あなたのお母様の口癖——『あなたのためを思っているのよ』。そっくりですね、あなたの口癖と」


ヴィクトルの顔から血の気が引いた。


「あなたが私にしたことは、エルヴィラ様があなたにしたことと同じです。教育という名の——」


止めた。これ以上は、私の役目じゃない。


「さようなら、ヴィクトル様」


踵を返した。背中に視線を感じたけれど、振り向かなかった。


玄関ホールでエルヴィラとすれ違った。完璧な微笑み。いつもの。でも、目の奥にわずかな——動揺? 怒り? いや、もっと複雑な何か。自分の支配構造が瓦解したことに対する、純粋な困惑。


「お世話になりました、エルヴィラ様」


私はにっこりと笑った。令嬢スマイル。半年間の教育の唯一の成果。


エルヴィラは何も言わなかった。言葉を返す前に、私は馬車に乗り込んでいた。



帰り道。


馬車の中で、クラウスに会った。正確には、馬車の車軸を点検しに来ていた。


「……終わったか」

「終わりました」


クラウスが何も言わないので、私も何も言わなかった。馬車の車軸にグリースを塗るクラウスの手を見ていた。油で黒くなった指。不器用で無骨で、でも精密な指。


「クラウスさん」

「何だ」

「……ありがとうございます。全部。証拠の整理も、商品の開発も、工房を使わせてくれたことも」


クラウスの手が一瞬止まった。グリースの缶を置いて、こちらを見た。


「構造が正しければ、結果は出る」


いつもの言葉。でも、その声が——いつもよりほんの少し、柔らかかった。


「……車軸、前より滑らかにしておいた。帰り道、揺れないはずだ」


ああ。この人は、いつもそうだ。言葉の代わりに、物を直す。気持ちの代わりに、機能を改善する。


不器用で、ぶっきらぼうで、感情の表現方法が工具しかない人。


でも、そういう人がいてくれたから、ここまで来られた。


馬車が動き出した。揺れない。本当に、前より滑らかだ。


窓の外を冬の景色が流れていく。初雪が近い。空気が澄んでいて、遠くの山の稜線まで見える。


前世の最後に見た景色は、駅前の道路だった。灰色のアスファルト。冬の夜。何も見えなかった。


今は、見える。遠くまで。

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