第6話 設計図を引き直す
笑っていたわけじゃない。笑い方しか知らなかっただけだ。
朝。自室の寝台の上で天井を見つめている。石壁の染みが人の顔に見える。前世の安アパートの天井も、水漏れの染みがあったっけ。あの頃は、毎朝目覚めるたびに「今日も会社か」と思っていた。
今朝は、「今日も侯爵家か」とすら思えない。思考が、動かない。
ソフィアがドアをノックした。朝食のライ麦パンと蜂蜜水を持ってきてくれた。
「お嬢様、お顔の色が——」
「大丈夫よ」
「……お嬢様は、どうしていつも笑っていられるんですか」
ソフィアの声に、純粋な疑問の色があった。責めているのではない。心の底から不思議なのだ。婚約者にモラハラされ、借金で首が回らず、昨夜は父に「あと一年我慢してくれ」と頭を下げられたのに——なぜ、笑えるのか。
「笑ってるんじゃないの」
声が、勝手に出た。
「笑うしかないの。だって、泣いたら——」
止まった。喉の奥が詰まった。
「泣いたら、また——あたし——」
一人称が崩れた。「わたくし」でも「私」でもなく、「あたし」。前世の鈴木真琴の口調が、令嬢の殻を突き破って出てきた。
「あたしは、もう、あんな終わり方——」
言葉にならなかった。目の縁が熱い。視界が滲む。
ソフィアが何も言わずに隣に座って、背中に手を置いてくれた。小さな手。温かい。前世では、泣いた時に背中に手を置いてくれる人はいなかった。
しばらくそうしていた。秋の朝の光が窓から差し込んで、石壁に薄い四角形を描いていた。
涙を拭いて、鼻をすすった。前世のティッシュが恋しい。この世界のハンカチは、鼻をかむと繊維が顔につく。
「……ソフィア、ごめんなさい。変なところ見せたわ」
「変じゃないです。お嬢様も、泣いていいんです」
『+3』。右手が温かい。こんな時でもポイントが入る。感謝って、不思議なものだ。
◇
昼過ぎ。侯爵家の離れにあるクラウスの作業部屋を訪ねた。
理由はない。強いて言えば、あの油と金属粉の匂いが嗅ぎたかった。前世のホームセンターの匂い。なぜか落ち着く。前世の心理学の本に「嗅覚は感情と直結している」と書いてあった気がする。
クラウスは壊れた蝶番の修理をしていた。私が入ってきても顔を上げない。いつものことだ。
作業台の隅に座った。何も言わない。クラウスも何も言わない。金属を削る音だけが響いている。キィン、キィン。規則正しくて、心地いい。
五分ほど経って、クラウスが顔を上げた。
「……目が赤い」
「え」
「腫れてる。泣いたか」
観察力が鋭いのか、デリカシーがないのか。たぶん両方。
「……ちょっとね」
「原因は」
「借金。五千金貨。婚約破棄できない」
事情を手短に話した。クラウスは黙って聞いていた。作業台の上のボールペン——先日修理してくれたもの——を手に取って、かちかちとノックしている。彼なりの「考え中」のサインだ。
「……婚約契約書を見た?」
「見た。第十七条に違約金条項」
「全条文は?」
「えっ」
全条文。十七条しか見ていなかった。
クラウスが視線をこちらに向けた。灰色の目が、機械の構造を見る時と同じ目をしている。
「構造を見るなら、部品を全部並べないと意味がない。一つの条文だけ見ても、全体の設計は分からない」
それは——機械の話なのか、私の状況の話なのか。
「……契約書、持ってこい」
◇
翌日。父に頼み込んで婚約契約書の写しを持ち出した。
クラウスの作業台の上に羊皮紙を広げる。二人で条文を一つ一つ読み上げていく。私が読んで、クラウスが構造を分析する。
第二十三条。
『貸付金の全額返済が完了した場合、本契約に基づく一切の拘束力は消滅する』
クラウスの指が、その一文で止まった。
「……これだ」
「借金を返せば、違約金条項も無効になる?」
「全額返済で拘束力消滅。十七条の違約金は、拘束力の一部だ。つまり——」
「借金を完済すれば、婚約破棄しても五千金貨を払わなくていい」
私たちは顔を見合わせた。
希望。小さくて、細くて、でも確かにある光。
「でも五千金貨をどうやって——」
呟いた瞬間、手のひらの残光が目に入った。感謝ポイント。領民への親切で溜まるポイント。現代アイテムを召喚できるポイント。
「……クラウスさん」
「何だ」
「あなた、現代アイテムを魔道具の技術で改良できますよね」
「……それが何だ」
「改良したアイテムを、売れませんか」
沈黙。クラウスが壊れた蝶番の代わりに、ボールペンを手に取った。かちかちかち。激しいノック。思考がフル回転している時の癖だ。
「……構造的には可能だ。素材はこの世界のもので代用できる。量産は——設計次第で——」
言葉が、いつもより多い。この人は、面白い構造の話になると饒舌になる。
「事業にしましょう。感謝ポイントで召喚したアイテムを、クラウスさんの技術で魔道具化して販売する。利益で借金を返す」
クラウスが手を止めた。ボールペンを置いて、こちらを見た。
「……あんたは、壊れた計画の原因を見つけた」
え。
「構造が壊れたなら、別の設計図を引けばいい」
その一言が、胸の中にすとんと落ちた。
泣いても怒ってもどうにもならなかった。でも、構造を分析して、別の道を見つけることはできる。
前世では、それに気づけなかった。壊れた構造の中で走り続けて、最後に身体のほうが先に壊れた。
「明日から、始めます」
私は立ち上がった。目がまだ少し腫れているけれど、不思議と視界はクリアだった。
クラウスが無言でボールペンを差し出した。先日修理してくれたやつだ。
「……直したら、前より書きやすくなった。計画書を書くなら使え」
「ありがとうございます」
ボールペンを受け取った。手に馴染む重さ。前より確かにスムーズだ。この人は壊れたものを、いつも前より良くして返す。
「あなた、物を直してる時だけ嬉しそうですね」
何気なく言ったら、クラウスが工具を——がちゃん。落とした。
「……別に」
耳の後ろが赤い。気のせいじゃない。今度は確信がある。
でも今は、恋とかそういうことを考えている場合じゃない。五千金貨。設計図を引き直す。計画を、もう一度。
帰りの馬車の中で、ソフィアに新しい計画を話した。
「感謝ポイント事業、明日から始めます。ソフィア、帳簿つけられる?」
「帳簿……ですか。お嬢様、わたくし、計算は得意ですわ。実は」
知らなかった。ソフィアに帳簿の才能があるなんて。
「頼りにしてるわ」
「——はい、お嬢様!」
『+2』。
ポイントが溜まっていく。一つ一つは小さいけれど。
窓の外を、秋の終わりの風景が流れていく。枯れた野薔薇。霜の降り始めた石畳。冬が近い。
でも——設計図がある。仲間がいる。
前世には、どちらもなかった。




