第5話 五千金貨の鎖
五千金貨。その数字が、逃げ道の扉に鍵をかけた。
王宮の婚姻調停局。石造りの建物の中は、書類のインクと古い蝋の匂いが充満していた。前世の法務局に似ている。窓口で延々と待たされるところまで似ている。
調停官のフリードリヒは、白髭を蓄えた初老の男だった。分厚い眼鏡の奥で目を細めながら、私の話を聞いてくれた。
「精神的な虐待の証拠があれば、婚姻調停に持ち込むことは可能です。ただし——」
ただし。ああ、前世でも散々聞いた接続詞だ。「可能です、ただし」の後に来るのは、大抵ろくなことじゃない。
「侯爵家と男爵家の間に、別途の契約がないことが前提です」
別途の契約。
嫌な予感がした。前世の営業時代に鍛えた勘が、背中のあたりでざわざわと騒いでいる。
◇
帰宅して、父の書斎を探した。
埃を被った書類棚の奥に、それはあった。婚約契約書。羊皮紙に銀のインクで書かれた正式な文書。端に淡い魔力の紋様が浮かんでいる——魔法契約だ。
第十七条。違約金条項。
『婚約を一方的に破棄する場合、破棄を申し出た側は、相手方家門に対し貸付金の全額即時返済を含む違約金を支払うものとする。本条項は魔法契約により拘束力を持つ』
指先で条文をなぞると、銀のインクがかすかに光った。魔法契約の証。この世界では、契約を破ると魔力が身体に反動を返すらしい。前世の契約不履行は裁判だったが、こっちは身体に直接来る。物理的にも逃げられない。
五千金貨。馬五千頭分。男爵家の年収の——数えたくない。数えたら終わる。前世の感覚で言えば、手取り二十万の社員に「退職したいなら五億払え」と言っているようなものだ。
前世の知識で「証拠を集めて告発」の戦略を組んだ。前世の法律相談サイトで読んだ手順を応用した。でも私は、異世界の魔法契約を知らなかった。
当たり前だ。ブラック企業の営業職が、中世ファンタジーの契約法に詳しいわけがない。
それでも——見落とした。前世の知識を過信した。
◇
翌日。侯爵家の客間。
ヴィクトルが、紅茶を飲みながら微笑んでいた。茶会の後から、彼の態度が変わっていた。以前の冷たい上から目線ではなく、もっと意図的な——計算された笑み。
「聞いたよ、リーゼロッテ。婚姻調停局に行ったんだって?」
心臓が止まりかけた。なぜ知っている。——いや、侯爵家の人脈なら王宮の出入りを把握するくらい造作もないか。
「婚約破棄がしたいなら、いいよ」
ヴィクトルが茶匙を置いた。かちり。静かな音。
「男爵家の借金、五千金貨。明日までに用意できるならね」
笑顔だった。完璧な笑顔。前世の上司が「退職届? いいよ。引き継ぎ資料三百ページ、今週中に作れるならね」と言った時の笑顔に似ていた。
退路を断つ笑顔だ。選択肢を与えているように見せて、実際にはどちらも地獄。前世のブラック企業の退職面談と同じ構造。
「できないなら、教育を続けよう。——君のためを思っているんだよ?」
銀の茶匙が指の間でくるりと回る。この人は、追い詰める時だけ本当に楽しそうな顔をする。
◇
夜。男爵家の書斎。
暖炉に薪がくべてある。珍しい。普段は半分しか焚かないのに。
父が、机の向こう側に座っていた。痩せた肩。白髪混じりの金髪。元は立派だったであろう軍服の上着が、肩で泳いでいる。
「リーゼ」
父が私を愛称で呼ぶのは、本当に大事な話の時だけだ。
「……頼むから、あと一年だけ。一年だけ我慢してくれ」
来た。
その言葉が、身体の中を突き抜けた。
前世の上司が「もう少しだけ頑張れ。来期には楽になるから」と言ったのは、何回だっただろう。十回? 二十回? 来期は永遠に来なかった。楽になったのは、意識を失った後だった。
「お父様……」
「分かっている。お前が苦しんでいるのは。でも、五千金貨がなければ、この領地が——」
父の声が震えていた。ヴィクトルの冷たい笑みとは正反対の、不器用で、弱くて、それでも必死の声。
責められない。この人も鎖に繋がれている。侯爵家に借金という名の鎖で。
書斎の窓から、秋の月が見えた。冷たい光だった。
前世の最後の夜を思い出す。終電を逃して、駅前のコンビニに寄った。たまごプリンが半額になっていた。——なぜ、最後の夜の記憶がコンビニのプリンなのか。もっと大事なことを覚えていそうなものなのに。
人間の記憶は、壊れかけの時ほどどうでもいいことを鮮明に覚えている。
ソフィアが書斎の外で立っているのが、ドアの隙間から見えた。入ってこない。彼女なりの気遣い。
「……お父様」
「……すまない、リーゼ」
父が頭を下げた。領主が、自分の娘に頭を下げた。白髪混じりの頭頂部が薄くなっているのが見えて、胸の奥がきゅっと痛んだ。この人は五十歳なのに、六十過ぎに見える。借金と心労で、身体が先に老けてしまったのだ。
前世の父親は——いなかった。母子家庭で、母は朝から晩まで働いていた。誰にも「我慢してくれ」と言われたことがなかった。言ってくれる人がいなかった。
だから。
「お父様、頭を上げてください」
声が震えた。でも、言い切った。
「一年は待てません。でも——」
右手のひらに、目を落とす。感謝ポイントの残高が、薄い光で浮かんでいる。
「——お金を返す方法を、私が見つけます」
父が顔を上げた。枯れた青い目に、驚きと——ほんの小さな、希望。
方法はまだない。計画は壊れた。前世の知識が通用しないことを、思い知らされた。
でも。
この手のひらに溜まった光は、前世にはなかったものだ。感謝。人から貰った温かさ。見返りを求めずに与えたものが返ってきた、その証拠。
計画が壊れたなら——別の計画を作ればいい。
前世の自分にはできなかった。でも、今世の私には、ある。
ソフィアがいる。クラウスがいる。領民たちの笑顔がある。前世のオフィスには、たった一人の味方もいなかった。
暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。父が、いつもより多く薪をくべてくれていた理由が分かった。この話をするために、せめて部屋だけは温かくしておこうと思ったのだ。不器用な人だ。
——不器用でも、味方がいる。
それだけで、前世とは全然違う。
窓の外で、秋の虫が鳴いていた。前世のオフィス街では虫の声なんて聞こえなかった。聞こえるのはキーボードを叩く音と、上司の溜息だけ。
五千金貨の鎖は重い。でも、前世の鎖は——目に見えなかったぶん、もっと重かった。
明日、クラウスの工房に行こう。あの人は壊れた物を直す天才だ。壊れた計画も、もしかしたら——。
ソフィアが温かいハーブ水を持ってきてくれた。「お嬢様、お顔が怖いですわ」と言いながら。
怖い顔をしていたらしい。笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……ソフィア、ありがとう」
「お嬢様こそ、ありがとうございます。いつも」
右手がほのかに温かくなった。『+2』。
五千金貨には程遠い。でも、ゼロじゃない。




