第4話 お茶会にホワイトボードを持ち込んだ令嬢
お茶会の招待状には、処刑の日時は書いてなかった。
ヘルムシュタット侯爵家主催の秋の茶会。王都の貴婦人二十名ほどが招かれる社交の場——という名目だけれど、エルヴィラ侯爵夫人にとっては「息子の婚約者を披露する品評会」だ。
私にとっては、作戦決行の舞台。
朝から感謝ポイントの残高を確認した。二百四十八ポイント。ホワイトボード召喚に必要なのは五十ポイント。十分すぎるほど余裕がある。
召喚は自室でこっそり行った。白い板が虚空から現れる瞬間は何度見ても慣れない。マーカーも三色セットで。赤、青、黒。前世の会議室を思い出す匂いだ。
ソフィアに手伝ってもらい、ホワイトボードを大きな布で包んで馬車に積んだ。ソフィアは「お嬢様、本気ですか」と青い顔をしていたけれど、私は本気だ。
◇
侯爵家の庭園。白い石のテラスにテーブルが並び、銀の茶器が秋の陽光に輝いている。苺のジャムを添えた白パンの甘い匂い。前世のアフタヌーンティーの五倍は豪華だ。
ヴィクトルが私の隣に立ち、にこやかに貴婦人たちに挨拶している。この人は社交の場では完璧な紳士を演じるから厄介だ。「素敵なご婚約者ね」という貴婦人たちの賛辞に、ヴィクトルは謙遜の微笑みで応じる。
さて。
お茶が一巡りした頃、ヴィクトルが立ち上がった。
「皆様、少しお時間をいただきたい。婚約者のリーゼロッテが、この半年で学んだことを披露させていただこうと思います」
——来た。
予想通りだ。「教育の成果」を公の場で見せる。うまくできれば自分の手柄、失敗すれば「まだまだ教育が必要」と婚約維持の理由にする。どちらに転んでもヴィクトルが得をする構造。前世のパワハラ上司が部下にプレゼンをやらせて、成功すれば「俺が指導した」、失敗すれば「使えない」と言うのと同じだ。
「リーゼロッテ、淑女の挨拶作法を実演しなさい」
ヴィクトルが振り返る。社交用の笑顔。目だけが冷たい。
私は立ち上がった。深呼吸を一つ。
「ヴィクトル様、実演の前に一つ、お願いがございます」
「何かな?」
「この半年の教育で学んだことを、より正確にお伝えするために——」
私は馬車から運ばせておいた包みの布を解いた。
白い板が姿を現す。
テラスがざわめいた。貴婦人たちが首を傾げている。ヴィクトルの眉が僅かに動く。エルヴィラは——微笑みのまま、目だけがこちらを測っている。
「これは『白板』と申しまして、図や文字を書いて消せる便利な道具です。ヴィクトル様の教育内容を整理してまいりましたので、ご覧ください」
赤のマーカーのキャップを外す。かちり。この音が好きだ。プレゼンの始まりの合図。
私はホワイトボードに書き始めた。
まず中央に「ヴィクトル様のご指導内容」と大書。赤のマーカーが白い盤面を走る。会議室で何百回と繰り返した動き。指が覚えている。
左に「自分で考えろ」、右に「勝手に判断するな」。
左に「相談しろ」、右に「頼りすぎだ」。
左に「意見を言え」、右に「口答えするな」。
青のマーカーに持ち替えて、日付を添える。九月七日、十日、十二日、十四日、十七日、二十一日。ソフィアの速記は正確だった。数字は嘘をつかない。前世の営業報告書と同じだ。
矢印で対立関係を示す。赤い矢印が、白い板の上で鮮やかに交差する。前世でプレゼン資料を作っていた頃、上司に「お前の資料はわかりやすすぎて腹が立つ」と言われたことがある。——褒め言葉として受け取っておきます。
テラスが静まり返った。紅茶のカップを口元で止めたまま固まっている貴婦人が何人かいる。
「つまり、ヴィクトル様のご指導は——」
私はフローチャートの結論部分に大きく書いた。
『→ 何をしても不正解』
にっこり。令嬢スマイル全開で。
「前世の——いえ、昔読んだ書物に『ダブルバインド』という概念がございまして。矛盾する指示を同時に出すことで、相手の自主性を奪う話法だそうです。ヴィクトル様は教育にこのような高度な技術を使われているのですね」
沈黙。
ヴィクトルの顔から、社交用の笑みが消えていた。目が泳いでいる。これは付箋の時とは比べものにならない動揺だ。大勢の前でフローチャートにされると、「可愛い反抗だね」で逃げられない。
「リーゼロッテ、これは——」
「わたくし、大変勉強になりました。この構造を理解できたのは、ヴィクトル様のおかげです」
私は深々とお辞儀をした。完璧な淑女のお辞儀。半年の教育の、唯一の成果だ。
貴婦人たちの間にささやきが広がる。「あれは……」「私の夫も同じことを……」「あの図、わかりやすいわね……」
茶会の空気が変わった。
◇
茶会の後。
テラスにはまだ紅茶の香りが残っていた。貴婦人たちが三々五々、馬車に戻っていく。何人かが私にちらちらと視線を送っていた。軽蔑なのか同情なのか、あるいは別の何か——前世でSNSのバズ投稿を見た人たちの顔に似ている。「信じられない」と「わかる」が半々の。
庭園の隅で、クラウスが壊れた噴水の修理をしていた。
ホワイトボードを布で包み直して馬車に戻す途中、クラウスが顔を上げた。作業着に水滴が散っている。
「……さっきの」
「見てたんですか」
「音が聞こえた」
音? ああ、マーカーの音か。ホワイトボードにマーカーで書く音。キュッキュッという、あの独特の摩擦音。
「……あのフロー図」
「はい」
「構造として正しかった」
技術評価なの?
でも不思議と、「よくやったね」より「構造として正しかった」のほうが嬉しい。この人は嘘をつけない人だ。構造が正しくなかったら、そう言う。
「ありがとうございます、クラウスさん」
クラウスは何も言わず、噴水の部品に視線を戻した。耳の後ろが少しだけ赤いのは——気のせいだろう、たぶん。
◇
帰り際。侯爵家の玄関ホールで、エルヴィラが待っていた。
「面白い余興でしたわ、リーゼロッテさん」
微笑み。完璧な微笑み。慈善パーティーのポスターに使えそうな。
「でもね」
声の温度が、一度だけ下がった。秋風が石壁を撫でるよりずっと冷たく。
「——次はないわよ」
そう言って、エルヴィラは踵を返した。足音一つ立てずに。
私は笑顔を保ったまま、背中に冷たいものが走るのを感じていた。
帰りの馬車の中で、ソフィアが「お嬢様、手が震えてます」と指摘してくれた。自分では気づかなかった。アドレナリンが切れたのだ。前世で大事なプレゼンの後、トイレで手が震えるのと同じ。成功しても身体は緊張を覚えている。
ソフィアが温かいハーブ水を差し出してくれた。領地で採れたカモミール。安っぽいけれど、侯爵家の高級紅茶より百倍おいしい。
ヴィクトルは、まだ序の口だ。
本当の敵は、あの人だ。
——でも。
クラウスの「構造として正しかった」が、まだ耳に残っている。
あの一言だけで、もう少し戦える気がした。




