第2話 矛盾の付箋がお部屋を飾る頃
侯爵夫人は、笑顔のまま人の心を折る天才だった。
「まあ、リーゼロッテさん。今日もお勉強、頑張っているのね。偉いわ。……でもね、頑張っているのに結果が出ないのは、才能がないということよ? 残酷だけれど」
にっこりと。完璧な微笑み。完璧な毒。
エルヴィラ・フォン・ヘルムシュタット侯爵夫人。四十八歳。慈善事業で王都に名が知れた淑女。その実態は、息子のヴィクトルを「完璧な後継者」に仕上げるために二十年以上かけて磨き上げられた——モラハラの完成形。
ヴィクトルの「教育」が素人のパワハラなら、この人は熟練の管理職だ。褒めてから否定する。感謝してから支配する。前世の部長の、さらに上司にあたるタイプ。
「あなたのためを思っているのよ」
出た。あなたのため。
ヴィクトルの口癖と一字一句同じだ。——なるほど。親から子へ。モラハラって遺伝するんだ。
私は令嬢らしく頷いて見せながら、内心で観察メモを走らせた。この人の話法パターンは三つ。「褒め→否定」「感謝→支配」「心配→責任転嫁」。前世の管理職研修で配られたハラスメント事例集そのものだ。
◇
侯爵家での「教育」から解放された午後。
私はグリューネ男爵領に戻り、領地を歩いていた。
秋の陽光が痩せた農地を照らしている。収穫を終えたばかりの畑は土がむき出しで、風が吹くたびに乾いた匂いがした。
「お嬢様、それ、持ちますわ」
「いいのよ、ソフィア。これくらい自分で運べる」
私は領民の農家に、余った種芋を届けに来ていた。男爵家の倉庫で見つけた、来年の植え付け用の種芋。どうせ管理する人手もないなら、今のうちに配ったほうがいい。
前世の営業時代、取引先に手土産を持って行く感覚だ。最初の信頼構築は「自分から動く」のが鉄則。
「お嬢様がわざわざ……ありがたいことです」
農家のおばさんが、日焼けした顔をくしゃっとさせて笑った。
右手がふわりと温かくなる。『+2』。
「あの紙、いただけませんか。壁に貼ると虫が寄らなくなるんです」
——紙? ああ、先日渡した付箋のことか。付箋に使われている粘着剤の成分が、この世界の虫には合わないらしい。思わぬ副次効果だ。
「ええ、もちろん。いくらでもどうぞ」
『+3』。
ポイントが積み上がっていく。明日にはもう一束、付箋を召喚できる。
大事なのは、感謝を「求めない」こと。見返りを期待した瞬間、ポイントは入らない。このシステム、地味に厳しい。前世の営業職で鍛えた「まず与える」精神が、まさかこんなところで役に立つとは。
◇
夜。男爵家の自室。
壁一面に付箋が貼ってある。
黄色い正方形の紙に、ソフィアの丁寧な字でヴィクトルの発言が日付つきで記録されている。
九月七日「自分で考えろ」
九月十日「勝手に判断するな」
九月十二日「なぜ僕に相談しない」
九月十四日「僕に頼りすぎだ」
私はこの矛盾の壁を眺めて、腕を組んだ。
「お嬢様……これ、すごいですわ」
ソフィアが付箋を一枚一枚読みながら、目を見開いている。
「ヴィクトル様のおっしゃること、全部反対のことが書いてあります……」
「そうなのよ。これ、前の職場で——いえ、昔読んだ本に書いてあったの。"ダブルバインド"って言うの。何をしても間違いになるように仕向ける話し方」
ソフィアは小声で「だぶるばいんど……」と繰り返した。銀貨12枚分の教本より、付箋一枚のほうがわかりやすい。
「明日、教育の時間にこの付箋を使うわ」
「えっ」
「大丈夫。作戦があるの」
◇
翌日。侯爵家の客間。
ヴィクトルが、いつもの涼しい顔で紅茶を飲んでいる。今日の指導内容は「食事時の会話作法」。
「いいかい、リーゼロッテ。食事中に話題に困った時は——」
「ヴィクトル様」
私はにっこりと笑って、懐から付箋の束を取り出した。
「先日の教育を復習していて、少し疑問が出たものですから、お尋ねしてもよろしいですか」
ヴィクトルは一瞬だけ面食らったが、すぐに余裕の表情を取り戻す。「ああ、いいとも。疑問を持つのは良いことだ」
私はテーブルの上に付箋を並べた。日付順に。
「九月七日、ヴィクトル様は『自分で考えろ』とおっしゃいました。九月十日には『勝手に判断するな』。九月十二日には『なぜ相談しない』。九月十四日には『頼りすぎだ』」
四枚の付箋が、テーブルの上に四角く並ぶ。
「自分で考えろ、でも勝手に判断するな。相談しろ、でも頼るな」
私は小首を傾げた。令嬢らしく。にこやかに。
「……あの、これ、どちらが正解ですか?」
沈黙。
ヴィクトルの銀の茶匙が、かちりとソーサーに当たった。
彼の碧い目が、初めてわずかに揺れるのが見えた。言葉を探している。たぶん、こういう「論理的な反論」をされたことがない。感情的に泣いたり怒ったりする相手なら、「また感情的だね」と処理できる。でも、事実と日付を突きつけられると——。
三秒。五秒。
「……可愛い反抗だね」
ヴィクトルは紅茶のカップを持ち上げた。唇の端に、少しだけ引きつった笑みを貼りつけて。
「論点の整理は悪くない。だが、こういう場で付箋を出すこと自体がマナー違反だ。僕が言いたいのはそういうことではなくてね——」
出た。論点をずらす。前世の部長も得意だった。具体的な反論ができないと、別の問題にすり替える。ハラスメント事例集の第三章に載ってるやつ。
「次はもっと上手にやりなさい。——今日の教育はここまでだ」
席を立つヴィクトルの背中に、私は笑顔のまま「ありがとうございました」と頭を下げた。
負け惜しみだ、ヴィクトル様。あなたは今、初めて論理で返されて、逃げたんだ。
あの一瞬の沈黙。目の揺れ。茶匙がソーサーに当たった乾いた音。彼は間違いなく動揺した。
ほんの小さな亀裂。
でも、亀裂は一度入れば広がる。前世の営業で学んだことだ。
帰り際、領民の子どもが「お嬢様、あの黄色い紙、お花に貼ったら可愛いの!」と駆け寄ってきた。
『+2』。
右手が温かい。ポイントが溜まっていく。
自室に戻ると、壁の付箋が夕日に照らされてオレンジ色に光っていた。前世のオフィスのホワイトボードを思い出す。あの頃は、付箋に書くのはタスクリストばかりだった。「〇〇社へ見積書再提出」「△△の請求書処理」「来週のプレゼン資料作成」。
今、付箋に書いてあるのは、モラハラ婚約者の矛盾発言だ。
人生が変われば、付箋の用途も変わるものだ。
ソフィアが「お嬢様、今日のヴィクトル様のお言葉、追記しておきますね」と、新しい付箋にペンを走らせている。彼女はいつの間にか、速記が上達していた。
「ソフィア、次の教育日はいつ?」
「三日後ですわ」
「それまでに、もっとポイントを溜める」
次はもっと大きなものが召喚できる。——たとえば、ホワイトボードとか。
お茶会があるって、ソフィアが言ってたっけ。侯爵家の。
……面白いことになりそうだ。




