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モラハラ婚約者を正論と現代グッズで撃退する転生令嬢  作者: 秋月 もみじ


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第10話 名前で呼んでいいか


朝、目が覚めた時に怖くない。それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。


冬の朝日が新しい窓から差し込んでいる。男爵家の隙間風だらけの石壁じゃない。グリューネ便利商会の事務所兼住居。小さいけれど、自分の稼ぎで借りた部屋。壁に付箋は貼っていない。もう、矛盾を記録する必要がないから。


窓辺に並んだ植木鉢。ソフィアがハーブを植えてくれた。カモミールとローズマリー。朝日を浴びて、緑の葉が光っている。


前世のアパートには植物を置く余裕がなかった。水やりを忘れるほど忙しかったし、そもそも日当たりが悪くて何も育たなかった。


今は、育つ。



朝食は、ソフィアと一緒に食べる。自分たちで焼いたライ麦パン。バターはまだ高いから、蜂蜜で代用。領地で採れた蜂蜜。金色で、花の香りがする。


「お嬢様、今日の予定です。午前に王都の書店との取引、午後にクラウスさんの工房で新商品の試作、夕方に領民の市場を見回り——」


ソフィアの手帳には、びっしりと予定が書き込まれている。彼女の字は相変わらず正確で美しい。帳簿の才能は事務全般に広がっていて、今やグリューネ便利商会のナンバーツーだ。


「ソフィア」

「はい」

「お嬢様、って呼び方、もうやめない?」


ソフィアが目を丸くした。


「だって、あなたはもう侍女じゃないもの。商会の経理主任でしょう」

「で、でも、ずっとそうお呼びしてきましたし——」

「リーゼでいいわよ」

「……リーゼ、様」

「様もいらない」

「リーゼ……さん」


まあ、一歩ずつだ。



午後。クラウスの工房。


正確には「元・侯爵家の離れの作業部屋」ではなく、「王都商業区画のクラウス・ブレンナー魔道具工房」。彼も独立した。侯爵家の出入り修理技師ではなく、自分の名前で工房を構えている。


相変わらず散らかっている。金属粉と油の匂い。壁一面の工具。試作品の山。前世のホームセンターの匂いに、この工房独特の——なんだろう、真鍮を磨いた時の、少し甘い金属の匂いが混じっている。


クラウスが作業台に向かっていた。新しい商品の設計図を引いている。手描きだけど、相変わらず寸法は0.1ミリ単位。


「こんにちは」

「……ああ」


返事が短い。いつものこと。でも、彼が私の足音で——ドアを開ける前に——こちらを向いたのは、いつからだろう。前は、声をかけても振り向かなかったのに。


作業台の隅に座る。いつもの場所。


「新商品の試作、どう?」

「……あと二日で完成する。接着部の強度が想定より出ない。素材を変える」

「梱包テープの改良版?」

「違う。これは——」


クラウスが手を止めた。設計図をこちらに向けた。


「……密閉容器だ。この世界には気密性の高い保存容器がない。感謝ポイントで召喚したタッパーウェアの蓋機構を参考に——」


タッパーウェア。まさか異世界でタッパーの技術が活きるとは。前世の自分に教えてあげたい。あなたが残業のたびに使っていたコンビニ弁当の保存容器が、異世界の産業を変えます、と。


「いい商品になりそうですね」

「……ああ」


沈黙。でも、居心地のいい沈黙。工具が金属を削る音。キィン、キィン。規則正しいリズム。


「クラウスさん」

「何だ」


クラウスが手を止めない。作業を続けながら聞いている。この人は、手を動かしている時のほうが会話が自然にできる。止まると緊張するらしい。


「あの——」


一ヶ月前から、ずっと考えていたことがある。


この人の前にいると、前世の自分に戻れる。鈴木真琴の口調が自然に出る。令嬢の殻を被らなくていい。前世の知識を隠さなくていい。オタクな自分を抑えなくていい。


それは——恋なのだろうか。


第六話の夜、クラウスが「構造が壊れたなら、別の設計図を引けばいい」と言ってくれた時から、ずっとこの人のことを考えている。でも、恋に逃げたくなかった。侯爵家から解放されて、やっと自分の足で立てるようになったのに、誰かに寄りかかったら——また前世の繰り返しになる。


でも。


寄りかかるのと、隣に立つのは違う。


「クラウスさん——」

「……名前で呼んでいいか」


え。


先に言われた。


クラウスの手が止まっていた。工具を握ったまま、こちらを見ている。灰色の目が——真剣だった。物の構造を見る目ではなく、まっすぐに私を見ている目。


「ずっと——呼び方を、探していた。リーゼロッテ嬢では長い。リーゼロッテでは他人行儀だ。でも、名前で呼ぶのは——」


この人が、こんなに長い文章を人に向かって喋っているのを、初めて聞いた。


「……いいですよ」


笑った。自然に。作り笑いじゃない。


「え、今まで何て呼んでたんですか。心の中で」

「……あんた」

「あんた!?」


ひどい。でも、この人らしい。


「じゃあ私もクラウスって呼びますね。さん付けなしで」

「……好きにしろ」


耳の後ろが赤い。工具を握る指が白い。この人は照れると末端に出る。


「クラウス」

「……何だ」

「ありがとう」


それだけ言った。名前を呼ぶだけで、なんだか胸の奥がじんわり温かい。告白でもなんでもない。ただ名前を呼び合うだけ。でも、それが——始まり、だと思った。


『+5』。


……こんな時にもポイントが入るのか。神様のシステム、空気読まないな。



帰り道。夕暮れの王都を歩く。


石畳の上に初雪がちらついていた。白い欠片が街灯の光に透けて光る。前世の東京の雪は灰色ですぐ溶けたけれど、この世界の雪は白くて、ゆっくり落ちてくる。


ふと、足を止めた。


通りの向こうに、ヴィクトルの姿が見えた。馬車から降りるところだった。隣にエルヴィラがいる。


エルヴィラが何かを言っている。ヴィクトルが頷いている。いつもの光景——のはずだった。


でも。ヴィクトルの表情が、前とは違った。母の言葉を聞きながら、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——自分の口元に手を当てた。「あなたのためを思って」という自分の口癖を、確かめるように。


あの人が変われるかどうかは、分からない。変われなくても、私のせいじゃない。変われたとしても、私のおかげじゃない。


それは——あの人自身の問題だ。



男爵家の——いや、もう「実家」と呼ぶべきか。


父が玄関先で薪を割っていた。痩せた身体で、斧を振り下ろしている。見ていてハラハラする。


「お父様、無理しないで」

「なに、これくらいは。借金がなくなったら身体が軽くてな」


冗談を言える余裕ができたらしい。この人は借金のせいで二十年老け込んでいたのだ。今の笑顔は、十歳は若く見える。


「リーゼ、今夜は一緒に食事をしないか。ソフィアさんが煮込みを——」

「いきます」


前世では、家族で食卓を囲んだ記憶がない。母はいつも仕事で、私は一人でコンビニのおにぎりを食べていた。おにぎりの味は思い出せない。


今夜の煮込みは、きっと覚えている。



夜。自室の寝台の上で、天井を見つめた。


右手のひらが光っている。感謝ポイント。積み上がった光。


このポイントがいくつあるかは、もう数えていない。大事なのは数字じゃない。このポイント一つ一つが、誰かの「ありがとう」だということ。


前世の最後の夜、コンビニのおにぎりを食べながら思った——はずだ。思い出せないけれど、きっと「疲れた」とか「もう限界だ」とか、そんなことを考えていたに違いない。


今夜は、違うことを考えている。


明日のこと。新しい商品のこと。ソフィアの帳簿のこと。クラウスの——クラウスの声。名前を呼んでいいか、と言った時の、あの不器用な声。


今世は、自分で選ぶ。


この仕事も。この場所も。この人たちも。全部。


窓の外で初雪が降り続いている。前世のコンビニおにぎりより、今夜の煮込みのほうがおいしかった。


それだけで、十分だ。

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