第10話 名前で呼んでいいか
朝、目が覚めた時に怖くない。それだけのことが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
冬の朝日が新しい窓から差し込んでいる。男爵家の隙間風だらけの石壁じゃない。グリューネ便利商会の事務所兼住居。小さいけれど、自分の稼ぎで借りた部屋。壁に付箋は貼っていない。もう、矛盾を記録する必要がないから。
窓辺に並んだ植木鉢。ソフィアがハーブを植えてくれた。カモミールとローズマリー。朝日を浴びて、緑の葉が光っている。
前世のアパートには植物を置く余裕がなかった。水やりを忘れるほど忙しかったし、そもそも日当たりが悪くて何も育たなかった。
今は、育つ。
◇
朝食は、ソフィアと一緒に食べる。自分たちで焼いたライ麦パン。バターはまだ高いから、蜂蜜で代用。領地で採れた蜂蜜。金色で、花の香りがする。
「お嬢様、今日の予定です。午前に王都の書店との取引、午後にクラウスさんの工房で新商品の試作、夕方に領民の市場を見回り——」
ソフィアの手帳には、びっしりと予定が書き込まれている。彼女の字は相変わらず正確で美しい。帳簿の才能は事務全般に広がっていて、今やグリューネ便利商会のナンバーツーだ。
「ソフィア」
「はい」
「お嬢様、って呼び方、もうやめない?」
ソフィアが目を丸くした。
「だって、あなたはもう侍女じゃないもの。商会の経理主任でしょう」
「で、でも、ずっとそうお呼びしてきましたし——」
「リーゼでいいわよ」
「……リーゼ、様」
「様もいらない」
「リーゼ……さん」
まあ、一歩ずつだ。
◇
午後。クラウスの工房。
正確には「元・侯爵家の離れの作業部屋」ではなく、「王都商業区画のクラウス・ブレンナー魔道具工房」。彼も独立した。侯爵家の出入り修理技師ではなく、自分の名前で工房を構えている。
相変わらず散らかっている。金属粉と油の匂い。壁一面の工具。試作品の山。前世のホームセンターの匂いに、この工房独特の——なんだろう、真鍮を磨いた時の、少し甘い金属の匂いが混じっている。
クラウスが作業台に向かっていた。新しい商品の設計図を引いている。手描きだけど、相変わらず寸法は0.1ミリ単位。
「こんにちは」
「……ああ」
返事が短い。いつものこと。でも、彼が私の足音で——ドアを開ける前に——こちらを向いたのは、いつからだろう。前は、声をかけても振り向かなかったのに。
作業台の隅に座る。いつもの場所。
「新商品の試作、どう?」
「……あと二日で完成する。接着部の強度が想定より出ない。素材を変える」
「梱包テープの改良版?」
「違う。これは——」
クラウスが手を止めた。設計図をこちらに向けた。
「……密閉容器だ。この世界には気密性の高い保存容器がない。感謝ポイントで召喚したタッパーウェアの蓋機構を参考に——」
タッパーウェア。まさか異世界でタッパーの技術が活きるとは。前世の自分に教えてあげたい。あなたが残業のたびに使っていたコンビニ弁当の保存容器が、異世界の産業を変えます、と。
「いい商品になりそうですね」
「……ああ」
沈黙。でも、居心地のいい沈黙。工具が金属を削る音。キィン、キィン。規則正しいリズム。
「クラウスさん」
「何だ」
クラウスが手を止めない。作業を続けながら聞いている。この人は、手を動かしている時のほうが会話が自然にできる。止まると緊張するらしい。
「あの——」
一ヶ月前から、ずっと考えていたことがある。
この人の前にいると、前世の自分に戻れる。鈴木真琴の口調が自然に出る。令嬢の殻を被らなくていい。前世の知識を隠さなくていい。オタクな自分を抑えなくていい。
それは——恋なのだろうか。
第六話の夜、クラウスが「構造が壊れたなら、別の設計図を引けばいい」と言ってくれた時から、ずっとこの人のことを考えている。でも、恋に逃げたくなかった。侯爵家から解放されて、やっと自分の足で立てるようになったのに、誰かに寄りかかったら——また前世の繰り返しになる。
でも。
寄りかかるのと、隣に立つのは違う。
「クラウスさん——」
「……名前で呼んでいいか」
え。
先に言われた。
クラウスの手が止まっていた。工具を握ったまま、こちらを見ている。灰色の目が——真剣だった。物の構造を見る目ではなく、まっすぐに私を見ている目。
「ずっと——呼び方を、探していた。リーゼロッテ嬢では長い。リーゼロッテでは他人行儀だ。でも、名前で呼ぶのは——」
この人が、こんなに長い文章を人に向かって喋っているのを、初めて聞いた。
「……いいですよ」
笑った。自然に。作り笑いじゃない。
「え、今まで何て呼んでたんですか。心の中で」
「……あんた」
「あんた!?」
ひどい。でも、この人らしい。
「じゃあ私もクラウスって呼びますね。さん付けなしで」
「……好きにしろ」
耳の後ろが赤い。工具を握る指が白い。この人は照れると末端に出る。
「クラウス」
「……何だ」
「ありがとう」
それだけ言った。名前を呼ぶだけで、なんだか胸の奥がじんわり温かい。告白でもなんでもない。ただ名前を呼び合うだけ。でも、それが——始まり、だと思った。
『+5』。
……こんな時にもポイントが入るのか。神様のシステム、空気読まないな。
◇
帰り道。夕暮れの王都を歩く。
石畳の上に初雪がちらついていた。白い欠片が街灯の光に透けて光る。前世の東京の雪は灰色ですぐ溶けたけれど、この世界の雪は白くて、ゆっくり落ちてくる。
ふと、足を止めた。
通りの向こうに、ヴィクトルの姿が見えた。馬車から降りるところだった。隣にエルヴィラがいる。
エルヴィラが何かを言っている。ヴィクトルが頷いている。いつもの光景——のはずだった。
でも。ヴィクトルの表情が、前とは違った。母の言葉を聞きながら、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——自分の口元に手を当てた。「あなたのためを思って」という自分の口癖を、確かめるように。
あの人が変われるかどうかは、分からない。変われなくても、私のせいじゃない。変われたとしても、私のおかげじゃない。
それは——あの人自身の問題だ。
◇
男爵家の——いや、もう「実家」と呼ぶべきか。
父が玄関先で薪を割っていた。痩せた身体で、斧を振り下ろしている。見ていてハラハラする。
「お父様、無理しないで」
「なに、これくらいは。借金がなくなったら身体が軽くてな」
冗談を言える余裕ができたらしい。この人は借金のせいで二十年老け込んでいたのだ。今の笑顔は、十歳は若く見える。
「リーゼ、今夜は一緒に食事をしないか。ソフィアさんが煮込みを——」
「いきます」
前世では、家族で食卓を囲んだ記憶がない。母はいつも仕事で、私は一人でコンビニのおにぎりを食べていた。おにぎりの味は思い出せない。
今夜の煮込みは、きっと覚えている。
◇
夜。自室の寝台の上で、天井を見つめた。
右手のひらが光っている。感謝ポイント。積み上がった光。
このポイントがいくつあるかは、もう数えていない。大事なのは数字じゃない。このポイント一つ一つが、誰かの「ありがとう」だということ。
前世の最後の夜、コンビニのおにぎりを食べながら思った——はずだ。思い出せないけれど、きっと「疲れた」とか「もう限界だ」とか、そんなことを考えていたに違いない。
今夜は、違うことを考えている。
明日のこと。新しい商品のこと。ソフィアの帳簿のこと。クラウスの——クラウスの声。名前を呼んでいいか、と言った時の、あの不器用な声。
今世は、自分で選ぶ。
この仕事も。この場所も。この人たちも。全部。
窓の外で初雪が降り続いている。前世のコンビニおにぎりより、今夜の煮込みのほうがおいしかった。
それだけで、十分だ。




