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モラハラ婚約者を正論と現代グッズで撃退する転生令嬢  作者: 秋月 もみじ


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第1話 それ、前の職場で聞きました


「——君は本当に、何もできないんだね」


目の前の男が、呆れたように溜息をつく。

金髪碧眼。仕立ての良い深緑のフロックコート。白い手袋に包まれた指が、銀の茶匙を弄んでいる。絵画から抜け出たような整った顔立ちが、完璧な軽蔑をこちらに向けていた。


「先日のエチケットの試験、また不合格だったそうじゃないか。僕がわざわざ教本を選んでやったのに」


……ああ。これ、知ってる。

前の部長と同じだ。


「カップの持ち方一つ満足にできない。歩き方も、お辞儀の角度も、何一つ身についていない。君のためを思って言っているんだよ? 僕の婚約者として恥ずかしくない振る舞いを——」


うん。知ってる。「お前のためを思って」は、上司が残業を押しつける時の常套句だ。前世で百回は聞いた。


前世。


——前世?


頭の奥で、何かがかちりと噛み合った。

銀の燭台に照らされた広い客間が、一瞬だけ蛍光灯の明かりに変わる。オフィスの匂い。コピー機のインクと、安い缶コーヒー。


私は鈴木真琴。三十歳。食品メーカーの営業職。十年間、ブラック企業で歯を食いしばって働いた。有給は取れなかった。推しのライブにも行けなかった。土日出勤は当たり前、水曜日のノー残業デーだけが心の支えだった。

最後に覚えているのは、終電を逃した帰り道で視界がぐらりと傾いたこと。冬の道路が近づいてくる感覚。それきり。


——それで、ここにいる。


リーゼロッテ・フォン・グリューネ。十八歳。グリューネ男爵家の一人娘。

家の現状は、一言で言えば「零細企業」。隙間風だらけの石壁の館。半分しか焚けない暖炉。侍女はソフィア一人。領地の農地は痩せていて、まともな収穫は期待できない。お父様の顔色がいつも悪い理由は、たぶん借金。


そして目の前の男——ヴィクトル・フォン・ヘルムシュタット。侯爵家の嫡男にして、私の婚約者。社交界では「非の打ち所のない紳士」で通っているらしい。実態は、こうして婚約者を「教育」と称して精神を削る男だけれど。


「……聞いているのかい、リーゼロッテ」


ヴィクトルの声が、少しだけ低くなった。これも知ってる。前の部長が「聞いてるのか鈴木」と言う時の、あの苛立ちを隠した声と同じトーン。


「ええ。聞いています、ヴィクトル様」


私は背筋を伸ばした。

前世の記憶が完全に馴染むまで、たぶんもう少し時間がかかる。リーゼロッテの十八年分の記憶と、鈴木真琴の三十年分の記憶が、頭の中で混ざり合って少し眩暈がする。


でも一つだけ、はっきりわかることがある。


前世では逃げられなかった。

十年間、「もう少しだけ頑張ろう」と自分に言い聞かせて、最後には身体のほうが先に諦めた。

逃げていいんだと気づいた時には、もう手遅れだった。


今世では、耐えない。


「……今日の教育はこれで終わりにしよう。次回までに、淑女の歩行作法を三百回練習しておくように」


ヴィクトルが席を立つ。すれ違いざまに、微かに上等な香水の匂いがした。

その背中を見送りながら、私は内心で前世の退職願のフォーマットを思い出していた。



ヴィクトルが去った後の客間は、急に静かになった。

銀の燭台の炎が揺れている。テーブルの上には、手をつけていない紅茶が冷めかけていた。


部屋の隅で、ソフィアが心配そうにこちらを見ている。栗色の髪を簡素に束ねた二十歳の侍女。グリューネ男爵家生まれで、リーゼロッテの——いや、私の、たった一人の味方。


「お嬢様……大丈夫ですか。お顔の色が……」


ソフィアの声が小さく震えている。ヴィクトル様の「教育」の間、彼女はいつもあの隅で、拳を握りしめて立っている。何も言えないまま。前世の後輩が、部長の説教中に私を見ていた目と同じだ。


「大丈夫よ。ありがとう、ソフィア」


何気なく言った言葉だった。

前世では忙しさにかまけて、部下にすらろくに言えなかった「ありがとう」。この世界では、呼吸するように出てくる。不思議なものだ。


ソフィアの目がわずかに潤んだ。

「……お嬢様に、そんなふうに言っていただけるの、私だけですわ」


その瞬間。


右手のひらが、温かくなった。


見下ろすと、淡い光が指の隙間から漏れている。丸くて、柔らかくて、どこか懐かしい光。

手のひらの上に、半透明の文字列が浮かんだ。


『感謝ポイント:+3 現在の合計:3pt』


は?


私は手のひらを二度見した。三度見した。光はすぐに消えたけれど、代わりに頭の中に薄っすらとした知識が流れ込んでくる。


——感謝ポイント。他者に心から感謝された時に蓄積されるポイント。一定量で「前世の記憶にある物品」を一つ召喚できる。強要や見返りを求めた感謝は無効。自然な感謝のみ有効。


つまり。

人にありがとうと思ってもらえるたびに、前世の道具が手に入る。


……何それ。転生特典? いや、特典にしてはシステムが妙に限定的だ。前世で過労死した私への神様の補填だとしたら、もうちょっと豪華でもいい気がする。魔法とか、チートステータスとか。


でも。

ヴィクトルの顔が脳裏をよぎる。「君は何もできないんだね」と、銀の茶匙を弄びながら涼しい顔で言い放つあの表情。


前世の道具が手に入るなら。

ボールペンがあれば記録ができる。

付箋があれば矛盾を可視化できる。

ホワイトボードがあれば論理を整理できる。

ボイスレコーダーがあれば——証拠が残る。


ブラック企業で十年間、上司のパワハラと戦いながら身につけた技術がある。証拠を集めて、論理で詰めて、逃げ道を塞ぐ。何度も、何度も、プレゼン資料を作り直したあの粘り強さ。


あの時の自分は、武器の使い方を知っていたのに、使う場所を間違えていた。会社のためじゃなくて、自分のために使えばよかった。


私は右手を握りしめた。手のひらの光の残像が、まだほのかに温かい。


「ソフィア」

「はい、お嬢様」

「明日から、ヴィクトル様が私におっしゃったことを全部、紙に書き出してもらえる? 日付と時間つきで」


ソフィアが目を丸くする。


「お嬢様、それは……何のために」

「備えよ。前の……いえ、昔の知り合いの受け売りよ。記録は武器になるの」


ソフィアはしばらく私の顔をじっと見つめて、それから小さく頷いた。

「……かしこまりました。お嬢様がそうおっしゃるなら」


その夜。

隙間風が石壁を鳴らす寝室で、私はベッドの上に座って手のひらを見つめていた。


『感謝ポイント:5pt 召喚可能物一覧:付箋(10pt) ボールペン(5pt)』


——ボールペン。あと0ポイント。今すぐ召喚できる。


でも、まだだ。付箋のほうが先だ。ヴィクトルの発言を記録して、矛盾を洗い出すには付箋が要る。あと5ポイント。明日、領民の手伝いでもすれば——。


暖炉の薪が、ぱちりと小さく爆ぜた。

館の外では秋風が木の枝を揺らしている。固いライ麦パンの夕食の味が、まだ舌の奥に残っていた。


前世の最後の夜は、コンビニのおにぎりだった。——味は思い出せない。


今夜のライ麦パンは、塩が効いていて、噛むほどにほろ苦かった。ソフィアが焼いてくれたものだ。


不思議と、前世の最後の夜より、ずっと温かい。

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